旦那様、離婚してください! スパダリ社長の過保護な蜜愛

立花 吉野

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1巻

1-2

 陽菜はお鍋の火を止めて、コーヒーメーカーをセットする倫彰に、体ごと向きなおった。
 ドッドッドッと、自分の耳で心臓の音が拾えるくらい緊張している。
 これから初めて彼に嘘をつく。その罪悪感のせいか、握りしめた手の中に変な汗が浮かぶ。
「ん?」と顔をあげた倫彰は、陽菜の緊張を感じ取ったのか、浮かべていた優しい笑みを消した。

「……離婚したい。す…………好きな人ができた、から」

 声がうわずってしまった。
 ギュッとエプロンを握り締めた陽菜を見つめたまま、倫彰はしばらく呆然としていた。
 瞠られた目が、じっと陽菜を捕らえて離さない。
 まるで時が止まったように陽菜を見つめていた倫彰は──やがて、やわらかく微笑んだ。

「……そうか。わかった」
「えっ……い、いいの……?」

 あまりにも呆気なく了承されて、陽菜のほうが驚いてしまう。
 倫彰は苦笑して、コーヒーメーカーにフィルターを取り付ける作業を再開した。

「陽菜のことだから、俺が反対しないといけないような、悪い人ってわけじゃないだろう?」
「え?」
「相手だよ。陽菜が好きになった人。どんな人?」
「あっ──あぁ、うん、相手ね! あいて……」

 どうしよう!
 多少心配されるだろうとは思っていたけれど、「どんな人?」と訊かれるとは思わなかった!

「好きな人は、あの…………素敵な人だよ。優しいし、真面目だし、面白いし……ホントいい人で……えぇーっと……もう、すっごく──順調! そう、順調なの!」
「……へぇ。歳は? どこで知り合った?」

 しどろもどろな陽菜に、倫彰の表情がすーっと冷えてゆく。
 倫彰はコーヒーをれるのを中断し、カウンターに手を置く。
 彼の深い黒の瞳にジーッと見つめられるのは、一挙手一投足を監視されている気分だ。
 恥ずかしいから聞かないで……では、納得してくれそうにない。
 なんとかして『実在しない恋人』を倫彰に認めてもらわなければ──けれど、焦れば焦るほど、頭の中に浮かぶ好きな人のイメージは、倫彰そのものになってしまう。
 だって、彼以外の人を好きになったことなどないのだから!

「陽菜? 言えないような相手なのか?」
「ちっ、違うよ! あの、わたしが好きなのは──……会社の、先輩で……」
「年上? いくつだ?」
「さ、三十…………二……だったかなー……」
「ずいぶん年上なんだな」

 眉間にしわを寄せて心配そうにつぶやかれて、陽菜は心の中で後悔した。
 もっと若い設定にすればよかった。これでも本当に好きな人の実年齢より少し若くしたのに。
 けれど、今更年齢を訂正なんてできない。そんなの怪しすぎる……

「その、年齢は上だけど、その人は、話しててもあんまり感覚が変わらないっていうか……ほら、やっぱり価値観が近いって大事だよね! あははは……」

 乾いた笑いを漏らす陽菜に、倫彰は「そうか」と肩をすくめた。

「それで、結婚は?」
「もちろん未婚の人だよ!」
「そんなのあたりまえだろう。そうじゃなくて、離婚して、その人と結婚したいと考えてるんだろう? 違うのか?」
「……そ、そこまでは……まだ……」
「相手は三十を回った男なんだろう? 十歳近く年下の陽菜と付き合ってて、結婚を視野に入れてないって、ちょっと不誠実じゃないか──」

 娘の彼氏に文句をつける父親のようにブツブツ言いはじめた倫彰は、自分でもそれに気付いたのか、ハッとしたようにフリーズして苦笑した。

「……そうか、陽菜はまだ二十三だもんな。そこまで考えてないか。ごめん、先走り過ぎたよ」

 首を横に振って「そうだよな」と繰り返す倫彰は、コーヒーメーカーのセットに戻る。
 陽菜は密かに胸をなでおろした。
 寂しいけれど、これで彼を自由にしてあげられる──

「それなら、離婚は今すぐじゃないほうがいい。少しずつ準備して、年明けにしよう」
「えぇっ⁉ いや、すぐにしようよ! だって、わたし……結婚してるって相手に言ってないし」
「準備は進める。いろいろ手続きもあるから、すぐにとはいかないよ。それに、相手にはこの結婚のことをきちんと説明すればいい。そのほうが陽菜も、その年でバツイチになる理由が説明できていいだろう。真剣にお付き合いしてるなら、隠しごとをするのは陽菜もうしろめたいだろう?」
「それは、そうだけど……」

 なんだろう。すごくまっとうなことを言っているのだけれど、納得できないというか。

(わたしの計画と違うっていうか……)

 年明けということは、早くてもあと四カ月ある。
 倫彰は……というか、相手の女性はそれでいいのだろうか?
 それとも、あの白いワンピースの美女には、この結婚事情も説明済み?

「陽菜、それでいいね?」
「えっ、あぁ……うん」

 倫彰の女性関係を突っ込んで聞く勇気もないし、これ以上食い下がって墓穴を掘るのも避けたい。陽菜は彼の提案にうなずいた。
 ここは、倫彰の言うとおりにしておこう。

(そういえば……倫彰さんって、これまではデートとかどうしてたんだろう?)

 スープを木製のスープボウルによそいながら、陽菜はふと思った。
 倫彰は陽菜と結婚してから、休日は家で陽菜と過ごし、外せない出張以外の外泊はしない。クリスマスや年末年始、彼の誕生日などのイベントごとも、この四年はずっと陽菜と過ごしている。
 先日のように、仕事帰りに恋人と会っているのだろうか?
 倫彰は急な会食などに備えて会社に着替えを置いているから、こっそりおめかししてデートしていても陽菜にはわからないけれど。
 スープをよそう陽菜の手が、ピタリと止まる。

(あれ……? わたし、会社に好きな人がいる設定なんだよね……?)

 それなのに、いつも髪はひっつめで、メイクは必要最低限。
 いかにも社会人一年生な白のブラウスに黒のスカートを制服のごとく着まわしている。
 会社に好きな人がいたら、もう少し気合いが入るものではないか?
 土日もたまに友達と出かけるくらいで、ほとんど家で過ごしている。

(デートくらいするよね、普通は)

 今はまだ倫彰に疑われてはいない……と思う。
 けれど、このまま離婚まで毎週末変わらず陽菜が家にいたら、さすがに疑い出すだろう。

(さっきの様子だと「デートにも連れて行ってくれない相手なのか」とか言い出しそう……)

 うん、絶対言う。頭の中で声まで聞こえてくるほどだ。

(これからは、恋する乙女を演じよう!)

 おしゃれをして、週末はデートだと宣言して外出するのだ。
 偽装工作を心に決めた陽菜が「うん」とうなずくと、隣で倫彰が喉の奥を鳴らした。

「難しい顔して悩んでると思ったら、うん、って。可愛いなぁ」

 陽菜の頭をぽんぽんと撫でて、倫彰は笑いながらキッチンから出て行ってしまう。
 頬がジリジリと熱くなるのを自覚しながら、陽菜は倫彰の背中に恨めしい目を向けた。

(人の気も知らないで~~!)

 可愛いなんて言わないでほしい。
 このままの関係でいいから一緒にいたいって、つい思ってしまうじゃないか。


      ◆ ◇ ◆


「日替わりセットBで」
「わたしは日替わりのAで」

 混雑した社員食堂で、陽菜は同期の南蘭花みなみらんかと注文を済ませる。

「しょうが焼きもおいしそうだなー」
「迷っちゃうよね」

 からあげを注文した南のしょうが焼きへの未練に、陽菜は心の底から同意した。
 お財布に優しい社員食堂のランチは、食品商社だけあってメニューが充実しているし味も抜群だ。
 それにランチの日替わりセットには、ジャムの乗った一口サイズのパンがデザートについてくる。
 果肉のゴロゴロしたジャムは、盤廼が総代理店となっているフランス食料品店のもので、定番のいちごやブルーベリーのほかにもローズやマロン、ミラベルという西洋スモモなど、種類が豊富で人気の商品なのだ。その人気商材を試食感覚で楽しめるので、女性社員の間では日替わりセットがランチのテッパンメニューになっている。
 盤廼食品は安心・安全・高品質を掲げたクリーンな企業イメージのとおり、職場環境もいい。
 新入社員は同じ時間帯にお昼休憩に出られるように配慮されているし、残業もめったにない。
 仕事は大学生の頃に想像していたよりハードだし、人間関係って難しいと落ち込むこともあるけれど、大学の同期の中にはメンタルをんで退職した人もいると聞くから、恵まれた環境だと思う。

「ほんと、人生で一番英文読んでるかも。ときどき反動で漢字読めなくなっちゃうもん」

 大きな瞳をアメリカのコメディアンのようにくるりと回した南に笑いを誘われる。
 海外サプライヤーや輸送業者から届くメールのほとんどは英文だし、外国語で電話対応をすることもある。語学力とコミュニケーションスキルは必須項目だ。
 その分、やりがいはあるけれど。
 あれこれ話しながら、先に席についていた同期の二人に合流する。

「お疲れー」

 同期入社の女子社員はこの四人で、自然と仲が深まっている。

「南さん、さっき指導担当の山内やまうちさんに『みなちゃん』って呼ばれてなかった?」
「総務にも『南さん』がいるらしくって。山内さん、その南さんと同期なんだって」
「なるほどねー。それであだ名つけられたんだ」

 そうそう、とうなずきながら南はからあげを頬張る。

「なぁんだ~。南さん、山内さんとイイ感じなのかと思ったのにー」
「ち、違うって! そういうんじゃないから」

 めずらしく、南が言葉を詰まらせながらブンブンと首を横に振って否定する。

(おっ?)

 もしかして、南は先輩社員の山内が好きなのだろうか。

「それより、最近、市間さん雰囲気変わったよね!」

 キャベツの千切りを咀嚼そしゃくしていた陽菜が顔を上げると、ほかの同期たちも、うんうんとうなずいていた。

「最近、おしゃれしてるよね。メイクも前よりしっかりしてるし」
「髪型も変えたよね?」
「……うん。ちょっとね」

 指摘されると恥ずかしい。
 真っ白な無地のブラウスをピンクやレモン色のパステルカラーや、ノーカラーブラウスに。黒のスカートを紺のフレアスカートに。メイクや髪形もほんの少し変えたくらいで、派手な服装で出社しているわけではない。
 けれど、我ながら毎朝奮闘しているのも事実。
 だから変化に気付いてもらえるのは、照れくさいけれどちょっとうれしい。
 南がキラキラした目で身を乗り出してくる。

「どういう心境の変化? もしかして、会社で好きな人ができたとか?」
「ちっ、違うよ。そうじゃなくて……朝起きるのに慣れてきたから、時間の余裕ができて」
「なぁーんだ。絶対好きな人ができたと思ったのに」
「でもわかる。この生活リズムにやっと慣れてきた感じするよね」

 南もほかの同期たちも納得してくれたようで、陽菜は密かに胸を撫で下ろした。

(よかったぁ……聞かれても、説明できないもんね。結婚してることも秘密にしてるし)

 契約結婚をしていて、その相手と離婚するために架空の彼氏を作り上げ、恋する乙女を演じているなんて……ややこしすぎる。
 あれこれとしゃべりながらの食事が終わった頃、隣のテーブルから中国語が聞こえてきた。

『洋菓子ですか? ジュエリーではなく?』

 完璧な中国語の発声に、思わず視線が誘われる。
 上司らしき白髪交じりの渋い男性と、三十代くらいの秘書っぽい二人の男性の三人組。

『女性のご機嫌取りといったら、甘いものだろう? せっかく日本に来たのに、妻に構ってやれなくて、ねてるんだ。妻好みの流行りのものはないかな?』
『こちらはどうですか? 有名な老舗洋菓子店ですよ』

 陽菜は大学で英語とフランス語と中国語を学んだが、中国語は発声が難しく、ヒアリングはできても会話はできない。

『いやいや、デパートやホテルの洋菓子では妻は納得しないよ。観光客の定番の店じゃなく、若い人たち向けの、流行はやりの店の心当たりはないかな?』

 そういえば、倫彰もよくケーキやプリンを買って帰る。
 世の男性たちは、ケーキを買って帰れば妻が納得すると思っているのだろうか。

(でも、悪い気はしないんだよね。食べてるときは幸せだし)

 思いのほか自分がチョロいことを再認識していると、同期のひとりがボソリと呟いた。 

「あの人、中国支部の支部長だ」

 陽菜たちは、一斉に隣のテーブルを盗み見た。
 秘書二人はスマホを操作している。上司のために洋菓子店を探しているのだろう。
 倫彰も、秘書の相葉にこうしてお店探しを頼んだりするのだろうか?

「あの眼鏡の人、かっこいい……」

 同期の一人が、はぁーっと桃色のため息をついた。
 南がテーブルにべったり胸がつくくらい身を乗り出し、自然と全員が顔を寄せ合う。

「あの眼鏡の人、社長秘書の加苅かがりさんだよ。重役秘書って、ほぼ出世確定コースなんだって。中国支部長も、会長が社長だった頃の秘書だったって」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「山内さんに教えてもらった」

 へぇーと皆がうなずくなかで、陽菜は自然と体を引いて、そのうち相葉も秘書から要職へと出世するのだろうかとぼんやりと想像した。
 そうなったら、倫彰の仕事中毒に、誰がブレーキをかけてくれるのだろう。

『今日本で流行りの店なら、加苅さんにお任せするしかないですね』

 隣では、お店選びが難航しているらしい。
 中国支部長と噂の加苅は日本人らしいけれど、もう一人は中国出身のようで、イントネーションが完全にネイティブのそれだ。

(あの人は、日本語は得意じゃないのかな。だから中国語で話してるのかも)

 チラリと横目で隣のテーブルを窺うと、眼鏡越しの加苅と目が合った。
 彼の整った細面ほそおもてに、困ったような笑みが浮かぶ。

「おすすめのお店、ある?」

 日本語で問われて、常日頃の相葉への同情のような感情が込み上げてきた。

「中目黒の『イズミノ』という洋菓子店がおすすめです。季節のフルーツを使った限定のケーキもありますし、お店の看板商品のフランボワーズのケーキは、真っ赤なソースに金粉のデコレーションが華やかで、味もおいしいですよ。今、わたしたちくらいの年代で話題のお店なんです」

 若手女優がSNSでおすすめしたことで、イートインの席は半月先まで予約が取れなくなってしまったけれど、テイクアウトは前日までの予約なら確実に確保できる。
 陽菜の答えに、加苅は眼鏡の奥で切れ長の目を驚いたように見開いていた。

「へぇ。『イズミノ』ね……ありがとう」

 お店のHPを確認したのか、加苅は中国支部長にスマホの画面を見せている。
 会話の流れから、支部長にも気に入ってもらえたことがわかってホッとした。
 南が大きな目をパチパチとまたたかせながら身を乗り出す。

「市間さん、中国語わかるの?」
「うん。でも、聞くだけね。発音が難しくて、話すのは全然なんだけど」

「それでもすごいよ!」と南に尊敬の眼差しを送られて、なんだか面映おもはゆい。
 陽菜が照れ笑いしていると、隣のテーブルの本部長たちが席を立った。
 去り際に加苅が、陽菜たちのテーブルをトントンと指で叩いて視線を誘う。

「ありがとう。助かったよ」

 微笑みを残して加苅が去って行くと、同期たちが一斉に陽菜を見る。

「今のがきっかけで、恋がはじまったりして~」
「ないない。絶対ないよ」

 好きな人はほかにいるのだ。
 倫彰の存在が大きすぎて、他の人にドキリともしなくて困っているくらいなのだから。
 陽菜がキッパリ否定したにもかかわらず、それでも夢を見たい同期たちは、しばらく『先輩社員と恋がはじまったら?』と、もしもの話で盛り上がっていた。


      ◆ ◇ ◆


(天気予報の嘘つき~!)

 雨脚が強まっていく夜道を走りながら、陽菜は天気予報に毒づいた。
 閑静な住宅街は日曜の雨夜にさらに静まり、自宅に灯る明かりがよけいに温かく見える。
 門扉に飛びつき、勢いのまま玄関ポーチに飛び込んで慌ただしくドアを開ける。
 物音に気付いたのか、自室から出てきた倫彰が陽菜を見るなりカッと目を見開いた。

「びしょ濡れじゃないか!」
「傘持ってなくて……えへへ」
「タオルを──」
「ううん! このままシャワー浴びてくる。う~寒い~」

 濡れたパンプスを脱ぎ捨てて、二階に上がって自分専用のバスルームに直行した。
 熱いシャワーを頭から浴びる。芯まで冷えた体が温まってくると、今日一日うっすらと感じていた虚無感が、大波となってドッと押し寄せてきた。

(はぁぁぁ……わたし何やってるんだろう)

 ──陽菜は今日、いつになくおしゃれをして、昼前に家を出た。
 倫彰に嘘を見破られないために、実在しない彼氏との偽装デートを実行したのだ。
 適当に街に出てみたけれど、九月中旬の週末はどこもかしこも人で大賑わい。
 カフェに入っても長居はしづらくて、あちこち歩き回った結果、夕方にはすっかり疲れてネットカフェに引きこもってしまった。
 二十時過ぎにネットカフェを出たとたんに降り出した雨は、そのうち止むだろうと楽観した陽菜をあざ笑うようにどんどん強くなっていった。
 疲れただけで、実りある休日とはとても言えない。
 いつもなら天国みたいに過ごしやすいこの家で、倫彰と一緒にまったりしていたのに。

(これも円満離婚のためだから。倫彰さんには幸せになってもらわないと!)

 それに今日は、一人暮らしの下調べをしたではないか。
 独立の資金には貯金を切り崩すとして、今後はできるだけ無駄な出費を抑えていきたい。
 来週からは、街を出歩くのはやめて図書館で勉強しよう。
 節約になるし、時間も有効活用できる。
 前向きに考えてバスルームを出た陽菜は、お気に入りのクリーム色のルームウェアを身につけて廊下に出るなり、苦い顔になった。
 びしょ濡れにしたはずの廊下には、水滴ひとつ残っていない。

(倫彰さんが拭いてくれたんだ……悪いことしちゃったな)

 階下に下りた陽菜がリビングに入ると、倫彰はキッチンに立っていた。
 陽菜が今朝作ったスープを、温め直しているのだ。白菜と大根おろしの中華風肉団子スープのおいしい匂いが漂ってくる。

「倫彰さん! 廊下、拭いてくれてありがとう」
「いいよ。寒かっただろう? 陽菜も食べるか?」
「食べる! お腹空いちゃってたんだ! 冷凍の焼きおにぎりも出しちゃおうかなー」
「夕飯、一緒に食べてきたんじゃないのか?」

 まずい! うっかり本音を漏らしてしまった!

「あぁー……えぇっと、食べたんだけど……足りなくて!」

 疑われるくらいなら、食い意地が張っていると思われたほうがいい。
 自棄やけになっての発言だったけれど、倫彰は「そうか」と微笑んだだけ。
 食い意地が張っている設定があっさりと受け入れられて、なんだか釈然としない。いや、疑われるよりいいのだけれど。
 冷蔵庫の冷凍室から取り出した自家製の焼きおにぎりを、レンジで温める。

「傘、持ってなかったのか?」
「うん。天気予報では、雨なんて言ってなかったし。傘買うほどでもないかなーと思ったんだけど、途中から本降りになってきちゃって」
「家まで送ってもらえばよかったのに。相手は、車は持ってないのか?」
「う、うん! ほら、東京って車なくても生きていけるし。むしろ邪魔になるからって!」

 別に、辻褄つじつまの合わないことは言っていない。
 けれど、なんだか追い込まれている気がしてならない。
 それはたぶん、スープを木製のボウルによそう倫彰の放つ雰囲気のせいだ。
 お鍋に視線を落としている彼の目元が、なぜか、やけに鋭いのだ。

「陽菜……こういうことは、できれば言いたくないし、陽菜のことは信用してる。けど、心配だ」

 慎重に言葉を選んでいる様子の倫彰に、陽菜はゴクリと喉を鳴らした。
 もしかして、嘘がバレた……?

「この時間に、雨の中、傘も持たせずに恋人を帰らせるなんて……男として、ありえない」
「えっ?」
「俺がいるから家まで送るのは遠慮してるにしても、傘を買って持たせるなり、タクシーに乗せるくらいはするだろう。相手の男が陽菜と同年代ならまだしも……三十代だろう?」
「そ、そうだけど……普通、そこまでしないんじゃ……」
「相手が大切な人なら、それくらいして当然だ。それが誠実なお付き合いだよ」
「……そ、そういうものなの……?」

 交際経験のない陽菜にはよくわからない。
 その返事が火に油を注いでしまったのか、いっそう倫彰の眉間のしわが深くなる。

「つまり、日ごろから、そういう扱いなんだな」
「あのっ、その、それは……」

 どうしよう! 架空の恋人への倫彰の心証がどんどん悪くなってしまっている!

「それに、相手の男。たばこを吸うんじゃないか? 帰ってきたとき、たばこの臭いがした」
「そ、それは……」

 たぶん、街をぶらぶらしたり、ネットカフェで服にいろんな臭いがついたのだろう。
 けれども倫彰は、初めて見る暗く思いつめた表情で、ため息をつく。

「……家に招いておいて、帰りに送りもしない男なんて……」
「家⁉ ちっ、違うよ! 今日は、ネットカフェでマンガ読んだりしてただけ! 彼の家には行ってないよ!」
「え……ネットカフェ? デートで……?」
「そうだよ! 彼の家なんて、行ったことないから! 服の臭いはたぶん、お昼に寄ったカフェとかお店とか、そのあと行ったネットカフェでついただけで……変な勘違いしないでっ!」
「そうか……。ごめん、ちょっと、心配しすぎたみたいだ」

 誤解が解けた陽菜と、とんでもない心配をしていたらしい倫彰は、揃って安堵の息をついた。

(お家デートだと思われてたなんて……)

 偽装デートですら健全なプランしか思いつかなかった陽菜には想定外で、顔から湯気が出そうだ。

「だけどネットカフェって……いつもそんなデートなのか? どこかに出かけるんじゃなくて?」
「……いつもじゃないけど……ときどきね」

 具体的にどこに行ったか訊かれても、きっと答えられない。曖昧あいまいに肯定するしかない。

「陽菜は、別にマンガが特別好きってわけでもないのに。相手が好きなのか?」
「…………うん」

 そういうことにしておこう。

「陽菜は、それで楽しいのか?」

 また「うん」とうなずいてみたけれど、虚無感たっぷりの一日だったと思っていたせいか、自分でも驚くほど元気のない返事になってしまった。

「その人は、陽菜を大事にしてくれてるか?」

 どう返事をしていいのかわからない。

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