葉桜

志賀雅基

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第24話

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 左鎖骨と肩胛骨をぶち抜かれただけでなく、左鎖骨下動脈を傷つけられた夕月秋人は、大量の輸血を必要とする七時間の手術に耐えてICUに収容された。
 ただ大量失血のショックから予断を許さない状況が続いており、意識が戻るかどうかは五分五分らしい。

 そんな話を聞きながら雪村紫堂は放心していた。
 血塗れの秋人を抱き締めた途端に全てが分からなくなってしまったのである。現実感が急激に遠ざかり、記憶も映像のコマ送りのようにあちこち途切れていた。

 それでも強く申し出て己の採血限界値ギリギリまで輸血用の血を抜いたので貧血でもあった。そのあと医師から処方されて飲んだ精神安定のための抗不安薬の効果もあるのかも知れない。

 とにかく何もかもの事象が自分の精神表面を上滑りしてゆくばかりだった。今は帳場要員となっている沢木係長や松尾巡査に遠山・箱崎コンビたちまでがニュースを見て驚き駆けつけ、中には血液提供までしてくれた者もいたが、礼を言うことすらできなかった。

 こんなに自分は秋人に依存していたのかと改めて思い知った。
 二年前までの紫堂は『逃げる』ことで生き延びてきた。

 幼い頃から思春期にかけて虐待を受けている間は妄想の世界に逃げ込んで耐えた。一時期は年間三百冊も本を読んだ。全て別世界に行けるフィクションばかりだった。

 幾度か大量服薬し自殺を試みたが、手に入る程度のものでは成功しなかった。一度などは目覚めたら丸二日も日付が飛んでいた。
 その間、同じ屋根の下で暮らしている人間たちは気付いていながら放置したのか、それともまるで気付かなかったのかすら不明ということさえあった。

 大人になって知ったが学齢期にはセルフハーム、つまり自傷行為の一種である抜毛症という、自分で自分の髪を抜いてしまう症状にも陥っていた。ストレスから逃げるための一症例らしい。周囲にからかわれて随分と困惑した覚えがある。

 自傷といえば夏でも紫堂は半袖が着られない。左腕のリストカット痕がただごとではないからだ。ネット上で見受ける『なんちゃってメンヘラ』『構ってちゃん』といった軽い響きの言葉をこれを見た人間はまだ言えるのかと、ごくフラットに思う。
 どう左腕を眺めてみても刃を入れられる箇所なんか残っていないのだ。

 殴られ蹴られるのは当たり前、だが経済的に自立不可能な時期で、ただ耐えるしか道はなかった。拾った猫が子猫を産んでしまい、『始末してこい』と日々の食事を作る文化包丁を渡されたこともある。

 紫堂は何より心を慰めてくれていた猫を殺して埋めた。自分が生きるために。

 自分が生きるために身体だって『殺さないなら、どうぞ』と差し出すしかなかったのだ。怖すぎて瞬きすらできず、何をされているのかこの目で身体で覚えている筈なのに、記憶がすっぽり抜け落ちてしまい、酷いことほど大人になって思い出した。

 あの頃は児童相談所に駆け込むような意志など、日常的かつ圧倒的な暴力を前にして完全に潰されてしまっていた。息を殺して存在感を消し、なお降りかかる理不尽な暴力からひたすら心を逃がして何とか生きていたのだ。

 前へと足掻くのに必死で、厳しく重い記憶まで持ってくる余裕がなかったんじゃないかと紫堂自身は思っている。お蔭で安全で緩んだ時ほど恐怖の記憶が降ってくる。そしてそれらはフラッシュバックとなり日常的に繰り返し襲うのだ。

 やっとの思いで家を出て警察学校に入校できたのは僥倖だった。だがなお暗い過去を引きずり『最低の世界』を覗いては歪んだ安堵に逃げ込み均衡を保つような心を抱え、それをひた隠す紫堂にとって人生とは明かりひとつない闇と変わりなかった。

 そこから救ってくれたのが秋人だといえば、秋人にはきっと重たすぎるだろう。

 けれど事実として二年前、闇の中に一条の光が射して手が伸ばされたのを感じたのだ。縋るようにその手を握ってしまった。掴んだ温かな手に必要以上の力は込められていなかった。『自力で這い上がってこい』とでもいうように。

 それでもあれからずっとその手は、ぶら下がって荷重をかける自分を支え続けてくれていた。お蔭で笑うことも思い出し、フラッシュバックすら減った気がしている。だがまだ自分はスライバーではない。秋人不在の世界に用はないと思うほど依存しているからだ。

 そこまで考えてやっと行動する気力が湧いた。
 ICUの中がガラス窓越しに見えるベンチから紫堂は立ち上がる。懐のヴァーテックの感触を確かめた。ベルトには残弾十一発の秋人のヴァーテックも差してある。合計二キロ近い鋼の塊だ。片方から生ぬるいような血の匂いが漂う。誰でもない、秋人の血だ。

 深く息を吸うともう一度、眠る秋人を振り返った。

「戻ってきてくれ、秋人」

 秋人も戦っている。紫堂は自分も戦うべく篠宮総合病院の階段を駆け下りた。

◇◇◇◇

 病院前からタクシーに乗り込んだがドライバーは終始怯えたようにルームミラーを気にしていた。海に落ちた紫堂はずぶ濡れになった挙げ句、血塗れの秋人を抱き締めたときのままだったからだ。生乾きのスーツとドレスシャツを血が染め抜いている。

 そんな男を乗せたタクシーは超速で県警本部庁舎に着いた。

 料金を支払って降りるとエントランスに駆け込む。十一階までエレベーターで上がって秘書室に足を踏み入れた。だが秘書官は不在で留守番していた制服婦警が紫堂の姿を見て顔をこわばらせる。

「雪村巡査部長ですが、本部長に会えるよう計らって下さい」

 構わず出した声は我ながら棒読み口調で自分が秘書要員なら本部長に会わせるのをためらいそうな陰惨さだった。案の定、食事まで一緒に摂った制服婦警は、ここ数日で更に親しくなった紫堂から目を逸らし、視線を泳がせながら言いづらそうに口ごもった。

「あの……本部長はマスコミの会見に――」
「アポを取れないなら、そのまま入らせて頂きます」

 有無を言わさず言い放ち、踵を返して秘書室を出るとノックもせずに本部長室のドアを引き開ける。だが室内はもぬけの殻で婦警の言ったことはガセではないらしい。
 そこで室内に据えられた大型TVを勝手に点けてみた。丁度ニュースが始まったばかりで、トップの話題は当然ながら現職警察官狙撃事件だった。

 計算ずくで秋人に血を流させた男は、堂々たる風格でメディアの会見に臨んでいた。

 曰く『これは法治国家への反逆であり挑戦である。だが愚かなるテロが市民生活の脅威に能わないことを今こそ我々が知らしめ……』などと呆れるほど薄っぺらな言葉の羅列だったが、神原真司が口にするとそれなりに聞こえるから不思議だ。ある種のカリスマというヤツだろう。

 そのカリスマにプラスして秋人が撃たれた瞬間の映像つきなのだ。メディアの力を完全に手中にした男を紫堂は醒めた目で見る。そのうち飽きてTVを消した。
 ドアの傍の壁に凭れるとスーツの内ポケットから煙草と使い捨てライターを出す。海が浅瀬で助かった煙草はそれでも湿気っていたが、構わず咥えて火を点けた。

 ゆっくりと三本吸い、吸い殻パックを仕舞ったところでドアが開く。制服婦警から紫堂のことは聞いていた筈だが、先に秘書官を入れるという卑怯な真似はせず、神原本部長は銃口を顎の下に食い込まされても何ら動じることはなかった。

 代わりに紫堂の腹にも銃口が突きつけられている。
 互いの本気の殺気を感じているのは分かっていた。

 完璧な無表情で見つめ合い、両者共にトリガに掛かった指は遊びを引き絞った危険な状態である。事実、紫堂は撃ってしまいたい思いを寸前で抑えていた。
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