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第8話
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「実際、元・夏木組長のガードというのは非常にポイントが高いと言えます。今やこの周辺のヤクザ社会は長瀬組から風が吹いている状態、人手も足りないのが現状ですから」
浜口会に潜入中というヨレたサラリーマンのようなエージェントは更に続けた。
「大体、夏木組にいたのなら却って身元がはっきりしている訳ですよ。それに長瀬組は複数の手下を『夏木のヒットマン』に殺られましたが、それだけ腕が立つ証拠。おまけに――」
「――分かった。分かったから具体的に俺たちはどうすればいい?」
喋り続けるエージェントを遮って和音は訊いた。
本部庁舎七階の大食堂でミートソースのスパゲッティがメインの昼食を摂った和音とエセルが十三階の第三SIT室に戻ると、すぐにこのエージェントはやってきた。そして二杯目のコーヒーを飲みながら、職業斡旋の口入れ屋の如き科白を並べ立てていたのである。
エージェントは大きく頷いて本題に入った。
「夏木組を見限って抜けた貴方がたは、わたしの知り合いとして浜口会の幹部に売り込む予定です。新入りのわたしを『つて』として頼ってきたという筋書きですね」
「新入りが口を利いた程度で夏木組の元・構成員を長瀬組に結びつけられるのか?」
「それは心配無用です。新入りですが浜口会は大きくありませんので幹部と近く、幹部は長瀬と昵懇ですから。それに貴方がたなら誰でも欲しがること請け合い、心配は要りませんよ」
ここでも『心配要らん』の大安売りで和音は呆れながらも余計に心配が募る。だがチンピラから志願しているヒマはない。便所掃除から始めるなどというお洒落なことなどしていられないのは事実で、このサラリーマンのようなエージェントに従うしかないのであった。
「何とかして長瀬組長のガードに就く手だな。じゃあ、いつ浜口会に行けばいい?」
「明日の午後イチでどうでしょう?」
「構わねぇよ。けど浜口会で長々と過ごすのも勘弁だぜ?」
「それも心配無用ですよ、ここ暫く貸元と代貸が長瀬組の本家に日参してますから。それとわたしは丘島市内の浜口会事務所にいますので、間違えて本家に乗り込まないで下さい。もうひとつ、すみませんがコーヒーもう一杯頂けますか?」
コーヒーサーバを持ち上げたエセルが残りをカップに注いでやると、サラリーマンじみたエージェントは非常に嬉しそうに啜り始める。
そんな男から浜口会は元々博徒系で、故に組長ではなく貸元、若頭ではなく代貸という呼称を使用していることや、だが長瀬組の傘下となった今に至っては、やっていることは何ら変わらないことなどを聞いてしまうと、もう和音は興味もなくなった。
デスクでぷかぷか煙草を吸っているうちに、エージェントはコーヒーを飲み干して帰って行く。大欠伸をした和音はチェーンスモークをやめ、灰皿を片付けた。エセルはカップ類を洗って仕舞う。元々は休日、帰り支度を終えたエセルがふいに呟いた。
「あ、エージェントの名前、訊くの忘れてた」
◇◇◇◇
冷蔵庫の残り物総ざらえのエセルお手製ピザトーストとミネストローネで早めにランチを摂って、和音とエセルはヤクザに潜入する準備を始めた。
先日買ったばかりのランプブラックのドレスシャツとチャコールグレイのスラックスを身に着け、銀糸の刺繍と地模様のあるスレートグレイのタイを締めた和音は、シグ・ザウエルP226の入ったショルダーホルスタを装着してからスーツのジャケットを羽織る。懐の左脇に吊ったシグは勿論、警察のマークである桜の代紋など刻まれていない。
一方のエセルは萌葱色のドレスシャツにココアブラウンのソフトスーツ、タイはアンバーという普段と変わらない格好だった。懐の左脇に吊ったベレッタも腰まで届く長く明るい金髪を宝物の銀の髪留めで束ねてしっぽにしているのも、いつもと同じである。
「うわあ、やっぱり格好いい~っ、和音のスーツ姿! どう見てもヤクザの上級幹部だよ!」
「そいつは果たして褒め言葉なのか? つーか、お前はもう少し何とかならねぇのかよ?」
「無理したって似合わないの、分かってるもん」
「まあなあ。んで、エセルお前、躰の方は大丈夫なのか?」
僅かにエセルは頬を染めて頷いて見せた。暫くお預けになりそうなので、またも明け方、いや、殆ど朝までやらかしてしまったのだ。今回は二人ともに存分に愉しんだのはいいのだが、お蔭で和音もエセルも何となく腰が据わらない状態なのである。
けれど今日はもう午後イチで浜口会事務所に名も知らぬエージェントを訪ねなければならない。既にタクシーも呼んであった。二人分の簡単な着替えもショルダーバッグに詰めてある。
「あっ、タクシーがきたみたい。じゃあ、行こ」
和音は黒のチェスターコートを、エセルも黒いステンカラーコートを着込んだ。
冷蔵庫も片付け、エアコンも切ってあった。戸締まりを確認してエセルがバッグを担ぎ、二人は部屋を出る。前の道にタクシーが停まっていた。ドアをロックして公道まで走りタクシーに乗り込む。和音が「浜口会事務所まで」と告げるとドライバーの顔が少々引き攣った。
ここ暫く分裂中の夏木組を筆頭にヤクザの抗争が激化しているさなかである。
ルームミラーで目立つ二人をチラ見しながらもドライバーは難なくタクシーを街道に乗せた。思ったより空いていた街道を走るタクシー内で和音は低くエセルに囁く。
「お前さ、自分から誰かをタラすのはやめろよな」
「どうして? 仕事だし証拠を掴むチャンスに繋がるならいいじゃない」
「俺が嫌なんだって。分かるだろ?」
「そりゃあ嫉妬してくれるのは嬉しいけど、誰と寝たって僕は何も変わらないよ?」
言いつつエセルだって意に染まない相手に抱かれたい訳ではなかった。だが仕事となれば仕方ないだろうと思う。本当に誰と寝ようと自分は変わらない、そんなことで傷ついたりしないというプライドがあるからこそ躰を張ることができるのである。
そのお蔭で日本にも来られ、ただ一人、心まで預けられる和音とも出会えたのだ。
だから目的のために誰かに抱かれることの何処が悪いのかエセルには分からない。和音の嫉妬心も無論理解できるが、結果として必ず自分は和音の許に戻るのである。それまでの過程で少しだけ互いに我慢する、仕事などそんなものだとエセルは認識していた。
それが和音を不安定で硬くしている大きな一因だということにも気付かずに。
当の和音は余程特殊な男でなければ受け入れることなど不可能なものを突きつけられたにも関わらず、素直に己を狭量だと思い、凹んで溜息をつくばかりだ。
エセルと同じく六歳で身寄りを亡くして以来ずっと集団生活してきたために、却って大切な者との付き合い方を知らないのである。そんな男に独りよがりの束縛と自然な独占欲の区別などつく筈もない。
浜口会に潜入中というヨレたサラリーマンのようなエージェントは更に続けた。
「大体、夏木組にいたのなら却って身元がはっきりしている訳ですよ。それに長瀬組は複数の手下を『夏木のヒットマン』に殺られましたが、それだけ腕が立つ証拠。おまけに――」
「――分かった。分かったから具体的に俺たちはどうすればいい?」
喋り続けるエージェントを遮って和音は訊いた。
本部庁舎七階の大食堂でミートソースのスパゲッティがメインの昼食を摂った和音とエセルが十三階の第三SIT室に戻ると、すぐにこのエージェントはやってきた。そして二杯目のコーヒーを飲みながら、職業斡旋の口入れ屋の如き科白を並べ立てていたのである。
エージェントは大きく頷いて本題に入った。
「夏木組を見限って抜けた貴方がたは、わたしの知り合いとして浜口会の幹部に売り込む予定です。新入りのわたしを『つて』として頼ってきたという筋書きですね」
「新入りが口を利いた程度で夏木組の元・構成員を長瀬組に結びつけられるのか?」
「それは心配無用です。新入りですが浜口会は大きくありませんので幹部と近く、幹部は長瀬と昵懇ですから。それに貴方がたなら誰でも欲しがること請け合い、心配は要りませんよ」
ここでも『心配要らん』の大安売りで和音は呆れながらも余計に心配が募る。だがチンピラから志願しているヒマはない。便所掃除から始めるなどというお洒落なことなどしていられないのは事実で、このサラリーマンのようなエージェントに従うしかないのであった。
「何とかして長瀬組長のガードに就く手だな。じゃあ、いつ浜口会に行けばいい?」
「明日の午後イチでどうでしょう?」
「構わねぇよ。けど浜口会で長々と過ごすのも勘弁だぜ?」
「それも心配無用ですよ、ここ暫く貸元と代貸が長瀬組の本家に日参してますから。それとわたしは丘島市内の浜口会事務所にいますので、間違えて本家に乗り込まないで下さい。もうひとつ、すみませんがコーヒーもう一杯頂けますか?」
コーヒーサーバを持ち上げたエセルが残りをカップに注いでやると、サラリーマンじみたエージェントは非常に嬉しそうに啜り始める。
そんな男から浜口会は元々博徒系で、故に組長ではなく貸元、若頭ではなく代貸という呼称を使用していることや、だが長瀬組の傘下となった今に至っては、やっていることは何ら変わらないことなどを聞いてしまうと、もう和音は興味もなくなった。
デスクでぷかぷか煙草を吸っているうちに、エージェントはコーヒーを飲み干して帰って行く。大欠伸をした和音はチェーンスモークをやめ、灰皿を片付けた。エセルはカップ類を洗って仕舞う。元々は休日、帰り支度を終えたエセルがふいに呟いた。
「あ、エージェントの名前、訊くの忘れてた」
◇◇◇◇
冷蔵庫の残り物総ざらえのエセルお手製ピザトーストとミネストローネで早めにランチを摂って、和音とエセルはヤクザに潜入する準備を始めた。
先日買ったばかりのランプブラックのドレスシャツとチャコールグレイのスラックスを身に着け、銀糸の刺繍と地模様のあるスレートグレイのタイを締めた和音は、シグ・ザウエルP226の入ったショルダーホルスタを装着してからスーツのジャケットを羽織る。懐の左脇に吊ったシグは勿論、警察のマークである桜の代紋など刻まれていない。
一方のエセルは萌葱色のドレスシャツにココアブラウンのソフトスーツ、タイはアンバーという普段と変わらない格好だった。懐の左脇に吊ったベレッタも腰まで届く長く明るい金髪を宝物の銀の髪留めで束ねてしっぽにしているのも、いつもと同じである。
「うわあ、やっぱり格好いい~っ、和音のスーツ姿! どう見てもヤクザの上級幹部だよ!」
「そいつは果たして褒め言葉なのか? つーか、お前はもう少し何とかならねぇのかよ?」
「無理したって似合わないの、分かってるもん」
「まあなあ。んで、エセルお前、躰の方は大丈夫なのか?」
僅かにエセルは頬を染めて頷いて見せた。暫くお預けになりそうなので、またも明け方、いや、殆ど朝までやらかしてしまったのだ。今回は二人ともに存分に愉しんだのはいいのだが、お蔭で和音もエセルも何となく腰が据わらない状態なのである。
けれど今日はもう午後イチで浜口会事務所に名も知らぬエージェントを訪ねなければならない。既にタクシーも呼んであった。二人分の簡単な着替えもショルダーバッグに詰めてある。
「あっ、タクシーがきたみたい。じゃあ、行こ」
和音は黒のチェスターコートを、エセルも黒いステンカラーコートを着込んだ。
冷蔵庫も片付け、エアコンも切ってあった。戸締まりを確認してエセルがバッグを担ぎ、二人は部屋を出る。前の道にタクシーが停まっていた。ドアをロックして公道まで走りタクシーに乗り込む。和音が「浜口会事務所まで」と告げるとドライバーの顔が少々引き攣った。
ここ暫く分裂中の夏木組を筆頭にヤクザの抗争が激化しているさなかである。
ルームミラーで目立つ二人をチラ見しながらもドライバーは難なくタクシーを街道に乗せた。思ったより空いていた街道を走るタクシー内で和音は低くエセルに囁く。
「お前さ、自分から誰かをタラすのはやめろよな」
「どうして? 仕事だし証拠を掴むチャンスに繋がるならいいじゃない」
「俺が嫌なんだって。分かるだろ?」
「そりゃあ嫉妬してくれるのは嬉しいけど、誰と寝たって僕は何も変わらないよ?」
言いつつエセルだって意に染まない相手に抱かれたい訳ではなかった。だが仕事となれば仕方ないだろうと思う。本当に誰と寝ようと自分は変わらない、そんなことで傷ついたりしないというプライドがあるからこそ躰を張ることができるのである。
そのお蔭で日本にも来られ、ただ一人、心まで預けられる和音とも出会えたのだ。
だから目的のために誰かに抱かれることの何処が悪いのかエセルには分からない。和音の嫉妬心も無論理解できるが、結果として必ず自分は和音の許に戻るのである。それまでの過程で少しだけ互いに我慢する、仕事などそんなものだとエセルは認識していた。
それが和音を不安定で硬くしている大きな一因だということにも気付かずに。
当の和音は余程特殊な男でなければ受け入れることなど不可能なものを突きつけられたにも関わらず、素直に己を狭量だと思い、凹んで溜息をつくばかりだ。
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