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第4章
一時限目
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芒星学園はナヴァリア州立の初等学校である。
入学年齢に細かな規定はないが、読み書きや計算に歴史や神聖法学などの基本を教える。結果として生徒は十歳前後の子どもばかりだった。
ナヴァリア州が戦禍に見舞われたとき、州立学校はどれも閉鎖されてしまった。戦後も財政難が続いて閉鎖はそのまま。王国との貿易復旧によってようやく州の経済が上向き始め、まずは初等学校が再開されたのだった。
芒星学園の教室は、芒星城の二階に置かれている。
芒星城は城と言っても名ばかりで、州の経済や文化を振興するための多目的施設だ。多大な予算をかけて造られたものの、経済がどん底なうえに過疎も進んでいるナヴァリア州では施設の利用者もろくにおらず、すっかり閑古鳥が鳴いていた。
王国との貿易によって少しずつ商人が集まり始めてはいるが、まだまだ使われていない部屋も多い。そこで教室に利用することを領主のアニスが決めた。
今の芒星学園はまだクラスが一つしかない小さな学校だ。教師も一人だけ、生徒も三十人ちょっと。
できたてほやほやだが、生徒はもともと近所付き合いがあったり、同じ私塾に通っていたりしたので顔見知りが大半だ。ぎこちない時期はすぐに過ぎてクラスの人間関係もいくつかにまとまり、小さな階層社会が生まれつつある。
領主アニスの方針で、芒星学園は身分に関係なく門戸を開いている。とは言え、親の身分が違えば子どもにも影響してしまう。大貴族の子を筆頭に大商人の子らが取り巻き、外れて平民グループがいくつか生じている。
クラスのトップに君臨しているのがパトリシア・パリエ・ナヴァス。アニスの従妹で、パリエ郡を仕切る大地主の娘だ。
一時限目を前にして、そのパトリシアが教室に入ってきた。他の生徒たちも続く。
パトリシアは褐色の肌で大きな釣り目、ぷっくりした唇と長くカールした赤髪が映える。子どもながらも目を引く少女だ。紅の布に金糸の派手なドレスがよく似合う。いずれは大変な美女になるだろうと大人たちは太鼓判を押していた。
教室には机と椅子が三列の弧を描くように並べられている。
パトリシアは迷わず中央の最前列に陣取った。
その周囲を彼女の取り巻きたちが埋めていく。
別グループの子どもが近くの席を取ろうとしたら、取り巻きが目で威圧し、体で壁を作って追い払う。
子どもたちが座り終わると、グループの上下関係が露わになっていた。
中央に君臨するパトリシアがクラスの女王。脚を組み、堂々とした態度を見せつけている。
その左右と後ろは取り巻きたちの席で、偉そうに周囲を睥睨している。
パトリシアは席の配置が固まったことにほっとしていた。いずれは父からパリエ郡の領地を引き継ぎ、ナヴァリア州の領主にも成り代わらねばならない彼女だ。クラスの支配は父の期待に応える第一歩だった。
取り巻き筆頭の少女ドゥルセが自慢げに目配せをしてきた。はっとしたパトリシアは鷹揚に頷いてみせ、
「この席、気に入ったわ。ドゥルセ。褒美を楽しみにしてなさい」
皆に聞こえるように言った。
ドゥルセの顔がぱっと輝き、他の取り巻きは悔しそうな表情を浮かべる。
ドゥルセの親は商人のダギル・ラミロ。
パトリシアは父に頼んでラミロとの取引を増やしてもらうつもりだ。きっとドゥルセは親から大いにほめられることだろう。
主たる者、手柄を立てた部下には特別扱いをしてみせねばならない。そうすれば部下は寵を競うようになって支配しやすくなる。
父のエルフィリオ・パリエ・ナヴァスからはそう教えられている。
パトリシアは学校の授業を楽しみにしていた。
彼女の住むパリエ郡はナヴァリア州の平野部にあって、広大な畑が広がっている。どこまで行っても畑ばかり、変わったものや新しいものなんてあるわけもなかった。
跡継ぎの一人っ子であるパトリシアは箱入り娘の扱いで、ろくに出かけさせてもらえない。都会に住むなんて夢のまた夢。
けれども学校の授業でならばパリエ郡にはないような本を読んだり、作文をしたりもできるはずだ。本の中の知らない世界に出かけたり、自分で空想していることを書いたりできるのだ。
お屋敷ではそんなそぶりを毛ほども見せたことはないパトリシアだ。父は学問嫌いで本も読まない。取り巻きたちもパトリシアが本を読みふけったりしていたらがっかりすることだろう。
学校での授業だけがチャンスだった。
一時限目の鐘が鳴り、教室にクレシータ先生が入ってくる。
いよいよ授業だと期待に胸を高鳴らせたパトリシアは、続いて入ってきた少女にきょとんとした。
クレシータ先生の後ろに隠れている少女は、頭の上に猫のような獣耳を揺らしている。
見るからに華奢な少女だ。先生の背中を掴んで陰に回りながらも、クラスの様子をにらみつけている。
パトリシアの胸が、先ほどとはまた違った意味で高鳴った。なんて珍しいのだろう、今までに見たこともない猫の魔族だ。お屋敷の皆に話したくてたまらない。
それに、なんてかわいらしいのだろう。どう見ても弱そうで怯えているのに喧嘩腰。まるで気の立った子猫みたいだ。後ろに長く束ねた黒髪が怯えた尻尾みたいに震えている。
教壇にクレシータ先生が上がった。クレシータ先生は二十代のふくよかな女性で、強い意志のこもった目と元気な動きが授業熱心な雰囲気を感じさせる。
「皆さん、今日は新しい生徒を紹介します」
クレシータ先生は大声で言ってから、後ろの獣耳少女を両手で前に押し出した。
「マリベル・デル・アブリルさんです。お家の都合で入学が遅れたそうですが、やる気満々だそうですよ。皆さん、負けないようにしましょうね」
紹介された少女マリベルは皆の前で途方に暮れた様子だ。
クラスがざわめく。
パトリシアの取り巻きたちは警戒心を剥き出しにマリベルを値踏みしている。作り上げた支配構造に異物は邪魔なのだ。
「マリベルさん、自己紹介をしてください」
クレシータ先生が促す。
「ザ…… マリベルは本を読めるようになるんだもん。お姉ちゃんみたいになれるよう絶対がんばるもん」
マリベルは強気な言葉を弱々しく言う。
マリベルの挨拶に満足したクレシータ先生はクラスを眺めまわして、
「そうですね。なじみやすい席がいいでしょう。そこにします」
パトリシアの隣、ドゥルセの席を指さした。
「な……」
ドゥルセの顔が蒼ざめる。
「ドゥルセさん、協力ありがとうございますね」
クレシータ先生は反論の暇を与えずにドゥルセを席からどかせた。そしてマリベルを空いた席に押し込める。
マリベルは借りてきた子猫のように縮こまる。
パトリシアは隣のマリベルを見たくてたまらないが、取り巻きの手前もあり、授業も始まったので懸命に我慢する。視界の隅でマリベルの獣耳が揺れていて、パトリシアはせっかくの授業なのに気もそぞろだ。
一時限目は歴史の授業だった。子ども向けの歴史書が教科書に使われている。
かつて魔族の王国が滅んでナヴァリア州に魔族が逃げてきたこと、マリベルもその子孫なのだろうといった話を先生が語る。
鐘が鳴って一時限目が終わった。
一心不乱に授業を聞いていたマリベルはまだ授業の内容を反芻しているようだった。
そのマリベルをパトリシアの取り巻きたちが囲もうとする。
「あなた、調子に乗っているんじゃ」
だが、他の生徒たちが一斉にマリベルへ押し寄せる。
「その耳、作り物じゃないの?」
「どこから来たの?」
「なんで入学が遅れたの?」
「どこに住んでるの?」
「かわいい!」
「耳に触らせて!」
パトリシアもその輪に加わりたくてうずうずしていたが、権威がある行為とは到底言えない。ようやく就いたクラスの女王の座から降りることにもなりかねないだろう。でもお話をしたい。
煩悶していたパトリシアは、マリベルの獣耳がぺしょんと折れてしまっていることに気付いた。周り中から言葉を浴びせられて怖がっているのだ。
パトリシアは悩む。
マリベルを助けてあげたい。でも取り巻きたちはそれを望まない。新しく来たマリベルはクラスの底辺に位置せねばならないからだ。
そうしている内に二時限目が始まり、ようやくマリベルは解放された。ぐったりと疲れた様子だ。
二時限目の算数が終わるとまたマリベルは取り囲まれて言葉を浴びせられた。
パトリシアはためらっている内に、マリベルに言葉をかける機会も助ける機会も逸した。
その調子で三時限目も終わり、今日の授業は終わってしまった。
マリベルは皆を振り払って逃げるように帰ってしまい、パトリシアは明日こそはと誓った。だが、そんな明日は来なかったのだった。
翌日。
皆が席に就いている中で、マリベルの席はぽつんと空いていた。
「やっぱりこの席はあたくしのものよね」
ドゥルセがマリベルの席に座ろうとしたときだった。
黒い霧のようなものが教室の外から流れ込んでくる。
重々しい足音が近づいてくる。
教室の扉が開く。
扉が小さく見えるほどの巨躯が侵入してくる。
漆黒の禍々しい鎧兜に全身を固めた暗黒の騎士。
兜の奥には赤い眼が焔のように輝き、重なり合った刺々しい装甲の隙間からは暗黒の瘴気が流れ出て、マントをなびかせているかのようだ。燃え上がるような音が響いている。
教室は言葉が途絶えて静まり返る。
皆はただ暗黒騎士を凝視している。あまりに恐ろしくて動くこともできない。
騎士は重々しく歩んでマリベルの席に着いた。子ども用の椅子がひどく軋む。
周りの生徒たちが呆然とする中、パトリシアは自分の役割を思い出した。自分こそはクラスの女王、こういうときにはクラスを代表せねばならないのだ。
パトリシアは震える脚を押さえつけてなんとか立ち上がり、黒い騎士を見据えた。心臓がばくばくして、冷たい汗が服を濡らす。
騎士は座っていてもパトリシアよりも高い。その姿は物語から出てきた悪魔のようだ。
パトリシアは恐怖に叫びたくなるのを懸命に抑え込み、懸命に話しかけた。
「私は…… 私はパトリシア・パリエ・ナヴァス! ナヴァリアをしろしめす偉大なる血統の継承者ですわ! あなた、勝手に座って無礼ですわよ、名乗りなさい!」
言われた騎士はゆっくりと立ち上がり、パトリシアに向き直った。
地獄の底から聞こえてくるような低い声で、
「……デス・ザニバルだもん。お家は芒星城の隣の塔、帝都から越してきたもん。勇者係をしてたら入学が遅れたの」
そこで皆を見回して、
「がんばるから勉強の邪魔をしないでね。もし、邪魔をしたら……」
恐怖で皆が息を止める。
ザニバルと目が合った生徒たちが次々に気絶する。
話は終わったと判断して、ザニバルはおもむろに座り直した。正面の授業用石板を無言で見据えている。
パトリシアは歯の根が合わなくてがちがちと音を立てる。
デス・ザニバル。ナヴァリアにやってきた暗黒騎士。それがどうして教室に。
そこでパトリシアは思い至った。マリベルはいったいどうなってしまったのだ。
「そ、そこはマリベルの席でしてよ。座らないでくださいまし!」
パトリシアは思わず叫んでしまった。暗黒騎士相手に文句を言ってしまったのだと気付いて心臓が停まりそうになる。
ザニバルはゆっくりと兜を傾けてパトリシアと眼を合わせた。赤い眼がちらちらと瞬く。
「……だって怖かったんだもん」
それだけ言ってザニバルは眼を外した。
なぜかパトリシアはそれ以上ザニバルを責める気持ちになれなかった。
一時限目の鐘が鳴った。教室に入ってきたクレシータ先生はザニバルを見た途端に反転してどこかへと消え失せた。そして領主のアニスに連れられて戻ってくるまでに随分と時間がかかったのだった。
入学年齢に細かな規定はないが、読み書きや計算に歴史や神聖法学などの基本を教える。結果として生徒は十歳前後の子どもばかりだった。
ナヴァリア州が戦禍に見舞われたとき、州立学校はどれも閉鎖されてしまった。戦後も財政難が続いて閉鎖はそのまま。王国との貿易復旧によってようやく州の経済が上向き始め、まずは初等学校が再開されたのだった。
芒星学園の教室は、芒星城の二階に置かれている。
芒星城は城と言っても名ばかりで、州の経済や文化を振興するための多目的施設だ。多大な予算をかけて造られたものの、経済がどん底なうえに過疎も進んでいるナヴァリア州では施設の利用者もろくにおらず、すっかり閑古鳥が鳴いていた。
王国との貿易によって少しずつ商人が集まり始めてはいるが、まだまだ使われていない部屋も多い。そこで教室に利用することを領主のアニスが決めた。
今の芒星学園はまだクラスが一つしかない小さな学校だ。教師も一人だけ、生徒も三十人ちょっと。
できたてほやほやだが、生徒はもともと近所付き合いがあったり、同じ私塾に通っていたりしたので顔見知りが大半だ。ぎこちない時期はすぐに過ぎてクラスの人間関係もいくつかにまとまり、小さな階層社会が生まれつつある。
領主アニスの方針で、芒星学園は身分に関係なく門戸を開いている。とは言え、親の身分が違えば子どもにも影響してしまう。大貴族の子を筆頭に大商人の子らが取り巻き、外れて平民グループがいくつか生じている。
クラスのトップに君臨しているのがパトリシア・パリエ・ナヴァス。アニスの従妹で、パリエ郡を仕切る大地主の娘だ。
一時限目を前にして、そのパトリシアが教室に入ってきた。他の生徒たちも続く。
パトリシアは褐色の肌で大きな釣り目、ぷっくりした唇と長くカールした赤髪が映える。子どもながらも目を引く少女だ。紅の布に金糸の派手なドレスがよく似合う。いずれは大変な美女になるだろうと大人たちは太鼓判を押していた。
教室には机と椅子が三列の弧を描くように並べられている。
パトリシアは迷わず中央の最前列に陣取った。
その周囲を彼女の取り巻きたちが埋めていく。
別グループの子どもが近くの席を取ろうとしたら、取り巻きが目で威圧し、体で壁を作って追い払う。
子どもたちが座り終わると、グループの上下関係が露わになっていた。
中央に君臨するパトリシアがクラスの女王。脚を組み、堂々とした態度を見せつけている。
その左右と後ろは取り巻きたちの席で、偉そうに周囲を睥睨している。
パトリシアは席の配置が固まったことにほっとしていた。いずれは父からパリエ郡の領地を引き継ぎ、ナヴァリア州の領主にも成り代わらねばならない彼女だ。クラスの支配は父の期待に応える第一歩だった。
取り巻き筆頭の少女ドゥルセが自慢げに目配せをしてきた。はっとしたパトリシアは鷹揚に頷いてみせ、
「この席、気に入ったわ。ドゥルセ。褒美を楽しみにしてなさい」
皆に聞こえるように言った。
ドゥルセの顔がぱっと輝き、他の取り巻きは悔しそうな表情を浮かべる。
ドゥルセの親は商人のダギル・ラミロ。
パトリシアは父に頼んでラミロとの取引を増やしてもらうつもりだ。きっとドゥルセは親から大いにほめられることだろう。
主たる者、手柄を立てた部下には特別扱いをしてみせねばならない。そうすれば部下は寵を競うようになって支配しやすくなる。
父のエルフィリオ・パリエ・ナヴァスからはそう教えられている。
パトリシアは学校の授業を楽しみにしていた。
彼女の住むパリエ郡はナヴァリア州の平野部にあって、広大な畑が広がっている。どこまで行っても畑ばかり、変わったものや新しいものなんてあるわけもなかった。
跡継ぎの一人っ子であるパトリシアは箱入り娘の扱いで、ろくに出かけさせてもらえない。都会に住むなんて夢のまた夢。
けれども学校の授業でならばパリエ郡にはないような本を読んだり、作文をしたりもできるはずだ。本の中の知らない世界に出かけたり、自分で空想していることを書いたりできるのだ。
お屋敷ではそんなそぶりを毛ほども見せたことはないパトリシアだ。父は学問嫌いで本も読まない。取り巻きたちもパトリシアが本を読みふけったりしていたらがっかりすることだろう。
学校での授業だけがチャンスだった。
一時限目の鐘が鳴り、教室にクレシータ先生が入ってくる。
いよいよ授業だと期待に胸を高鳴らせたパトリシアは、続いて入ってきた少女にきょとんとした。
クレシータ先生の後ろに隠れている少女は、頭の上に猫のような獣耳を揺らしている。
見るからに華奢な少女だ。先生の背中を掴んで陰に回りながらも、クラスの様子をにらみつけている。
パトリシアの胸が、先ほどとはまた違った意味で高鳴った。なんて珍しいのだろう、今までに見たこともない猫の魔族だ。お屋敷の皆に話したくてたまらない。
それに、なんてかわいらしいのだろう。どう見ても弱そうで怯えているのに喧嘩腰。まるで気の立った子猫みたいだ。後ろに長く束ねた黒髪が怯えた尻尾みたいに震えている。
教壇にクレシータ先生が上がった。クレシータ先生は二十代のふくよかな女性で、強い意志のこもった目と元気な動きが授業熱心な雰囲気を感じさせる。
「皆さん、今日は新しい生徒を紹介します」
クレシータ先生は大声で言ってから、後ろの獣耳少女を両手で前に押し出した。
「マリベル・デル・アブリルさんです。お家の都合で入学が遅れたそうですが、やる気満々だそうですよ。皆さん、負けないようにしましょうね」
紹介された少女マリベルは皆の前で途方に暮れた様子だ。
クラスがざわめく。
パトリシアの取り巻きたちは警戒心を剥き出しにマリベルを値踏みしている。作り上げた支配構造に異物は邪魔なのだ。
「マリベルさん、自己紹介をしてください」
クレシータ先生が促す。
「ザ…… マリベルは本を読めるようになるんだもん。お姉ちゃんみたいになれるよう絶対がんばるもん」
マリベルは強気な言葉を弱々しく言う。
マリベルの挨拶に満足したクレシータ先生はクラスを眺めまわして、
「そうですね。なじみやすい席がいいでしょう。そこにします」
パトリシアの隣、ドゥルセの席を指さした。
「な……」
ドゥルセの顔が蒼ざめる。
「ドゥルセさん、協力ありがとうございますね」
クレシータ先生は反論の暇を与えずにドゥルセを席からどかせた。そしてマリベルを空いた席に押し込める。
マリベルは借りてきた子猫のように縮こまる。
パトリシアは隣のマリベルを見たくてたまらないが、取り巻きの手前もあり、授業も始まったので懸命に我慢する。視界の隅でマリベルの獣耳が揺れていて、パトリシアはせっかくの授業なのに気もそぞろだ。
一時限目は歴史の授業だった。子ども向けの歴史書が教科書に使われている。
かつて魔族の王国が滅んでナヴァリア州に魔族が逃げてきたこと、マリベルもその子孫なのだろうといった話を先生が語る。
鐘が鳴って一時限目が終わった。
一心不乱に授業を聞いていたマリベルはまだ授業の内容を反芻しているようだった。
そのマリベルをパトリシアの取り巻きたちが囲もうとする。
「あなた、調子に乗っているんじゃ」
だが、他の生徒たちが一斉にマリベルへ押し寄せる。
「その耳、作り物じゃないの?」
「どこから来たの?」
「なんで入学が遅れたの?」
「どこに住んでるの?」
「かわいい!」
「耳に触らせて!」
パトリシアもその輪に加わりたくてうずうずしていたが、権威がある行為とは到底言えない。ようやく就いたクラスの女王の座から降りることにもなりかねないだろう。でもお話をしたい。
煩悶していたパトリシアは、マリベルの獣耳がぺしょんと折れてしまっていることに気付いた。周り中から言葉を浴びせられて怖がっているのだ。
パトリシアは悩む。
マリベルを助けてあげたい。でも取り巻きたちはそれを望まない。新しく来たマリベルはクラスの底辺に位置せねばならないからだ。
そうしている内に二時限目が始まり、ようやくマリベルは解放された。ぐったりと疲れた様子だ。
二時限目の算数が終わるとまたマリベルは取り囲まれて言葉を浴びせられた。
パトリシアはためらっている内に、マリベルに言葉をかける機会も助ける機会も逸した。
その調子で三時限目も終わり、今日の授業は終わってしまった。
マリベルは皆を振り払って逃げるように帰ってしまい、パトリシアは明日こそはと誓った。だが、そんな明日は来なかったのだった。
翌日。
皆が席に就いている中で、マリベルの席はぽつんと空いていた。
「やっぱりこの席はあたくしのものよね」
ドゥルセがマリベルの席に座ろうとしたときだった。
黒い霧のようなものが教室の外から流れ込んでくる。
重々しい足音が近づいてくる。
教室の扉が開く。
扉が小さく見えるほどの巨躯が侵入してくる。
漆黒の禍々しい鎧兜に全身を固めた暗黒の騎士。
兜の奥には赤い眼が焔のように輝き、重なり合った刺々しい装甲の隙間からは暗黒の瘴気が流れ出て、マントをなびかせているかのようだ。燃え上がるような音が響いている。
教室は言葉が途絶えて静まり返る。
皆はただ暗黒騎士を凝視している。あまりに恐ろしくて動くこともできない。
騎士は重々しく歩んでマリベルの席に着いた。子ども用の椅子がひどく軋む。
周りの生徒たちが呆然とする中、パトリシアは自分の役割を思い出した。自分こそはクラスの女王、こういうときにはクラスを代表せねばならないのだ。
パトリシアは震える脚を押さえつけてなんとか立ち上がり、黒い騎士を見据えた。心臓がばくばくして、冷たい汗が服を濡らす。
騎士は座っていてもパトリシアよりも高い。その姿は物語から出てきた悪魔のようだ。
パトリシアは恐怖に叫びたくなるのを懸命に抑え込み、懸命に話しかけた。
「私は…… 私はパトリシア・パリエ・ナヴァス! ナヴァリアをしろしめす偉大なる血統の継承者ですわ! あなた、勝手に座って無礼ですわよ、名乗りなさい!」
言われた騎士はゆっくりと立ち上がり、パトリシアに向き直った。
地獄の底から聞こえてくるような低い声で、
「……デス・ザニバルだもん。お家は芒星城の隣の塔、帝都から越してきたもん。勇者係をしてたら入学が遅れたの」
そこで皆を見回して、
「がんばるから勉強の邪魔をしないでね。もし、邪魔をしたら……」
恐怖で皆が息を止める。
ザニバルと目が合った生徒たちが次々に気絶する。
話は終わったと判断して、ザニバルはおもむろに座り直した。正面の授業用石板を無言で見据えている。
パトリシアは歯の根が合わなくてがちがちと音を立てる。
デス・ザニバル。ナヴァリアにやってきた暗黒騎士。それがどうして教室に。
そこでパトリシアは思い至った。マリベルはいったいどうなってしまったのだ。
「そ、そこはマリベルの席でしてよ。座らないでくださいまし!」
パトリシアは思わず叫んでしまった。暗黒騎士相手に文句を言ってしまったのだと気付いて心臓が停まりそうになる。
ザニバルはゆっくりと兜を傾けてパトリシアと眼を合わせた。赤い眼がちらちらと瞬く。
「……だって怖かったんだもん」
それだけ言ってザニバルは眼を外した。
なぜかパトリシアはそれ以上ザニバルを責める気持ちになれなかった。
一時限目の鐘が鳴った。教室に入ってきたクレシータ先生はザニバルを見た途端に反転してどこかへと消え失せた。そして領主のアニスに連れられて戻ってくるまでに随分と時間がかかったのだった。
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