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09:お酒と空気に酔いしれて

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 乃蒼が居た時は自然と話の中心は乃蒼になり、彼女の話に凪咲と武流が相槌を打つような会話だった。
 だがその乃蒼は既に眠っており、リビングにいるのは凪咲と武流だけだ。ソファに並んで座り、他愛もない会話を交わす。
 三人で居た時のような盛り上がりはないが、それでいて気まずいような沈黙も無い。

 互いの趣味の話や仕事の話、このマンションに越して来た時の事、前はどこに住んでいたか……。
 相手の話を聞き、自分のことを話し、そしてまた相手の話を聞く。そんな穏やかな会話のキャッチボールとお酒を楽しむ。

 武流は医学部を卒業し研修医となり、今の病院に勤めて今日まで仕事を続けているという。院内でも相応の立場にあるようで、医療関係について詳しくない凪咲だが話を聞いている内に彼が重要なポジションに着いている理解できた。
 対して凪咲は短大を卒業後一度仕事を変え、趣味が高じて副業を始め、それが軌道に乗って本業となり今の在宅の仕事をしている。いわゆる自営業であり武流のような役職やポジションもない。
 お互いの仕事は今まで関わりの無いもので、仕事内容も、そこに至る過程も、初めて聞く話ばかりだ。だからこそ興味深い。

「お医者さんなんて凄いですね」
「いえ、そんな事ないですよ。俺からしたら趣味を仕事にしている柴坂さんの方が凄いです。俺はどうも昔から趣味にのめりこむことがなくて、映画を見たり本を読んだりはするんですが趣味とまで言えるものが無いんです。その点、兄は違っていました」
「お兄さんというと、乃蒼ちゃんのお父さんですか?」
「はい。兄は元々絵を描くのが好きで、高校を卒業すると海外に行き、そこで腕を磨いて帰国後も画家として生活していたんです。企業と仕事をしたり個展も何度を開いていて、個展を開いた時に義姉に……、乃蒼の母親と出会ったんです」

 二人は出会うとすぐに意気投合し、すぐに結婚を決めたのだという。
 高校卒業後に美大にも進まずすぐに海外に行くことと言い、交際期間も短いうちに結婚を決める事と言い、「驚かされてばかりでした」と武流が話す。だがその口調にはどこか憧れるような色もあり、そして惜しむような色もある。

「俺には兄のような人生は送れません。だけど、兄は俺の人生も尊重してくれていました。よく酒を飲むと酔っ払ってこう言ってたんです」

『武流が安定してるとこっちも安心だ。俺に何かあった時は家族を頼むよ』

「俺はその言葉を笑って聞いてました。だけど、まさかこんなに早く……」

 武流の言葉が止まる。何かを話そうとし、だが言葉に出来ないのか深く溜息を吐いた。
 苦し気な空気は向かい合って座る凪咲の心まで締め付ける。「武流さん……」と呟いた声はまるで凪咲が辛い過去を語ったかのように弱々しい。
 その声に気付いたからか、俯いていた武流がはっと顔を上げた。

「あ、すみません。お誘いしたのにこんな話をしてしまって」
「気にしないでください。私でよければ話を聞きますから」
「柴坂さん……」

 凪咲の言葉を聞き、武流の表情に僅かに安堵の色が浮かんだ。
 次いで彼はゆっくりと息を吐き、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。豪快に飲み干すたびに喉仏が動くのが見え、形の良い唇がグラスの縁から離れると同時に軽く息を漏らす。

「暗い話をしてしまってすみません。普段は兄の話なんてしないんですが……。どうしでですかね、柴坂さんにはなぜか話してしまうみたいです」
「私に?」
「最初から柴坂さんにはご迷惑を掛けてお世話になっているので、だからでしょうか、あまり気を張らずにいられるんです」

 照れ臭そうに武流が笑う。その表情は普段の凛々しい顔と違い、ふわりと柔らかく、そして同時に可愛らしく見える。
 武流は年上なのに。それどころか医者という堅実な仕事をし、更に一人で乃蒼を養っている、まさに『りっぱな男性』だ。
 だが今の彼はまるで自分に甘えているかのようで、凪咲の胸になんとも言えない感覚が伝った。

 彼を支えたい。
 今この一瞬だけでも、彼の気持ちを穏やかにし、心に背負った重みを和らげてあげたい。

 そんな感情が表情に出ていたのか武流をじっと見つめていると、彼も何かを感じ取ったのか「柴坂さん……」と呼んできた。
 武流の手がそっと凪咲の手に重ねられる。
 大きな手。少し熱いのは酒がまわっているからだろうか。
 その熱はまるで凪咲の中に流れ込むかのようで、浮かされるように心臓が鼓動を速めた。

「武流さん、少しお酒が進み過ぎじゃ……」
「そうですね。……凄く熱くて」

 それで、と言いかけた武流が言葉を止めた。凪咲も何も言えなくなり、ただ武流の様子を窺う。
 ゆっくりと彼が顔を寄せてくる。切れ長の目は誘うように細められ、その蠱惑的な魅力に凪咲は小さく息を呑んだ。
 心臓が早鐘を打つ。身動ぎ一つ出来ない。
 この後に何があるのかを分からないわけではない。止めなければという考えが浮かぶのに体が動かない。

「……まっ」

 待って、と言いかけた言葉が、開きかけた唇が、武流の唇によって塞がれた。

 キスをしている。
 そう実感すると共に、凪咲の鼓動が更に早まる。
 熱い唇がゆっくりと凪咲の唇に触れ、呼吸のために僅かに離れるもすぐさま更に深く触れてくる。何度も、深く、時に浅く。
 入り込んだ舌が凪咲の舌を誘うように絡め、その感覚に背が震えた。無意識に自分も舌を絡めてもはやどちらが貪っているのか分からなくなる。

「んっ、は……」

 くぐもった声と漏らされる吐息は自分のものではないように熱っぽい。
 そっと体に触れてくるのは武流の手だ。凪咲の肩に触れ、滑るように腕を撫で、少しずつ後ろに倒れるように促してくる。

 従っては駄目だ。
 だって子供部屋で乃蒼が寝ている。
 それにただ自分達は隣に住んでいるだけで、出会ってまだ間もない、お互い何も知らないのに……。

 だけど抗えない。
 唇を重ねて舌を絡め合う生々しい感覚が、時折漏らされる武流の熱っぽい吐息が、体の奥にふつふつと熱を灯していく。
 止めなきゃいけないという考えは徐々に思考の隅に追いやられ、凪咲の体はゆっくりとソファに倒れ込んだ。


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