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第3話
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警務課婦警は腐女子としても名を馳せている。自分が霧島警視にキスを奪われた事実は今日明日中に署内全女性職員にメール配布されるだろう。県警本部でも同じ現象が起こるに違いない。
尾ひれが付いて県警本部及び真城署内に霧島と自分のあらぬ噂が立つのは時間の問題だ。
それでもある程度の真相が広まるなら僥倖である。もっと怖いのは最高に『美味しい物件』をサイテーの『美味しくない物件』が女性職員を目前に、かっ攫ったとされることだった。
そうなれば京哉は女性職員から目の仇にされる可能性もある。
いやいや、自分にとっての問題はそこではない。せっかくの目立たない『幽霊署員』という立ち位置が波打ち際の砂の城の如く崩れ去る音を京哉は聞いた気がした。
これは拙い。何故こうなった、訳が分からない――。
半分パニック・半分冷静という脳内でめまぐるしく並列思考していると、装備係の婦警がカンカンとカウンターをペンで叩いて京哉を振り向かせる。
着席した装備係の婦警は声も出さずに首を傾げて京哉をじっと見た。
装備係だけではなく今や警務課婦警全員の目という目が京哉に突き刺さっていた。
あの霧島と待遇の差があるのは仕方ないが、自分でも青天の霹靂だったのに、どうして野菜についたアブラムシでも見るような視線に晒されなければならないのか。
おまけに壊したパソコンも三台目とくれば、言い出すのに非常な勇気を要した。
そして何とか都合をつけたノーパソを抱えてデカ部屋に戻ってみると、カードゲームでバディの信輔がカモられて本日の深夜番に決定という悲報がもたらされる。
刑事は二人一組というバディシステムが昔から採用されてきた。バディはいつでも背を預け合い、時には命を託し合う。深夜番も例外でなく京哉も一緒に背負うのだ。
◇◇◇◇
警察は殆どの部署が交代勤務だが、管内が至極平和な真城署で夜中に大人数など必要ない。各係差し出しの非常時に対処する連絡要員が数名いれば事足りる。
その深夜番に上番した京哉だったが、事件もなく面白いTV番組もなく、今更信輔と積もる話などある訳もなく、一晩で煙草を三箱吸い、銃を弄ってヒマを潰した。
深夜番は夜間の責任者、課長代理でもある。そのために武器庫のキィも預かっていて、ヒマ潰しに使った銃はそこから持ち出した一丁だった。本当はこうして持ち出すのも宜しくないのだが。
スミス&ウェッソン社製のM360Jサクラなるリボルバで、日本の警察仕様にカスタマイズされた品である。フルロードすれば五発の三十八口径SP弾を発射可能だが、当然ながら弾薬は装填していない。
暴発でもしたら始末書では済まなくなる。
ちなみに京哉たちは刑事であっても普段は銃を持ち歩いていない。余程の凶悪案件が発生してマル被、つまり犯人が逃亡している場合に、ようやく拳銃携帯が可能になる仕組みである。
常に銃を携帯しているのは、いかにも警官ですという格好で狙われやすい制服警官か、初動捜査でマル被と出くわす可能性の高い機捜か、あとは仕事イコール実戦とも云える要人警護のSPくらいだ。
この手の銃が警察内で通称レンコンと呼ばれる元となった回転する蓮根状のシリンダをスイングアウトさせてはガシャリと元に戻すのを延々と繰り返しながら、京哉は霧島が放ったテロ的キスの意味を考えていた。
だが天から降ってきた隕石に理由を訊いても答えが返ってこないのと同じで、幾ら考えても分かる訳などない。
咥え煙草でひたすらガシャリ、ガシャリとやって夜明けを迎え、銃を元に戻し課長のデスクに武器庫のキィを返却した。その一時間半後には本日の在署番が出勤してくる。定時の八時には在署番が全員揃い、引き継ぎをして深夜番を下番した。
信輔から上階の食堂に誘われたが煙草の吸い過ぎで食欲も失せていたので断り、九時前には署を出た。これで明日朝の定時まで自由である。
空は昨日に引き続き、濃いグレイの雲が重たげに垂れ込めていた。三月に入ったというのに底冷えする。昨日の朝、官舎を出る時にコートを忘れたのは失敗だった。
安物スーツに締めたタイを緩める気にもなれない寒さの中、自室のある官舎方向ではなく署の直近のバス停に向かって歩く。
停留所の短い客列に並び、足踏みして寒さに耐えながら待った。
白藤市行きのバスに乗り込むとエアコンの利いた空気にホッとする。通勤ラッシュも終わった車内は空いていて、シートの確保に成功したのもラッキィだった。腰掛けるとすぐに目を瞑る。
周囲の気配に気を配るため眠りはしないが、視覚という膨大な情報をシャットアウトするだけでも脳はある程度休まるものだ。
一時間ほど経って目を開けると、停留所で乗ってきた子供連れの若い母親に席を譲り、窓外に目をやる。バスはもう白藤市に入っていて、光景は一変していた。大通り沿いはごっそりと地面が隆起したようなビルの林立だ。
まるで巨大キノコの株の間に紛れ込んだみたいな錯覚をさせるビル群の谷間には、時折高速道路の高架がカーブしている。
やがて交通量が極端に多くなりバスの進み具合も緩慢になってきて、京哉は『次、降ります』のボタンを押した。
降りると辺りはオフィスビルばかりだったが、それらの一階には洩れなくテナントが入居して割と目に愉しい。サラリーマンの胃袋を満たす定食屋やラーメン屋に牛丼屋などの飲食店から、ちょっと高級そうな化粧品店にブティック、ベーカリーにチョコレートの専門店などを眺める。
相変わらず寒かったが我慢して人通りの多い歩道を暫くぶらぶらと歩いた。その後、幾度かビルの角を曲がる。
裏通りまで来ると携帯に登録していないナンバーに連絡し、短い通話で切った。
告げられた場所への経路は分かっている。前もって資料もメールで渡されていた。深夜番を背負ったのは誤算だったが思考はこれ以上なくクリアだ。
どうせ休暇を取るつもりだったのだ、却って面倒がなくて良かったのかも知れない。
腕時計を見て間に合うと判断し、コンビニでホットの缶コーヒーを買って糖分補給しながら煙草を一本吸うと再び移動を開始した。今度は電車で二区間、あとは歩く。
ここでも幾度か角を曲がり、路地に入り込んでは表通りに出て、慎重に指定の建物に近づいた。辿り着いたそれは雑居ビルで、歯科医院や美容室にゲームセンターなどが入居していた。お蔭でエントランスは開放されエレベーターもフリーパスだった。
そのエレベーターにも幸い同乗者はなく、壁に貼られた案内板で十八階建てというのを確かめながら簡単に屋上階に上がることができた。
尾ひれが付いて県警本部及び真城署内に霧島と自分のあらぬ噂が立つのは時間の問題だ。
それでもある程度の真相が広まるなら僥倖である。もっと怖いのは最高に『美味しい物件』をサイテーの『美味しくない物件』が女性職員を目前に、かっ攫ったとされることだった。
そうなれば京哉は女性職員から目の仇にされる可能性もある。
いやいや、自分にとっての問題はそこではない。せっかくの目立たない『幽霊署員』という立ち位置が波打ち際の砂の城の如く崩れ去る音を京哉は聞いた気がした。
これは拙い。何故こうなった、訳が分からない――。
半分パニック・半分冷静という脳内でめまぐるしく並列思考していると、装備係の婦警がカンカンとカウンターをペンで叩いて京哉を振り向かせる。
着席した装備係の婦警は声も出さずに首を傾げて京哉をじっと見た。
装備係だけではなく今や警務課婦警全員の目という目が京哉に突き刺さっていた。
あの霧島と待遇の差があるのは仕方ないが、自分でも青天の霹靂だったのに、どうして野菜についたアブラムシでも見るような視線に晒されなければならないのか。
おまけに壊したパソコンも三台目とくれば、言い出すのに非常な勇気を要した。
そして何とか都合をつけたノーパソを抱えてデカ部屋に戻ってみると、カードゲームでバディの信輔がカモられて本日の深夜番に決定という悲報がもたらされる。
刑事は二人一組というバディシステムが昔から採用されてきた。バディはいつでも背を預け合い、時には命を託し合う。深夜番も例外でなく京哉も一緒に背負うのだ。
◇◇◇◇
警察は殆どの部署が交代勤務だが、管内が至極平和な真城署で夜中に大人数など必要ない。各係差し出しの非常時に対処する連絡要員が数名いれば事足りる。
その深夜番に上番した京哉だったが、事件もなく面白いTV番組もなく、今更信輔と積もる話などある訳もなく、一晩で煙草を三箱吸い、銃を弄ってヒマを潰した。
深夜番は夜間の責任者、課長代理でもある。そのために武器庫のキィも預かっていて、ヒマ潰しに使った銃はそこから持ち出した一丁だった。本当はこうして持ち出すのも宜しくないのだが。
スミス&ウェッソン社製のM360Jサクラなるリボルバで、日本の警察仕様にカスタマイズされた品である。フルロードすれば五発の三十八口径SP弾を発射可能だが、当然ながら弾薬は装填していない。
暴発でもしたら始末書では済まなくなる。
ちなみに京哉たちは刑事であっても普段は銃を持ち歩いていない。余程の凶悪案件が発生してマル被、つまり犯人が逃亡している場合に、ようやく拳銃携帯が可能になる仕組みである。
常に銃を携帯しているのは、いかにも警官ですという格好で狙われやすい制服警官か、初動捜査でマル被と出くわす可能性の高い機捜か、あとは仕事イコール実戦とも云える要人警護のSPくらいだ。
この手の銃が警察内で通称レンコンと呼ばれる元となった回転する蓮根状のシリンダをスイングアウトさせてはガシャリと元に戻すのを延々と繰り返しながら、京哉は霧島が放ったテロ的キスの意味を考えていた。
だが天から降ってきた隕石に理由を訊いても答えが返ってこないのと同じで、幾ら考えても分かる訳などない。
咥え煙草でひたすらガシャリ、ガシャリとやって夜明けを迎え、銃を元に戻し課長のデスクに武器庫のキィを返却した。その一時間半後には本日の在署番が出勤してくる。定時の八時には在署番が全員揃い、引き継ぎをして深夜番を下番した。
信輔から上階の食堂に誘われたが煙草の吸い過ぎで食欲も失せていたので断り、九時前には署を出た。これで明日朝の定時まで自由である。
空は昨日に引き続き、濃いグレイの雲が重たげに垂れ込めていた。三月に入ったというのに底冷えする。昨日の朝、官舎を出る時にコートを忘れたのは失敗だった。
安物スーツに締めたタイを緩める気にもなれない寒さの中、自室のある官舎方向ではなく署の直近のバス停に向かって歩く。
停留所の短い客列に並び、足踏みして寒さに耐えながら待った。
白藤市行きのバスに乗り込むとエアコンの利いた空気にホッとする。通勤ラッシュも終わった車内は空いていて、シートの確保に成功したのもラッキィだった。腰掛けるとすぐに目を瞑る。
周囲の気配に気を配るため眠りはしないが、視覚という膨大な情報をシャットアウトするだけでも脳はある程度休まるものだ。
一時間ほど経って目を開けると、停留所で乗ってきた子供連れの若い母親に席を譲り、窓外に目をやる。バスはもう白藤市に入っていて、光景は一変していた。大通り沿いはごっそりと地面が隆起したようなビルの林立だ。
まるで巨大キノコの株の間に紛れ込んだみたいな錯覚をさせるビル群の谷間には、時折高速道路の高架がカーブしている。
やがて交通量が極端に多くなりバスの進み具合も緩慢になってきて、京哉は『次、降ります』のボタンを押した。
降りると辺りはオフィスビルばかりだったが、それらの一階には洩れなくテナントが入居して割と目に愉しい。サラリーマンの胃袋を満たす定食屋やラーメン屋に牛丼屋などの飲食店から、ちょっと高級そうな化粧品店にブティック、ベーカリーにチョコレートの専門店などを眺める。
相変わらず寒かったが我慢して人通りの多い歩道を暫くぶらぶらと歩いた。その後、幾度かビルの角を曲がる。
裏通りまで来ると携帯に登録していないナンバーに連絡し、短い通話で切った。
告げられた場所への経路は分かっている。前もって資料もメールで渡されていた。深夜番を背負ったのは誤算だったが思考はこれ以上なくクリアだ。
どうせ休暇を取るつもりだったのだ、却って面倒がなくて良かったのかも知れない。
腕時計を見て間に合うと判断し、コンビニでホットの缶コーヒーを買って糖分補給しながら煙草を一本吸うと再び移動を開始した。今度は電車で二区間、あとは歩く。
ここでも幾度か角を曲がり、路地に入り込んでは表通りに出て、慎重に指定の建物に近づいた。辿り着いたそれは雑居ビルで、歯科医院や美容室にゲームセンターなどが入居していた。お蔭でエントランスは開放されエレベーターもフリーパスだった。
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