あなたがここにいてほしい~Barter.7~

志賀雅基

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第19話

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 秘書室は書類棚と食器棚で二間に区切られた空間だった。
 棚の向こう側はミニキッチンで来客に茶を出すための設備がしつらえてあり、こちら側にはデスクが六台、突き合わせ並べられていた。

 だがそのデスクには二人しか人間が就いていないという淋しさだ。
 そのうちの一人であるツーポイント眼鏡を掛けた若い男に大釜部長は呼び掛けた。

「おーい、新しい配属者がきたから」

 近づいてきた男は細身だが身長は小田切くらいある。愛想笑いも浮かべず四人を眺めると、有名人故か霧島を見て僅かに目を眇め、香坂を目に映して頬を固くした。

「秘書室長の野坂健司のさかけんじです、宜しく」

 それぞれ名乗りながら京哉は、おそらく野坂は香坂を既に知っていると直感する。支社長の秘書が本社社長の御曹司を知っていたって何もおかしくはない。こういう事態も想定して香坂は偽名でなく本名で潜入したのだ。今更問題はなかった。

 あとは野坂と並んだ淡いパープルの制服を着た若い女性だ。これも美人である。それぞれタイプの違うホスト並みの四人を前にして頬を染めながら自己紹介した。

「秘書係、といってもお茶汲み係の白川しらかわ幸恵ゆきえです。どうぞ宜しくお願いします」
「じゃあ頼んだからね」

 朗らかに言って大釜部長は帰って行った。その丸い背をじっと目で追っていた四人に対し、あくまで冷たい視線のまま野坂がパキパキした口調で指示を出す。まずはデスクを割り振られた。ここで残念なことに京哉は小田切の隣に当たってしまう。

 野坂秘書室長の揺らがない物言いに「席替えはアリですか?」とは訊けず、次は支社長に挨拶だった。

 先に支社長室に通じる内部ドアから野坂が入って行き、出てくると入れ違いに四人が足を踏み入れる。京哉が見るに支社長室といっても人事部長室と変わらない、華美さのない部屋だった。ただ勧められた応接セットのソファは異様に座り心地がいい。

 そうして全員が腰を下ろすと内部ドアが開いて幸恵が茶を運んでくる。各人の前に配られたのは緑茶の湯呑みと羊羹が二切れずつだった。民間人に比して遠慮という概念の薄い官品たちは早速黒文字で羊羹をつつく。

 紅茶とコーヒーに緑茶ときてはさすがに腹もちゃぽちゃぽだが、羊羹を食いながら飲んだ茶は余程の高級品らしく非常に旨かった。
 四人全員が糖分補給した頃を見計らって上品なハーフリムの金縁眼鏡を掛けた支社長は、四人というより霧島に向かって微笑みながらフレンドリーな口を利く。

「いや、申し訳ないねえ。霧島くんを顎で使う羽目になるとは、わたしも参ったよ」
「お久しぶりです、魚住うおずみ支社長。白藤経済振興会のパーティー以来でしたか」
「巨大霧島カンパニー次期本社社長に覚えていて貰えたとは、嬉しい限りだよ……っと、いかんな。特別扱いは御法度だと霧島会長からも念を押されているんだった」
「私の父の提案に関して酔狂な枝葉はともかく、本筋では感謝しております」

 特別扱いされずとも、実際には霧島の看板を背負っているので互いにフレンドリーながらも大人の挨拶は欠かせない。

「感謝するのはこちら、香坂堂コーポレーションとしても却って有難い限りだよ」
「そうですか。私も香坂も遠慮なく持ち帰るべきは持ち帰らせて頂きますので」
「ああ、そうして欲しい。霧島くんだけでなく香坂くんも、近くで支社長業務を積極的に盗み見て将来の糧にしてくれると、わたしとしてもこれ以上の喜びはない」

 なるほど、研修の主眼はそこかと京哉は納得した。なかなかに上手く御前と香坂堂本社は、この香坂堂白藤支社の人間を騙す妙案を捻り出したものである。
 香坂怜はともかくとして霧島会長直々の頼みで霧島忍に支社長業務の学習なる機会を与えたら、香坂堂コーポレーションにとって恩は売れてもマイナスになることはない。

 それを香坂堂白藤支社サイドが信じている間は自分たちの身も安全という訳だ。

 そして香坂堂本社は保秘の徹底にも成功しているようで、この支社長以下香坂堂白藤支社の面々は目論見通り四人が本当に研修に来たと今の段階では信じ込んでいるように思われる。ならあとは自分たちがこの支社内をどれだけ探れるかだ。
 気付くと支社長は喋り終え皆が立ち上がっていた。京哉も慌てて腰を上げる。

「では、失礼します」

 代表で霧島が言い、残るサツカン三名は敬礼しそうになったが寸前で気付いて軽い会釈に留めた。けれど一列縦隊で歩調も合わせた姿勢の良すぎる四人は、どう見たって自衛官かサツカンという何れにせよ官品でしかない。コミカルですらあった。

 支社長室から秘書室に出ると割り当てられたデスクに就く。一人に一台のノートパソコンがあり既に起動されていて、早々に野坂が支社長のスケジュールチェックの仕方などをレクチャし始めた。それが終わるともう仕事も本番らしかった。

「霧島さんと香坂さんはこのフォルダ内のファイルを手分けして翻訳して下さい。本日中にパリ支社に送りますが翻訳は英語で構いません。できないならはっきり仰って下さい。業務の妨げになります」
「英語でいいならやってもいい」

 野坂の挑戦的な科白に乗せられるでもなく香坂が気怠そうに返答する。霧島は香坂に頷いただけで野坂の方に目も向けない。気にしたようでもなく冷たい目をしたままの野坂は京哉と小田切にもツケツケと仕事を申し付けた。

「鳴海さんと小田切さんはこのリストにある部署を回って、これらの書類に各部長のサインと捺印をして貰ってきて下さい。部外書類に対し花押では通りませんので注意して下さい」

 ドカリとデスクに置かれた書類はバインダーに挟まれていたが、それでも山盛り一抱えはあった。思わず京哉はバインダーの山と野坂を見比べる。小柄な京哉では抱えて歩くのも難儀そうな量だった。野坂はツーポイント眼鏡の奥で冷たい目をして京哉を見下ろしている。

 京哉は密かに溜息をついた。文句を言っても始まらない。

 だが早速仕事に入った香坂が座った椅子ごと移動して霧島にすり寄り、頬を触れ合わせんばかりにして何やら英単語について相談し始めると一気に頭に血が上った。
 それに暫く体力を使わなくていいと知って余裕ができたのか、香坂はチラリと京哉の方に目を向け、赤い唇の端を吊り上げて見せたのだ。

 明らかに『雑用係』は笑われて京哉は思わず大声を出す。

「小田切さん、二人で行きますよ、二人で!」

 カチンときたのは何も知らない霧島だ。
 当然ながら京哉の提案した『香坂と小田切をくっつける作戦』は覚えていた。だが望んだ状況から少々離れてしまったのは霧島のせいではない。それなのに何故ここで自分が八つ当たりされねばならないのか。

 年下の恋人が小田切と仲良くバインダーを抱えて出てゆくのを、眉間にシワを寄せて見送った。それからあとの翻訳はなかなか頭に入ってこず、遅々として進まなかった。
 香坂に相談されても上の空で生返事しかできず、ただひたすら昼休みになるのを待ち続けた。
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