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05:小さな少女の深い事情
しおりを挟む普段、乃蒼は静香に見守ってもらい早い時間に入浴するか、一人で入る時は武流に脱衣室で待っていてもらうらしい。
脱衣所は組み立て式の簡易椅子が置いてあり、そこに腰掛けて待っているのだと武流が話す。これは入浴中の乃蒼に何かあったらと案じるのと、互いに今日は何があったと報告し合うコミュニケーションを兼ねてだという。
「どうぞ」とまるでエスコートのように椅子に促され、凪咲は素直に椅子に座らせてもらった。
浴室からはシャワーの音とご機嫌な乃蒼の歌声が聞こえてくる。それを聞きながら浴室を眺めるのは違和感でしかない。
「脱衣室で椅子に座るって変な感じですね。間取りが同じだから余計におかしな感じ」
「もう少し大きくなれば乃蒼も一人でも大丈夫だと思うんですが、まだやっぱり心配なんです。危ないというのもありますが、よく髪の毛に泡を着けたままあがってこようとするんですよ」
その姿を想像したのか武流がクスと笑みを零す。穏やかで優しい笑みだ。切れ長の目が細められ、乃蒼を愛しんでいるのが言葉にせずとも伝わってくる。
だがその穏やかな表情に僅かに影が掛かった。眉尻が下がり、形の良い口元が躊躇うように動く。「乃蒼は……」と漏らされた小さな声には先程まであった少女の幼さを愛でる色は無く、代わりに躊躇いの色が混ざり弱々しい。
「乃蒼は、俺の兄夫婦の娘なんです。だけど四歳の時に事故にあって……」
武流の兄と妻、そして一人娘の乃蒼。三人は誰が見ても微笑ましいと感じる家族だったという。
だがそんな三人を不幸が襲った。外食の帰り道、居眠り運転をしていた車が彼等の乗った車に正面から衝突したのだ。
運転席と助手席に乗っていた親二人は命を落とし、後部座席のベビーシートにいた乃蒼だけが奇跡的に生き残った……。
「そんな……」
「その後、乃蒼は一時的に施設に預けられました。親族間には乃蒼を育てられる家庭もなく、このまま里親を探した方がという意見もありました。まだあの子は四歳でしたし、名残りのある環境で育つより、新しい家族のもとで、亡き両親を忘れるとは言わずとも過去のことにして育つほうがいいんじゃないかって……。だけど、乃蒼がそれを拒んだんです」
幼い乃蒼は自分の境遇も理解しきれていないというのに、泣きじゃくりながら残りたいと訴えた。
わがままは言わない、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもいらない。だからもうどこかに行ってしまわないで。置いていかないで……と。
子供らしい必死さで訴え、祖父母や親戚の、そして武流の服を小さな手で掴んで縋ったのだ。
「あんなに必死な乃蒼を見て手放すなんて出来ません。それで、俺が乃蒼を養子にして育てる事にしたんです」
「そうだったんですね。乃蒼ちゃん、だから『お父さんとお母さんはいない』って……」
浴室からはいまだ乃蒼の歌声が聞こえてくる。楽しそうな声で、きっといま凪咲が話しかけても愛らしい声で「なぁに?」と尋ね返してくるだろう。だがそんな乃蒼には深い悲しみがあった。
端的に得た情報からなにかしら事情はあるだろうと踏んでいたが、まさここんな話だったなんて……。
乃蒼の胸中と境遇を思えば凪咲の胸が痛み、それが顔に出ていたのが武流がフォローをするように「熊谷さんは」と無理に話を変えた。
「熊谷さんは乃蒼の母親の叔母、乃蒼からすると正確には大叔母なんです。近所に住んでいて、乃蒼が幼稚園から帰ってくるのに合わせてうちに来てもらっているんです」
「そうだったんですね。何度かエントランスで見かけたので、てっきり一緒に暮らしてるのかと思いました」
「俺はずっと独り身で小さい子の扱いなんて分からないし、それに仕事もあって、引き取るとは言っても熊谷さんにお世話になりっぱなしなんです」
「生活もあるし仕方ありませんよ。でも、熊谷さんの腰が治るまでどうなさるんですか?」
ふと凪咲が疑問を抱いて問えば分かりやすく武流の表情が渋くなった。
曰く、武流も明日からのことを考え、仕事の合間を見ては乃蒼を預かってくれるところはないかと探していたらしい。だがどこも埋まっており、無認可の預り所でさえも直ぐには無理と言う状態。
その話を聞き、凪咲は「そういえば」と以前に聞いた話を思い出した。
凪咲達が住んでいる地区は元々子供が多く、更に駅周辺が活性化するのに合わせてファミリータイプのマンションが増えた。おかげで活気のある賑やかな場所ではあるが、反面、子供の預かり先が追い付かず待機児童が多いのだという。それを話せば武流が頷いて返してきた。
「そうなんです。本当は元々保育園や遅くまで預かって貰えるところを探していたんですが、どこも空きがなく、熊谷さんに協力してもらってようやくだったんです。ですから、もしかしたら乃蒼はひとまず祖父母のもとに預けるかもしれません」
「近くに住んでいらっしゃるんですか?」
「いえ、それが遠くて……。熊谷さんの体調がよくなるまで幼稚園は長期で休ませます。本当は俺が都合を合わせてやるべきなんですが、職場も今ごたついてまして」
聞けば、武流が勤めている病院は乃蒼を預かることに理解を示し協力的だという。
だが長く務めていた医師が去年退職し、更に若手の医師が辞め……、と運悪く人手不足になってしまった。武流自身も患者を抱えており、学会だ何だと診察以外の仕事もある。
融通を利かせてもらうにも限界がある。とりわけ医療現場だから猶更だ。
それを話す武流の表情には疲労の色が露わになっている。ただでさえ多忙な中、更に今回の事が重なってしまったのだ。武流が乃蒼を預かってからまだ一年しか経っていないと言うのだから慣れない子育ての疲れもあるのだろう。
乃蒼の事情も複雑だが、武流の状況も心配になってしまう。
「あの、武流さん、もしよければですが乃蒼ちゃんを」
私が、と言いかけた瞬間、浴室から「おじ様!」と声が割って入ってきた。
それと同時に扉が開かれ、湿気を帯びた暖かな湯気がもわと部屋に流れ込んでくる。凪咲と武流が同時にそちらへとやれば、ピンクのタオルを体に巻いた乃蒼が頬を赤くさせてそこに立っていた。
「武流おじ様、シャワー終わったわ」
「あぁ分かった。それじゃぐるっと回って」
「おじ様ってば心配性なんだから。乃蒼、もうちゃんと頭も体も洗えるのに」
いっちょまえに不満を口にしながら乃蒼がその場でくるりと回る。
……その後頭部にもこもこした泡を着けたまま。
「……うん、さすが乃蒼だ、ちゃんと洗えてるね。でも最後に俺が頭から流してやるから」
苦笑しつつ武流が乃蒼を風呂場へと戻す。
だがその直前にふと立ち止まって凪咲へと振り返った。
「すみません、話の途中に。さっきなにか言いかけてませんでしたか?」
「いえ、大丈夫です。また後でお伝えします。それより先に乃蒼ちゃんを洗ってあげてください、早くしてあげないと湯冷めしちゃいますし」
「そうですね、相変わらず落ち着いて話が出来ずすみません。リビングで待っていてください」
武流の言葉に頷いて返し、風呂場へと入っていく二人を見送る。
浴室のモザイクドア越しに二人の影が動き、「あのね、武流おじ様、今日ね!」「乃蒼、流すからお話は後で」という長閑な声が聞こえてきた。
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