葉桜

志賀雅基

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第29話

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 紫堂の抜糸が済んだ数日後、秋人と紫堂は一緒に退院した。
 
 まだ秋人の左肩は完治したとは言い難かったが、医師も呆気にとられるほどの驚異的な回復の早さで既にギプスも外れ、通院でのリハビリだけでなく、日常生活もリハビリになるとの判断である。片や紫堂も秋人という監視人が常に傍にいるために退院を許されたようなものだった。

 勿論、秋人に合わせ紫堂も通院するだけでなく、これから殆ど一生、薬を飲み続ける生活を続けなければならないことを紫堂本人だけでなく秋人も承知済みだ。
 家族と縁を切った紫堂にとって秋人は保護者も同然であり、診察室にも一緒に入ることを許されている。何かあった時の緊急連絡先も秋人になっていた。

 それらを書類に記載した時に紫堂が妙に目を赤くしているので秋人が訊くと、

『家族できたみたいだ……それも秋人が』

 そう呟かれて秋人まで泣けそうになったのは秘密である。

 病院のエントランスから出ると梅雨も真っ盛りで温い雨が街を鈍色に変えていた。低気圧のせいで少しつらそうな紫堂をさっさとタクシーに押し込み、秋人も乗り込んだ。県警本部までと告げ、タクシーが走り出すと紫堂が秋人に囁き声で訊く。

「肩、銃なんか吊って大丈夫なのか? まだリハビリも始める前なのに」
「平気だって。もう腕も上がるようになったの、知ってるだろ」

 それでも紫堂は憂い顔だ。まだ鬱で考えがマイナス方向に向くのは仕方ない。何かにつけて感情が上下し泣きも怒りもするのは躁期に多いが、書類の件で今の紫堂が泣くほど喜んでくれたのが嬉しく、秋人個人としても感慨深かった。

 ともかく県警本部庁舎に着くと四階の第五倉庫に上がる。もしかしたら片付けられているかも知れないと思っていたが、室内はそのままだった。心配する紫堂を座らせておいて秋人はコーヒーメーカをセットした。コーヒーが沸くまでの間に警電で秘書室に連絡を入れる。

 マグカップに淹れたコーヒーを飲み、煙草を吸っているとノックの音がした。

 返事も待たずにドアを開けて入ってきたのは、神原本部長その人だった。秋人も話の全てを紫堂から聞いていた。わざわざやってきたのは自分たち二人が本部長室に出入りするよりも、本部長が自ら訪れる方が却って目立たないからだろう。

 簡素な応接セットのソファに神原本部長は座した。コーヒーを出した秋人は本部長に目で促され、紫堂と共に本部長の向かいに腰掛ける。

 二人を見比べて本部長は深く頷いた。

「まずは夕月巡査部長に礼を言う。あの時、きみがいなければ私は確実に殺られていた。心より感謝する。そして退院おめでとう。色々あったらしいが、きみたちが快癒して何よりだった」
「んあ、サンキュ。それで俺たちはいつ篠宮署に戻れるんだ?」

 相変わらず階級を無視した物言いの秋人にも本部長は動じなかったが、問いには顔を曇らせる。それでも口調は断固として歯切れもいい。

「はっきり言おう。予想していた以上に寺本長官を取り巻く闇は深い。斬り込むにも今暫くの時間が掛かりそうだ。それらが一段落するまで、きみたちにはここに留まって貰いたい」
「入院に飼い殺しじゃ、呆けちまいそうなんだがな」
「伏して頼む。それにこれはきみたちの身の安全を図るためでもあるのだ」
「俺たちの身の安全?」

 そこまで静かに話を聞いていた紫堂が発言した。

「あれだけメディアで露出し事情も知った僕らに二射目を浴びせる。特に秋人は危ない。表舞台で撃たれたあんたにとどめを刺す。テロを装う劇場効果と口封じもできて一石二鳥……そういうことですね?」
「雪村巡査部長の言う通りだ。くれぐれも気を付けてくれたまえ」

 それだけ言うとコーヒーを飲み干して、忙しいらしい本部長は第五倉庫を出て行った。咥え煙草で立った秋人は茶器を片付けながら思ってもみなかった展開に唸る。

「くそう、マジかよ?」
「僕も気を付けるけど、本当にあんたは気を付けてくれ」

 頷きつつ秋人は紫堂の表情に暗い予感めいたものを見た気がして頭を振った。

◇◇◇◇

 七階の食堂に夕食を摂りに行くと、長テーブルの端に並んで二人は病院食以外の食事を久々に味わったが、幾らも箸を付けないうちに、またもや空いていた筈の席が制服婦警の一団で埋まった。二人は黄色い声が飛び交う中で大人しく、だが可能な限りの刑事の早食いで胃袋を満たし、「失礼」「お先」とだけ告げて席を立つ。

 部署も分からぬ謎な私服二名に更に黄色い声が投げられたが秋人も紫堂もそれどころではなく、さっさとトレイを片付けて食堂を出た。
 第五倉庫には寄らずにそのまま直帰する。とはいえ、未だ借り受けたままの官舎の二人部屋だが。ただ途中でコンビニには寄って菓子だのアルコールだのは仕入れた。

 早く帰りたいのと、もしかしたら間が持たないんじゃないかという思いとで、秋人も紫堂も妙に緊張している。互いに緊張を悟られたくなくて不自然に自然を装っている状態だ。だがそれも仕方ない。

 あれから初めて本当の意味で二人きりになるのだから。

 言葉少なに帰宅した。何はともあれ病院のごく狭いシャワーブースに閉口していた二人は交代でシャワーを浴びる。抜糸は済んでいるので小さな浴槽に湯も溜めて浸かった。それでようやくある程度のリラックスを得た二人はTVを眺めながら煙草と僅かなウィスキーを味わう。

 けれど何でもないような顔をしながらも時間経過と共にどんどん互いを意識してしまい、これまでとは少し違う意味で空気が煮詰まりつつあった。だが日付も変わると紫堂が黙ってグラスふたつを片付ける。

 寝室のベッドに先に入ったのは紫堂だったが、空いた方ではなく同じベッドに秋人が上がると身を固くした。だが一枚の毛布の下で秋人は背後から痩せた躰を抱き締めただけ、それ以上の行為に及ぼうとはしなかった。
 大切に大切に、けれど抱き潰し壊してしまわないように、愛おしさが伝わってくるような力加減で抱き締められ、紫堂はそれだけで泣きたいくらい幸せだった。

 それでも紫堂の腰には熱く硬い秋人が当たっていて、どんなに想いを溜めているのかが分かる。右腕で腕枕され、脚も絡めた状態で、暫く互いの吐息を聞いていた。
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