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第9話

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 翌朝は七時半過ぎに早速オイゲン博士からリモータ発振が入った。
『仕事に協力する気はない』と宣言したものの、護衛としての二人は尊重してくれるのは有難い。

 博士の頭脳に収められている機密はソースコードだけではない。勝手にうろうろされ身辺に異変があったときに居合わせられなかったでは済まされないのだ。

 一五〇八号室をノックするとオートドアが開く。

「博士、おはようございます」
「おはようございます」
「ああ、おはよう」

 ドレスコードのない朝である。ハイファはドレスシャツにソフトスーツ、シドは綿シャツにコットンパンツと対衝撃ジャケットという刑事ルックだ。
 二人の姿を眩しげに見た博士はベージュのスラックスにブラウンのヘリンボーンのジャケット、琥珀のループタイで紐は凝った編みの臙脂といった、なかなか洒落た格好だった。

「さて、朝食は一日の活力源だ。行くとするかね」

 メインダイニングは昨夜と違って席の指定はなかった。だがこういった場所でよくあるビュッフェ形式ではない。ホスピス艦だからであろう、席に着くとメニュー表がテーブル上にせり上がってきて、そのボタンを押すだけになっている。

 トーストやオムレツにサラダなどといったものがセットになっていて、各々がボタンを押すと、さほど待たずに注文品は運ばれてきた。

「旨いけどオムレツはハイファ、お前の勝ちだな」
「本当? それは嬉しいかも。今度作る時、気合い入っちゃうよ」

 トーストをゆっくり咀嚼していた博士がコーヒーをひとくち飲んで訊いてきた。

「ハイファス、きみは料理をするのかね?」
「ええ。この人、何にもできませんから」
「一緒に暮らしているのかい?」
「殆どそんなものです」
「ふむ……なるほど」

 それ以上の突っ込みがなかったので博士がどう解釈したのかは不明だったが、取り敢えずは白状したも同然で二人はホッとする。また伴侶を得られなかった恨み言などを聞かされずに済んだのも安堵した一因だ。

 食後のコーヒーを味わいながら、博士はポケットから出したピルケースの中身を掌に開けてタンブラーの水で飲み下した。チラリと見えたそれは十数種、二十錠くらいはあった。

「博士、今日はどうなさいますか? 午前中に最上階のトップラウンジでビンゴ大会なども催されるようですが」
「そうか。だがビンゴ大会もいいが、こういう所に来た以上、男の子ならばまず艦内探検だろう。上から順に下って行くとしようか」
「体調が宜しければ」
「まだすぐにはペルセフォネの許には行きそうもない。すまんがもう暫くは付き合って貰おう。シド、煙草を吸いに行くのだろう。一本分けて貰えるかな?」
「吸うんですか?」
「一時期吸っていたことがある。残りの人生もあと僅か、やれることなら全てやり尽くしたい強欲なのでね」

 どのフロアにも付属しているスモーキングルームで一服しながら、乗艦してから却って良くなったように思われる博士の顔色を観察しつつ訊いた。

「質問、いいですかね?」
「ソースコード以外なら、何なりと」
「博士の医学とか化学はともかく、何でいきなり植物学なんです?」

 意外なことを訊かれたとでもいう風に博士はシドの顔を眺めたのちに口を開く。

「木がね、一本生えてきたんだよ。それこそきみくらいの歳の頃にね。……研究所から出られないわたしが敷地内のファイバの地面を散歩していた時に見つけたのだ。ファイバの地面をものともせずに突き破って生えてきた木。それをどうしても枯らしたくなかった。それで色々と知りたくなってね」

 はあ、などど聴いていたシドは揶揄でなく感心する。

「へえ、それがきっかけですか。デキる人は違いますね」
「全てお膳立てされ一生缶詰で過ごせば、いい加減誰でも没頭せずにはいられんよ」
「それでも向き不向きっつーか、目を付けられるだけの能力がなければ、博士みたいにありとあらゆる成果を生めはしないと思いますがね」
「残ったのはこの、搾り滓のオレンジの如き老人だ。何も得ず、何も持たず消えてゆく。何も残さずにね。そろそろオブザベーションラウンジ辺りに行ってみようか」

 そう言って立ち上がった博士はゆっくりながらエレベーターホールに足を運んだ。

 最上階の十七階にはオブザベーションラウンジとトップラウンジがある。トップラウンジにはゲームセンターと軽い催しができるホールがあったが、今日の催しであるビンゴ大会はまだ始まってはいなかったので、それほど混み合ってはいなかった。

 隣のオブザベーションラウンジは薄暗く、天井と壁が全て透明の素材で作られており、ソファでくつろぎながらプラネタリウムばりの光景が愉しめた。

 メインダイニングの階はあらかた見ているのでとばし、十六階のメインホールとカードルームを覗く。ホールは無人、カードルームでは朝早くからコントラクトブリッジやポーカーゲームに忙しい人種を眺めた。

 九階がウェディングチャペルと美容室にエステルームやネイルサロン、八階がシネコンと図書館だ。勿論美容室やエステを覗く訳にいかないのでチャペルとシネコン、図書館を見て回っただけだったが、やはり博士は図書館の紙媒体の本に興味があるようだった。

「ここなら終生を過ごせそうだ。だが今日は探検だったね」
「お疲れじゃないですか?」
「そのうち飽きるほど眠らなければいけないんだ、行こう」
「ではエレベーターで。こちらのようです」

 五階と六階が吹き抜けのショッピングモールだが収容客数に比して大きいため閑散としているように見える。ブティックに土産物店、レストランに喫茶室まであった。ドレスコードに縛られたくない者はここにくるのだろう。
 逆にドレスコードで困ればこのショッピングモールでドレスやスーツを新調することもできる。

 更に下って四階が海を模した波のあるプールと隣がアイススケート場だった。スタッフが監視員として配置されているそこでは子供だけでなく親や兄、姉であろう大人までが遊びはしゃいでいた。
 これだけ元気に遊んでいる中の何人かが人生のリミットを切られているなどとは、にわかには信じられないシドだった。

 三人でビーチ際のファイバの道を歩いているとビニールボールが飛んできて反射的にシドが受け止めた。ボールのあとを追ってきたのは花紺色のワンピース型水着を着た、シドたちとあまり歳も変わらないくらいの女性だった。

 ボールを手渡すと濡れた赤毛のかかった頬を染めて礼を言う。少しはにかんだ笑顔の瞳は不思議に透明で澄んでいた。

 蒸し暑い温度設定のプールを出てもう一階下れば散策に丁度良い公園である。綺麗に刈られた芝のあちこちを切り抜いたように花壇があり、色とりどりの花が咲いている。
 木立の間をファイバの小径が通り、十五メートル置きくらいにベンチがしつらえてあった。コイルまでが完備されている。

 コイルはAD世紀における自動車と同じ、だがタイヤはなく小型反重力装置を備えていて、僅かに地から浮いて走る。目的地に着き停車するときに車底からサスペンションスプリングが出るのでコイルと呼ばれるようになったらしい。

 ベンチ脇にはオートドリンカと灰皿があり、ここなら幾らでも過ごせそうだとシドは思った。植樹された樹々が緑を滴らせ、コイルが陽に似せた光を弾いている。

 少し歩きベンチに博士は腰掛けた。シドとハイファは同時に博士の異変に気付く。

「顔色が良くないようですが、大丈夫ですか?」
「ぐるぐる歩いた上に寒い所と暑い所を急に回ったからじゃねぇのか?」
「いや、何でもない。少し疲れただけだ……」
「博士? オイゲン博士――!?」

 オイゲン=ワトソンはベンチの背もたれに突っ伏すようにして意識を手放した。
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