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第10話

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◇◇◇◇

 ファイバの地面を突き破って生えてきた木は、三階の自分の研究用多機能デスクの丁度真下に当たる場所にあった。
 それを見つけてからというもの、自分の知らないうちに排除されてしまうのではないかと心配で堪らなくなった。

 毎朝、いや、日の出ている間、一日何度も窓から確かめた。それでも心配だったので研究対象である印のコードを印刷したタグを付け、ようやくホッとしたのだった。

 殆ど軟禁状態でテラ連邦のために研究に邁進せねばならなかった自分。
 そんな己の得られなかった外の世界の自由というものの象徴のように、その木を見ていたのだと後になって思う。
 小さくとも力強い、檻を打ち破って出てきた存在が羨ましくも愛おしかった。

 夏の酷暑にも、冬の木枯らしにも耐え抜き、木は成長した。
 自由を求めて破裂しそうだった心は、その木を見ることで宥められた。

 そして六十数年の間に木は立派な樹となり、窓の下を眺めずとも目前で枝葉に触れられるまでになっていた。

 大地から生え出し、大空を掴もうとするかの如く枝を張り、葉を茂らせ、時には小さな白い花まで咲かせた大樹。日当たりが悪くなるだろうから枝を切りましょうかと問われ、今思えば自分でも可笑しくなるくらい激怒したこともあった。

 それなのに研究所を去る日、樹を自分で切った。

 直径三十センチ近くなっていた樹を、研究所のメンテ係から道具を借りて根元から切り倒した。あれほど大切にしていたのに、あんなに日々を共にしたのに……残骸となった自分には折れ曲がり横倒しになった樹がふさわしいとでも思ったのか。

 とにかくあの樹は、もうない。
 あの樹がない自分には帰るところがない。

◇◇◇◇

「おい、博士。博士!」
「何……だね、騒々しい」
「騒々しいくらいがいいんだよ。目ぇ覚ませよ、あとで幾らでも眠れるっつったのは、あんただろうが。今から昼寝してどうすんだ。何か飲め。水か、コーヒーか?」
「……コーヒーを頂こう」

 どうやらスマートな護衛を辞めて地でゆくことにしたらしいシドと、腕に固定された無針タイプの点滴とを見比べて博士は溜息をついた。
 一五〇八号室である。

「ハイファはあんたの治療方針がどうのって話、訊きに行ってるぜ」
「きみたちは昼食を摂ったのかね?」
「一日五食も食わせる豪華旅客艦で一食ぐらい抜いても死にゃしねぇよ。……ほれ」

 ベッドを起こして角度をつけ、付属のテーブルにシドはコーヒーカップを置いてやる。元は自分が飲みたくて淹れてあったコーヒーで、シドもカップを持ったままだ。

「あんたこそ腹は減ってねぇのか?」
「いや、十三時半か。二時間近くも眠っていたんだね」
「そういうことになるな。……なあ」

 デスクの椅子を引きずってきてシドはベッドサイドに置き前後逆に座る。背凭れに両腕を載せ、博士に向かった。

「そんなに研究ってつまらなかったのかよ?」
「……」
「研究しててさ、今日より明日がもっと楽しみだったことはなかったのか? 逆に今この瞬間に刻が止まればいいってくらい嬉しかったことはなかったのかよ?」

 言われて回想する。――そう、思ったこともあった。

 あの薬を合成できた日も、テンダネスの自律思考部位に大容量IBX量子コンピュータの組み込みが成功した日も、あの樹は自分のデスクの前で、さわさわと葉擦れを聴かせて一緒に喜んでいるようでもあった。

 それでも真っ直ぐな切れ長の目に眩しさを感じ、僅かに顔を背ける。

「だが、わたしには何も残っていない。帰るところさえも」
「それな。寝言で言ってたけどさ、じゃあ誰になら帰るところがある? 家庭がありゃいいのか? 田舎に実家がありゃいいのかよ?」
「どちらも私には羨ましくも妬ましいものだよ」
「そうか、どっちも持ってねえのは俺も同じだ」

 サラリと言い切ったシドをオイゲン博士は目を見開いて見つめた。

「けどな、俺は作ったぜ? 俺の帰るところはハイファがいる所だ。そう決めた。これに関しちゃ天才のあんたも凡人の俺も条件は同じ。なのに作らなかっただけだろ。せいぜい羨ましがれってんだ」
「惚気られてしまったか。何も残っていないのはわたしの怠慢かね?」
「そこまでは言わねぇよ。でも実際、目に見え手で触れられて他人に誇れる物なんて残せる人間の方が少ねぇと思うし、あんたは残したんじゃねぇかって思うんだがな」

 説得するでもなく、ただ事実を淡々と述べているような目前の若者に、博士はそれでも思い返す。作っても作っても、この手の指の間から零れ落ちてゆき、何ひとつ残らなかった人生を。

「そうだろうか……伴侶との間に子を成し、友の心に記憶が残る。最期に旅立つときは誰でも独りだが、見送ってくれる人々がきみにはいる。わたしにはいない。どちらが意義のあることだろうか。わたしはやはりきみが羨ましいよ」
「無い物ねだりしてるように聞こえるぞ。若きホープ、長じて天才研究者って鳴り物入りでテラに期待されて、研究に必要なモノも全て揃えられて嬉しくなかったのか? それだけ上等な脳ミソ持ってりゃ馬鹿のふりして逃げるのも可能だっただろ」

 そうシドに言われて再び思い出す。僅か十六歳でスキップして大学院を出、研究所入りした日の晴れがましかった気持ちを。

 でもあの時は、あそこまで縛られた生活が六十年以上も続くなどとは思っても見なかった。それにこの老いて病んだ身……結局、誰からも顧みられることなく独りで逝くのだ。俯いてカップの中の液体に目を落としている博士にシドは溜息をついた。

「ふん、どうやら平行線みたいだな。ふあーあ、俺は他人の命を奪おうとする奴の命を叩き折る、死刑執行人程度でしかないデキの悪さに感謝するかな」
「……奪うのは怖くないのかね?」
「ああ、怖くねぇよ。俺は罪もないのに傷つけられ命を奪われる人間を目の前で看過することの方がよっぽど怖い。けど御大層に何かの代理として撃つんじゃねぇ、俺は俺という人間として敵を撃つ。だから世界から命の数を減らす行為も怖くねぇ。納得しているからな」
「納得している? そうか……」

 そのときノックの音とハイファの声がし、シドがロックを解く。
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