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第6話

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 オイゲン博士が口を開く。

「わたしは太陽ソル系の外に出たことがなくてね」

 シルバーベルで投げられた言葉とは違う、穏やかな口調にハイファが応える。

「機密とされる研究に長年携わってこられたからですね」
「そう、殆ど軟禁状態だったといってもいい」
「せっかくのクルーズに僕らみたいなのがくっついてきて、すみません」
「きみらもわたしの翻意を促すよう命令された身だろう、仕方あるまい」
「ご存じなんですね」

 肩を竦めてみせたオイゲン博士は、僅かにシニカルな響きを持たせて言った。

「幾度も尋問めいた場に引きずり出されたからね、まるで犯罪者のように。こうしてクルーズに出たのはそんなテラ連邦への当てつけでもあるのだが……ただ伴侶も友人もいないわたしは人付き合いも苦手でね」
「それこそ申し訳ないです」
「いや、どうも文献と実験漬けだったわたしは言葉遣いが下手なのだよ。最期の三ヶ月でそれを学べるかという意図もあり、このクルーズに申し込んだのだ。それで肩肘の張るスイートクラスは避けた。だからある意味きみたちもお手本なのだよ、わたしにとってはね」

 全て丸投げされたハイファが丁寧に頭を下げた。

「それは大変光栄なお言葉です。でも僕らが果たしてお手本になるかどうか……」
「構わんよ、何もかもに興味がある。余命いくばくもない身だが性分でね。それで、きみたちをどう呼べばいいのだろうか、ハイファス=ファサルートと若宮志度」
「宜しければパーソナルネームで。僕はハイファス、こちらはシドでお願いします」
「ふむ。研究チームと変わらんのだな」

 ずっと窓外に目を向けていたシドが呟く。

「出航だ」

 同時に鐘の音が放送で流された。騒々しいファンファーレが鳴り始めオイゲン博士がリモータ操作してボリュームを最小にする。

 巨大豪華旅客艦・ペルセフォネ号の出航自体は静かなものであった。どんな宙艦とも変わらない、反重力装置で緩やかに上昇してゆくだけだ。大気の影響で瞬く星々がシンチレーションをやめてくっきりと見え出すまで、たった十分ほどだった。

「ところでオイゲン博士、俺たちもガードする以上は知っておきたいんですが、非常に不躾な質問をしても宜しいですかね?」
「わたしの病気のことだね?」

 読まれるのは前提でシドはあっさり頷く。

「数々の研究上で浴びた放射線や薬物によって遺伝子が傷ついたのだよ。臓器培養しても全てガン化してしまう。免疫機能を失いかけたこの躰はもう、戻らない」
「……なるほど」
「わたしはね、シド、ハイファス。きみたちが羨ましくも恨めしい。そんな若さを、健康を見せられると、胸を掻きむしりたいような衝動に駆られるよ。わたしはその若さや健康を犠牲にして研究し大勢の人間を、テラ連邦を助けてきたというのに、得たものはこの、遺伝子が傷つき他人より五十年近くも早く老いぼれた身体だけだ」

 その激情は抑えた声色ながら鋭い刃のようにシドとハイファに向けられた。

「わたしは何にでも興味を持つ性分で知識こそ得られたが、人より短い人生で形あるものは何ひとつ得られなかった。だったら何が欲しかったのかと問われても今更答えられはしない。沢山ありすぎて答えられないのだ。全てが研究の名の下にこの両手の指から零れ落ちていったよ。だからシドにハイファス。わたしは何ひとつ残さず死んでゆくつもりだ」

 それは事実上、オイゲン博士のテラ連邦への復讐宣言だった。

 艦内放送は二十一時からのウェルカムディナーと、それに伴うドレスコードなどについてアナウンスしている。

「そういうことで、悪いがきみたちの仕事に協力する気はない。けれどきみたちもテラ連邦から命令された身、気持ちは分かる。だからせめてこの非日常を愉しんでくれたまえ」
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