旦那様、離婚してください! スパダリ社長の過保護な蜜愛

立花 吉野

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1巻

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(ほんっとに過保護なんだから~っ!)

 会社近くの夜の飲食店街を、市間いちま陽菜ひなは人を縫うようにして走っている。

『いまどこにいる? 迎えに来たけど、帰れそう? 連絡がないから心配してます』

 届いたメッセージを思い出すと、恥ずかしさで頬がまたカァッと熱くなる。
 自分はもう、二十三歳の社会人だ。
 それなのに、金曜日の二十二時に「帰りが遅い」と心配して、わざわざ迎えに来るなんて。

(今日は部の飲み会で帰りが遅くなるって、何回も言ったのに!)

 陽菜の勤める盤廼ばんの食品株式会社は、輸入商品を主力とする食品系商社だ。
 嗜好品や高級食材の輸入販売や、食品原料を取り扱う中堅企業で、陽菜はその営業部でアシスタント業務を担当している。
 国外にも支部を有する盤廼食品では社員の海外赴任もままあることで、来月の九月一日にも営業部の先輩社員が一人、海外出向することになっていた。
 部をあげての壮行会には、陽菜も含めた新入社員たちも招かれていた。 
 当初は二十一時にはお開きの予定だったけれど、主役の社員が秘書課の女子社員との電撃結婚を発表したことで飲み会は大いに盛り上がり、解散が遅くなってしまった。
 場の雰囲気もあって、帰りが遅くなると連絡できず、彼に心配をかけてしまった。
 それは悪いと思うけど……成人済みの社会人を、わざわざ迎えに来るような時間じゃないはずだ。

(いつまでも子供扱いして!)

 ショルダーバッグをぎゅっと掴み、黒のヘアゴムでまとめただけの長い黒髪を揺らしながら、陽菜は夜の飲食店街を抜けた。
 仕事着にしているブラウスと黒の膝下丈のスカートが、汗ばんだ肌にぴったり張り付いている。八月中旬の夜風はほぼ熱風だ。
 幹線道路に突き当たると、すぐに見覚えのある黒塗りの高級車が視界に飛び込んでくる。

倫彰ともあきさんの車、やっぱりめちゃくちゃ目立ってる……)

 テカテカとした光沢を放つ車体に、運転席にはブラックスーツの運転手。
 助手席には、いかにもな銀縁メガネをかけた秘書。
 スモークガラスに守られた後部座席に乗る人物が、ただのサラリーマンなはずがない。
 行き交う人々が、どんな大物が乗っているのかと二度見するのも当然だろう。
 ……その車に乗り込まなければいけない、こっちの身にもなってほしい。
 陽菜は周囲に知り合いがいないか用心深く確認して、素早く後部座席に乗り込んだ。

「もう~! 迎えに来ないでって言ったのに!」

 飛び込むようにシートに収まった陽菜は、泣きそうになりながら彼に訴える。
 けれども、陽菜の渾身こんしんの抗議にも彼──樋臣ひおみ倫彰は、ゆったりと黒のレザーシートに背中を預けたまま、楽しげに笑っている。

「ごめんごめん。予定より遅いし連絡もないから、居ても立っても居られなくて」

 シャドーストライプのグレースーツをまとい、髪をやわらかくうしろに流した倫彰は、大人の余裕たっぷりだ。
 きりりとした眉や高く通った鼻の鋭い印象を打ち消すように、やや垂れた目元にしわを刻んで、いつもどおり保護者の笑みを浮かべている。
 陽菜の抗議なんて、彼にはこれっぽっちも響いていない。

「陽菜は、遅くなるときはいつも必ず連絡をくれるだろう? 今日は連絡もないし、なにかあったんじゃないかって心配だったんだ」
「うっ……」

 心配したと言われると、陽菜は弱い。

「それは……連絡できなくて、心配かけちゃってごめんなさい……。だけど、わたしだってもう大人なんだから。お迎えなんてやめてよね」
「大人になっても、心配だよ」

 彼はいつものように陽菜の頭にポンと手を乗せて、子供をあやすみたいに髪をでる。

「陽菜がいくつになっても、心配する。陽菜は、俺の一番大事な人なんだから」

 黒い瞳をキラキラさせて、『一番大事な人』だなんて言いながら優しく微笑みかけられたら、反発なんてできなくなる。

(……ずるい)

 倫彰はいつもこうだ。隙あらば、陽菜を子供扱いして、ベタベタに甘やかす。
 このときの陽菜が、どんなにドキドキしているかも知らないで。

「夜道は危ないし、このあたりは酔っぱらいだって多い。絡まれたら大変だ」
「……心配しすぎだよ」
「どうだろう。陽菜は可愛いからなぁ」
(ひっ……!)

 一瞬で、火がついたように顔が熱くなる。
 彼が何気なく発する「可愛い」で、こんなにも動揺してしまう自分が悔しい……!

「奥様、シートベルトはよろしいですか? 車を出しますよ」
「あっ、はい!」

 助手席から声をかけた倫彰の秘書・相葉あいばに、陽菜は慌ててうなずく。

(そうだ、相葉さんも運転手さんもいたんだ……! 過保護全開で恥ずかしいっ……!)

 陽菜がシートベルトを締めるのを見計らって相葉が運転手に合図をすると、車は夜の道路を滑らかに走り出した。
 ──そう、なにを隠そう、陽菜は倫彰の妻だ。
 けれども、この結婚は普通のそれとは違う。
 倫彰は、高校教師だった陽菜の父親の元教え子で、『市間先生は俺の恩師なんだよ』と父を心から慕ってくれていた。
 だけど父は、陽菜が高校卒業を目前にした冬に交通事故で他界した。
 父だけでなく、陽菜はその事故で母と弟もうしなった。
 祖母と一緒に留守番をしていた陽菜は難を逃れたけれど、祖母は悲報のショックで倒れてしまい、その年の春には家族のあとを追うようにして亡くなった。
 高校卒業直後に天涯孤独になった陽菜を保護するために、倫彰は陽菜を妻にした。
 結婚は、家族になるための手段だっただけ。
 披露宴などのセレモニーはもちろん、結婚指輪だってしていない。
 だから陽菜は友人や同僚にも既婚者であることを隠しているし、会社では旧姓の『市間』で通している。
 倫彰はさすがに既婚者だと公表しているけれど、陽菜を公の場に連れて行ったことは一度もない。『樋臣倫彰の妻』の正体を知っているのは、秘書の相葉と運転手くらいだ。
 彼の徹底ぶりはそれだけじゃない。
 夫婦として暮らす戸建ては玄関がひとつの二世帯住宅タイプで、一階は倫彰の縄張り、二階が陽菜のもの、と生活空間を厳密に区切っている。
 トイレもお風呂もキッチンも、洗濯機や乾燥機まで二つずつ用意されていて、その気になれば顔を合わせることなく生活することだって可能だ。
 そのおかげで陽菜は、倫彰の裸や寝顔どころか、パンツだって見たことがない。

(こんなの結婚っていわないよね……)
「陽菜、まだ怒ってる? 機嫌なおして。週末に、いつものチョコレートケーキを買って帰るから」

 ご機嫌取りにケーキを持ち出すとは卑怯ひきょうな……
 陽菜はじっとりと冷たい目で倫彰を見遣みやる。

「そんなにしょっちゅうケーキ買ってきて、わたしが太ったら倫彰さんのせいだからね」
「大丈夫大丈夫。陽菜は若いし、ちょっとくらい食べても平気だよ」

 倫彰はまた目尻にしわを刻んで、小動物を愛でるみたいに陽菜の頭を優しくよしよしと撫でた。
 子供扱いは嫌なのに、彼の手は心地良すぎて振り払えない。
 意思に反してジリジリ頬が熱くなり、照れ隠しにプイッと顔を背ける。
 そんな子供っぽい素振りをも楽しんでいるように、彼は優しく「わかったよ。じゃあ、小さいケーキにしような」なんて言う。

(……わたしだって、大人になったのになぁ)

 悔しい気持ちが過ったのはほんの一瞬で、スモークフィルムの張られた窓に映る自分の姿に、ため息がこぼれた。
 これといった特徴もない平凡な顔に、一度も染めたことのない黒髪。
 最低限のメイクと地味な服装は、一目で新入社員だとわかる。
 背は低いし、胸は小さいし。おまけに性格は子供っぽいときている。
 せめてもう少し大人びて見える容姿だったら。もう少し落ち着いた性格だったら。
 そうしたら彼は、恋愛対象として見てくれた?

「ため息ついて、めずらしい。悩み事なら相談に乗ろうか?」
「結構ですー。わたしにだって悩みくらいあるんだからね──ほら、電話鳴ってるよ」

 シッシッと追い払うように手を振ると、彼は笑いながらジャケットのポケットからスマホを取り出した。暗い車内で、スマホのディスプレイが倫彰の横顔を照らす。
 その表情が一瞬にして鋭くなった。
『冷徹な社長』と呼ばれる経営者の顔になった倫彰が、ため息交じりに着信に応じる。

「はい──改めてかけ直す。いや、今はちょっと──」

 硬い声だけれど話し方はフランクで、通話相手との仲が親密であることがうかがえる。
 交通量の多い道路を走っているせいか、相手の声は陽菜の耳には届かない。
 しばらく黙って相手の話に耳を傾けていた倫彰は、疲れたように息をついて「わかった」と通話を切った。

「ちょっと出てくる。相葉、悪いけど、陽菜を家に送ってやってくれないか?」
「えっ、わたしひとりで帰れるよ。ここで降ろしてくれたら──」
「ダメだ。陽菜になにかあったら、市間先生に顔向けできない」

 真剣な眼差しでぴしゃりと言われてしまうと、陽菜は反論を呑み込むしかない。
 助手席の相葉が「どちらに?」と振り返る。

「ウィラーグランデ東京だ。……例の件で」
「かしこまりました」

 ウィラーグランデ東京ホテルは、ここから目と鼻の先だ。きっと彼は、目的地まで歩くのだろう。
 けれど……こんな時間に、いったい誰と会うんだろう?

「陽菜、かばん持って帰ってくれないか。荷物になるから」
「うん。わかった」

 彼の仕事道具のタブレットや、資料の入った鞄を引き受ける。
 これを置いていくということは、緊急の打ち合わせなどではないのだろう。
 けれど会社の代表ともなれば、人付き合いも仕事のうち。
 陽菜はあれこれ詮索せんさくせずに、いつもどおり倫彰を送り出すだけだ。

「相葉、明日の朝はいつもどおりに頼むよ。よろしく」
「承知しました」

 次の角で停車すると、倫彰は慌ただしく相葉と明日の打ち合わせをして車を降りた。

「陽菜、夜更かしはほどほどにな」

 ドアが閉まる直前にそう言われて、陽菜はふくれっ面で彼の背中を見送った。

(ほんっと、とことん子供扱いなんだから……)

 再び走り出した車が信号を二つ過ぎたところで、倫彰の鞄の中から見慣れたスマホケースがのぞいていることに気が付いた。
 それは、倫彰が陽菜への連絡専用として所有しているスマホだ。
 相葉からは『社長は心配性のあまり、会議中も奥様専用のスマホを離さないんです』と何度もからかい交じりに聞かされているのだけれど……

「忘れてる……ごめんなさい! 忘れ物届けてきます!」

 赤信号で停車したタイミングで、陽菜は倫彰のスマホを手に車を飛び出した。
 きっと今なら、すぐに彼に追いつけるはず。
 陽菜は夜の繁華街を、ホテルの方向へ駆けだした。
 大通りから一本奥に入った筋に、ウィラーグランデ東京ホテルの煉瓦造りの建物が見えた。玄関アプローチの階段や赤い制服のドアマン、等間隔でホテルを照らすガス灯風のランプは、建物とあいまって異国情緒漂う非日常な雰囲気がある。
 明かりに吸い込まれるように、見慣れたうしろ姿がホテルの階段を上っていく。

(倫彰さんだ──!)

 まだ遠い彼を呼び止めようと陽菜が大きく息を吸い込んだ、そのとき──ホテルの正面玄関から、長い髪の女性が飛び出してきた。
 袖のない白のワンピースをひらめかせて、彼女は迷いなく倫彰に飛びついた。

(え──……)

 陽菜の足がぴたりと止まる。
 倫彰の胸に飛び込んだ彼女は、むき出しの白い腕を彼の首に絡ませた。
 その腕に、倫彰がそっと触れる。
 彼女が伸びあがるよう爪先立ち──光の中で、ほんの一瞬、二人の影が重なった。

(キス、した……?)

 あの人は、誰?
 倫彰はじゃれつく子猫をあしらうように彼女の腕を解き、彼女も慣れた素振りで倫彰の腕に自らの腕を絡めて、肩にしなだれかかる。
 親密な雰囲気を隠す様子もない。
 倫彰が歩きはじめると、女性は甘えるようにぴったり寄り添い、二人はホテルへ入っていった。
 手に持っていたスマホを、陽菜はぎゅっと握りしめる。

(……そっか。スマホ、忘れたんじゃなくて、置いて行ったんだ……)

 ジワジワと、胸に寂しさが広がっていく。
 こういう日が、いつか来るとわかっていた。
 その日が来たら、自分がどうするかも、ずっと前から決めていた。

「……離婚しよう」

 くるりとホテルに背を向けて、自分を鼓舞こぶするようにひとりごちる。
 けれども、いざ口に出してみると、やっぱり胸はギュッと痛んだ。


      ◆ ◇ ◆


 陽菜の地元は、海沿いの自然豊かな観光地だ。
 景観を守るために開発が避けられたおかげで、よくいえば環境保全が行き届いていて、悪くいえば田舎。そんな町で、市間家は農業のかたわら小さな食堂を営んでいた。
 夏は海水浴客やダイバーで、冬は海の幸目当ての観光客で、店はそこそこ繁盛していた。
 市間家の家族構成は祖母と両親と弟、そして陽菜の五人。親戚はいない。だから特に夏休みは、店の手伝いで大忙しで、夏に家族で遠出した思い出はほとんどない。
 家族旅行といったら決まって冬で、陽菜が中学二年生の冬に、はじめて東京に行った。
 そこで、陽菜は樋臣倫彰と出会った。

「はじめまして。樋臣倫彰です。俺が高校生のとき、市間先生にお世話になったんだ。よろしく」

 二十六歳の倫彰は、背が高くて、笑顔が優しそうな人だった。
 そのとき倫彰の案内でホテルに向かう道中で、陽菜は人ごみに呑まれて家族とはぐれてしまった。
 都会の人の波は想像以上に激しくて、ほんの数秒前まで見えていた両親の背中が一瞬で消え、自分の居場所どころか、さっきまでいた場所の方向さえ見失い、陽菜はパニックに陥りかけた。そこに、倫彰が父の携帯で連絡をくれて、あっという間に迎えにきてくれたのだ。家族と合流するまで、陽菜はずっと倫彰にぴったりくっ付いていた。
 当時の陽菜には、倫彰は白馬の王子様に見えた。
 それが陽菜の初恋だった。
 倫彰は毎年、陽菜たちを東京に招いてくれて、ときどき都合が合うと市間家にも泊まりに来た。交流は途切れることなく何年も続き、彼を知れば知るほど陽菜の想いも募っていった。
 けれど、絶対に手の届かない人だと理解できないほど、陽菜だって子供じゃなかった。
 高校三年生にもなれば、名の通った総合建築会社である樋臣建設がどれほど大きな会社なのか、その若き社長である倫彰がどれだけ遠い存在か、十二歳という年の差がどんなに大きなものなのか、わからないはずもない。

『陽菜ちゃん、大学もう決まったのか。おめでとう。志望どおり、観光系?』
「ありがとう。観光じゃなくて、語学コミュニケーションにしたの。いろいろ勉強したいから。春から東京で一人暮らしなんだよ」
『こっちで暮らすのか。それは楽しみだな』
「うん。だから上京の準備とかいろいろあって、今回は行けないけど……大学生になったら、東京のおしゃれなお店、いっぱい案内してね!」

 電話越しの倫彰が『わかった。リサーチしとくよ』と笑ってくれるだけで満足だった。
 市間先生のお嬢さんでいい。なんの接点もなくなるより、ずっといい。
 どうせ、叶わない恋だから。
 毎年恒例の東京旅行に、その年、陽菜は行かなかった。
 祖母の腰痛が悪化して、ギリギリまで家族旅行を取りやめにするか家族会議が行われた。
 けれど、陽菜の三つ年下の弟の将太しょうたがどうしても行きたいと聞かないので、陽菜は祖母と残り、両親と弟で東京に行くことになった。
 倫彰に会いたかったけれど、上京に向けての準備もあったし、陽菜の進学の軍資金として仏壇の裏からへそくりを出してきてくれた祖母である。
 一人置いていくなんてできなかった。
 最後まで「何かあったらすぐ連絡するのよ」と心配そうだった母。
 そんな母に「大丈夫だよ。陽菜はしっかりしてるから」と言ってくれた父。
「ガサツな姉ちゃんに、ばーちゃんの世話できんのかなぁ」と、姉を馬鹿にした態度の弟。
 陽菜が手を振って見送った三人は、それきり戻ってこなかった。
 高速道路での事故だった。
 前方を走っていたツアーバスの横転に巻き込まれ、三人を乗せた乗用車は大破。
 警察から知らせを受けた祖母は、受話器を持ったままショックで倒れてしまった。
 救急搬送された祖母に付き添った陽菜が、その夜自宅に戻ると、周辺はマスコミを自称する見知らぬ大人で溢れていた。そこへ、倫彰が駆け付けてくれたのだ。

『俺がついてるから』

 葬儀の手続きや、保険や財産のこと、マスコミの対応まで、全部彼が引き受けてくれた。
 家族の帰らない家に一人でいるなんて耐えられなくて、陽菜は言われるままに、倫彰の東京のマンションに身を寄せた。
 両親と弟の四十九日が過ぎた頃に、今度は祖母が亡くなって、陽菜は天涯孤独になった。

『結婚しよう。俺たち、家族になろう。絶対に陽菜をひとりにはしないから』

 プロポーズと呼ぶには、あまりに恋愛感情からかけ離れた求婚だったと思う。
 だけど、陽菜は倫彰の言葉に縋るようにうなずいて、二人は夫婦になった。
 婚姻届を出すときに、倫彰と陽菜はいくつかの約束をした。
 陽菜の生活費は倫彰が出す。陽菜はそのことを、うしろめたく思わなくていい。そのかわり、朝食を作るのは陽菜の役目。お互い、帰りが遅くなるときは連絡する。無断で外泊はしない。
 それから……

『陽菜に好きな人ができたら、いつでも離婚しよう』

 それが、陽菜が倫彰と離婚する条件だった。


 朝食のスープをかき混ぜる手を止めて、陽菜は胸に手を当てた。

(今日こそ言うぞ……!)

 ──一週間前のあの日、倫彰は明け方近くに帰宅した。
 彼のフレグランスとは違う、優美なバラの香りをまとわせて。
 とてもじゃないけれど、あの夜のことに自分から触れるなんてできず、白いワンピースの美女が誰なのかは謎のままだ。

(恋人がいたなんて、全然気付かなかった……。ううん。そうじゃなくて、本当はもっと早くに倫彰さんを自由にしてあげなくちゃいけなかったんだよね……)

 陽菜だって、折に触れて独立を申し出てきた。
 そのたびに彼は、あの条件を引っ張り出したのだ。

『離婚の条件を変更するつもりはないから、陽菜にいい人ができたら教えて』

 いっそのこと告白できたらよかったけれど、彼に異性として見てもらえていないことはわかっていたから、本心を告げて彼を困らせて、関係が変わってしまうのが怖かった。
 その結果、ズルズルと四年も彼を引き留めてしまった。
 髪をひっつめにした陽菜は、エプロンに包まれた胸を反らして思いっきり深呼吸してみる。

(よし、言うぞ。倫彰さんがキッチンに入ってきたら、絶対に──)
「おはよう、陽菜」

「ひっ!」いつの間にか、アイランドキッチンのカウンターの向こうに立っていた倫彰に、陽菜は飛び上がった。

「お、おはよう、倫彰さん! 今日も早起きだね!」
「オッサンになると、長時間連続で寝る体力もないんだよ」
「まだ三十五歳でしょ。オジサンじゃないよ」
「三十五は、陽菜が思ってるよりオッサンだよ」

 口元に自嘲っぽい笑みを浮かべる倫彰は、まだ朝のシャワーの余韻が残る湿った髪をき上げながらキッチンに入ってくる。
 白のワイシャツとスラックス姿の彼は見慣れているはずなのに、毎朝日課のように陽菜の胸はときめいてしまう。
 倫彰は、陽菜の前で肌をさらさない。
 記録的な酷暑だろうが、お風呂上がりだろうが、タンクトップやアンダーシャツ姿ですら陽菜には見せない。だから陽菜は、ワイシャツに包まれた彼のあの胸板を、じかに見たことはない。

(ガード堅すぎだよ……女子じゃないんだからさ……)

 倫彰は、『市間先生のお嬢さん』が快適に暮らせるよう徹底している。
 彼いわく「陽菜くらいの歳の子と三十過ぎのオッサンが一緒に暮らしてるだけで気持ち悪いのに。生活空間は別でいいよ」だそうだ。
 しかし陽菜は、できるだけ彼に構ってほしいので、休日はほとんどリビングで過ごすし、平日も「テレビに夢中で」なんてありがちな言い訳で、彼の帰りを一階のリビングで待っている。
 それに少しでも彼の役に立ちたくて、『奥さん』として見てほしくて、いろんなことを体得した。
 毎年消費に困るほど大量に届くお中元やお歳暮、挨拶あいさつ状のリスト化や、お返しの手配だってすっかりお手の物。
 彼の外食でかたよりがちな食生活をサポートすべく、家での食事はヘルシーなメニューを用意している。酒席帰りの小腹を満たす胃に優しい夜食レシピだって、何通りもマスターした。
 町内会のごみ拾いや夏祭りの手伝いも、皆勤賞で参加している。
『樋臣さんの姪っ子さんは、ほんとに働き者ね~』なんて言われているけれど。
 陽菜なりに、理想の良妻を目指してきたつもりだった。
 だけど……それらのアピールは、彼にはまったく響かなかったのだ。
 倫彰は三百六十五日『可愛い』の大安売りで愛情たっぷりに接してくれるけれど、その愛情が陽菜の欲しいものに変化することは、ついぞなかったわけである。

(だけど……今日もかっこいい……)

 陽菜の隣でコーヒーメーカーをセットしながら、「そろそろ髪を切らないとな」と落ちてくる髪を大きな手でうっとうしそうに搔き上げる姿は、朝だというのに壮絶な色気を放っている。
 もともと、優しさと鋭さが同居する顔は端整でかっこよかったけれど、それに加えて、ここ三年くらいで男の「渋み」みたいなものが増した気がする。いや、よくわからないけれど。

「いい匂い」

 カップを取ろうと陽菜の背後を通りがかった倫彰が、ささやくようにぽつりとこぼした。
 滑らかな低音ボイスは、何回聞いても反則級に陽菜の胸をときめかせる。

「きょ、今日のスープは、コンソメだよ。それと野菜サンド。食べられそう?」
「食べるよ。そのサンドイッチ大好きだ。朝から作ってくれたのか?」
「うん」
「早起きしてわざわざ作ってくれるなんて、うれしいなぁ。おかげで今日も頑張れそうだよ。本当に、陽菜はいい奥さんになりそうだ」

 いい奥さんになりそうだ──倫彰の何気ない、いつもの一言が、今日はよけいに胸に刺さる。
 四年一緒に暮らしても、彼にとって陽菜は『自分の妻』ではなく、いずれ誰かの妻になる存在なのだ。

「……倫彰さん」

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