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存分に
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朝起きて食う朝食はいつも和食だ。妻は僕より30分ほど早起きして朝食を作ってくれる。僕と結婚するまでに三度も離婚を経験した女性だが、三年ごとに面倒に見舞われるなど気の毒に思いこそすれ何も文句はない。運が悪かっただけだろう。そんな妻は料理上手だ。
今朝も豆腐となめこに三つ葉の味噌汁・炊き立てご飯・弁当を作ってくれた際の余り物の玉子焼きだの、ウインナー炒めなどが食卓に並んでいた。
僕も仕事はしているが、朝飯と弁当の用意のために前の晩、妻が布団に入るのは僕よりも遅い。起きるのも早いので昼寝でもしていてくれたらいいのだが、洗濯・掃除その他の家事をこなして昼寝の時間など、僕なら到底作れないと思う。朝食を口に運びながら、ここ数日の僕の思考のテーマは『妻にも休み時間を作りたい』だった。
「なあ。米はタイマーで炊けるよな? じゃあ味噌汁はインスタントでいいよ」
「美味しくなかった? 貴方のご実家と味噌が違うのよね」
「そうじゃなくてさ、時間かけずに作れたら何でもいいってことなんだけど」
「それなら……具を貝にすればあっという間だわね。出汁が出るから沸騰させて味噌を溶くだけだもの」
「砂抜きとか、面倒じゃないのか?」
「今時、売ってるのは砂抜きだし、ボウルに出して洗って塩水に浸けて新聞紙でも被せておけばいいだけ」
「じゃあ、そうしようよ」
「分かったわ。明日から飽きるまではアサリの御味噌汁ね」
そうしてその日の晩飯の後片付けが終わると妻はいそいそとアサリを洗い、ボウルの塩水に浸けた。暗くして砂を吐かせる為に新聞紙を被せたが、暫くすると新聞紙の内側にアサリの吹く水が当たる音がし始める。
興味本位で僕は新聞紙をそっと剥いで眺めた。大ぶりのアサリが先っちょの黒くなった、クリーム色ともオレンジ色ともつかない水管を伸ばしている。
ふいにスッと隣に妻が立った。
そしてアサリを一個一個、指差しながら言った。
「この子は縞太郎。この子がパッチワークの『パッチ』。この子は黒いからシジミの親戚で『シジリ』。この子は粋な模様だからミツコ。この子は――」
「――って、おいおい。まさかお前、アサリ全部に名前を付けたのか?」
「そうよ、可愛かったから。明日の朝には熱湯地獄で息絶えるんだけど」
特に僕の妻が変なクセを持っている訳じゃないと思う。でも翌朝の味噌汁は食うのに少々難儀した。僕もそれほどメンタルは弱くないと思うのだが、箸で縞太郎や黒婦人だのを摘まみ上げて、
「食ってこそ供養だ、済まない!」
などと思ってしまったのは昨夜の寝しなに『アサリの恋愛相関図』なる妻のブログの妄想ネタに付き合ってしまったからだろう。仕方ないので妻には「やっぱり貝の味噌汁は暫くいいや」と言っておいた。
けれどそれだけで済めばよかったのだが、生き物好きなのだろう妻に休日の買い物に誘われ付き合わされてはスーパーの鮮魚コーナーで、砕いた氷の上に横たわる丸ごとの魚をいちいち細かく解説され、ここでも冗談めかして一匹一匹の魚に名前を付けては生前の(?)彼らの生活を寸劇めいた語り口で聴かされた。
初めは笑って聞いていただけだったが、それも度重なると生き物など飼ったことのない僕でも魚に愛着が湧いてきてしまう。妻の話し口調は巧みで面白く、知識量も驚くほど豊富だったので、ついつい毎回のように惹き込まれてしまうのだ。その調子でいつしか僕までがエセ魚類愛好者になってしまっていた。
だがお蔭で些少ながら困ることも出てきた。
どうにもあれから刺身や寿司を食うたびに妙な構えが出来てしまい、
「このミチル(真鯛)は捕まらなきゃ、未だ泳いでいたんだよなあ」
「こっちのホーさん(ホウボウ)も昨日までは綺麗なヒレを広げて海底を這っていたのに」
などと付き合いの席でも考えるようになってしまったのだ。
そして最近の妻はYouTubeの動画を積極的に見せてくるようになった。
「ねえ、これ可愛いでしょう」
と、一緒に観賞したがるのはダチョウだのエミューだのオオハシだの烏骨鶏だの各種ペンギンだのといった鳥類だ。魚に飽きたのかどうかは知れないが、これも投稿者の思惑を無視した名を付けては例の寸劇を始めて、僕に不要な知識を僕の記憶に否が応でも捩じ込んでくるのである。
中でも圧巻だった動画は外国で生まれた突然変異のニワトリで羽毛が生えてないヤツだった。スーパーのパックの中身を合体させたような生々しいのが(生なのだが)地べたを割と元気に走っていた。
休みの日は水族館だの、アヒルやガチョウも触れる動物園のふれあいコーナーだ。
そんな日々の中で僅かずつだが僕は痩せ始めた。何となく食べたいものを思いつかず、食べて確かに美味しいと思っても、可愛い、僕が食べなきゃ生きていたかも知れない『食材』を想い、胸がいっぱいになってしまうのだ。
代わりに酒量が上がった。そうでもしなければカロリーも取れない有様になるまで幾らも掛からなかった。
ある日、休前日の緩みからかいつもより多く飲んだ。急かされて風呂に入る。
ぬるめの湯は気持ち良かったが、すぐに冷めてきて妻が湯温を上げてくれる。
気付くと熱すぎて自分で調節しようとしたが酔いからか身動きできなかった。
そこに妻がやってきて湯船に大ぶりに切ったネギだの生姜にニンニク、もち米やクコの実、干し棗などをひとつひとつ丁寧に説明しながら放り込んだ。
そうして洗い場に立ちはだかったまま、妻はにっこり笑う。
「最近、貴方には野菜や穀物系の食事をして貰っていたから」
「だ、だから……何だ?」
僕の声は殆ど出なかったが妻は聞き取ったようだ。
「だって貴方も、もう魚が可愛いでしょう? 鶏だって可愛い筈だわ」
「……」
「わたしも謝りながら食べるのは嫌なの。貴方も罪悪感でつらかったでしょう?」
「ぼ……僕、を――」
「ええ。美味しい参鶏湯が作れると思うの、いい頃合いに脂も落ちて。ああ、貴方はもう祐司さんじゃないわ。名前も付けない、存分に好きなだけ食べたいんだもの」
了
今朝も豆腐となめこに三つ葉の味噌汁・炊き立てご飯・弁当を作ってくれた際の余り物の玉子焼きだの、ウインナー炒めなどが食卓に並んでいた。
僕も仕事はしているが、朝飯と弁当の用意のために前の晩、妻が布団に入るのは僕よりも遅い。起きるのも早いので昼寝でもしていてくれたらいいのだが、洗濯・掃除その他の家事をこなして昼寝の時間など、僕なら到底作れないと思う。朝食を口に運びながら、ここ数日の僕の思考のテーマは『妻にも休み時間を作りたい』だった。
「なあ。米はタイマーで炊けるよな? じゃあ味噌汁はインスタントでいいよ」
「美味しくなかった? 貴方のご実家と味噌が違うのよね」
「そうじゃなくてさ、時間かけずに作れたら何でもいいってことなんだけど」
「それなら……具を貝にすればあっという間だわね。出汁が出るから沸騰させて味噌を溶くだけだもの」
「砂抜きとか、面倒じゃないのか?」
「今時、売ってるのは砂抜きだし、ボウルに出して洗って塩水に浸けて新聞紙でも被せておけばいいだけ」
「じゃあ、そうしようよ」
「分かったわ。明日から飽きるまではアサリの御味噌汁ね」
そうしてその日の晩飯の後片付けが終わると妻はいそいそとアサリを洗い、ボウルの塩水に浸けた。暗くして砂を吐かせる為に新聞紙を被せたが、暫くすると新聞紙の内側にアサリの吹く水が当たる音がし始める。
興味本位で僕は新聞紙をそっと剥いで眺めた。大ぶりのアサリが先っちょの黒くなった、クリーム色ともオレンジ色ともつかない水管を伸ばしている。
ふいにスッと隣に妻が立った。
そしてアサリを一個一個、指差しながら言った。
「この子は縞太郎。この子がパッチワークの『パッチ』。この子は黒いからシジミの親戚で『シジリ』。この子は粋な模様だからミツコ。この子は――」
「――って、おいおい。まさかお前、アサリ全部に名前を付けたのか?」
「そうよ、可愛かったから。明日の朝には熱湯地獄で息絶えるんだけど」
特に僕の妻が変なクセを持っている訳じゃないと思う。でも翌朝の味噌汁は食うのに少々難儀した。僕もそれほどメンタルは弱くないと思うのだが、箸で縞太郎や黒婦人だのを摘まみ上げて、
「食ってこそ供養だ、済まない!」
などと思ってしまったのは昨夜の寝しなに『アサリの恋愛相関図』なる妻のブログの妄想ネタに付き合ってしまったからだろう。仕方ないので妻には「やっぱり貝の味噌汁は暫くいいや」と言っておいた。
けれどそれだけで済めばよかったのだが、生き物好きなのだろう妻に休日の買い物に誘われ付き合わされてはスーパーの鮮魚コーナーで、砕いた氷の上に横たわる丸ごとの魚をいちいち細かく解説され、ここでも冗談めかして一匹一匹の魚に名前を付けては生前の(?)彼らの生活を寸劇めいた語り口で聴かされた。
初めは笑って聞いていただけだったが、それも度重なると生き物など飼ったことのない僕でも魚に愛着が湧いてきてしまう。妻の話し口調は巧みで面白く、知識量も驚くほど豊富だったので、ついつい毎回のように惹き込まれてしまうのだ。その調子でいつしか僕までがエセ魚類愛好者になってしまっていた。
だがお蔭で些少ながら困ることも出てきた。
どうにもあれから刺身や寿司を食うたびに妙な構えが出来てしまい、
「このミチル(真鯛)は捕まらなきゃ、未だ泳いでいたんだよなあ」
「こっちのホーさん(ホウボウ)も昨日までは綺麗なヒレを広げて海底を這っていたのに」
などと付き合いの席でも考えるようになってしまったのだ。
そして最近の妻はYouTubeの動画を積極的に見せてくるようになった。
「ねえ、これ可愛いでしょう」
と、一緒に観賞したがるのはダチョウだのエミューだのオオハシだの烏骨鶏だの各種ペンギンだのといった鳥類だ。魚に飽きたのかどうかは知れないが、これも投稿者の思惑を無視した名を付けては例の寸劇を始めて、僕に不要な知識を僕の記憶に否が応でも捩じ込んでくるのである。
中でも圧巻だった動画は外国で生まれた突然変異のニワトリで羽毛が生えてないヤツだった。スーパーのパックの中身を合体させたような生々しいのが(生なのだが)地べたを割と元気に走っていた。
休みの日は水族館だの、アヒルやガチョウも触れる動物園のふれあいコーナーだ。
そんな日々の中で僅かずつだが僕は痩せ始めた。何となく食べたいものを思いつかず、食べて確かに美味しいと思っても、可愛い、僕が食べなきゃ生きていたかも知れない『食材』を想い、胸がいっぱいになってしまうのだ。
代わりに酒量が上がった。そうでもしなければカロリーも取れない有様になるまで幾らも掛からなかった。
ある日、休前日の緩みからかいつもより多く飲んだ。急かされて風呂に入る。
ぬるめの湯は気持ち良かったが、すぐに冷めてきて妻が湯温を上げてくれる。
気付くと熱すぎて自分で調節しようとしたが酔いからか身動きできなかった。
そこに妻がやってきて湯船に大ぶりに切ったネギだの生姜にニンニク、もち米やクコの実、干し棗などをひとつひとつ丁寧に説明しながら放り込んだ。
そうして洗い場に立ちはだかったまま、妻はにっこり笑う。
「最近、貴方には野菜や穀物系の食事をして貰っていたから」
「だ、だから……何だ?」
僕の声は殆ど出なかったが妻は聞き取ったようだ。
「だって貴方も、もう魚が可愛いでしょう? 鶏だって可愛い筈だわ」
「……」
「わたしも謝りながら食べるのは嫌なの。貴方も罪悪感でつらかったでしょう?」
「ぼ……僕、を――」
「ええ。美味しい参鶏湯が作れると思うの、いい頃合いに脂も落ちて。ああ、貴方はもう祐司さんじゃないわ。名前も付けない、存分に好きなだけ食べたいんだもの」
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