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1巻

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 倫彰なら雨の中、恋人を傘もなしに帰らせたりしないのかもしれない。デートの行き先だって、陽菜の好きそうな場所をリサーチして連れて行ってくれるのかもしれない。
 だけど、ほかの男の人ならどうなのか、陽菜は知らない。
 倫彰のことだって、陽菜は家族としての顔しか知らない。
 彼がひとりの男として、どんなふうに恋人を扱うのか、この先も陽菜が知ることはない。

「大事にしてもらってるって、断言してくれないのか?」
「…………大事に、してもらってると、思うけど……」

 情けなくて、視線も気持ちも下向いてしまう。
 二十三歳にもなって、交際経験どころか、デートの経験すらない。
 心配されてしまうような、現実味のない虚構デートをしている始末だ。
 好きな人は、目の前にいるのに。

「……これまではどうしてたんだ」

 心底心配そうにこぼした倫彰に、陽菜はシュンと項垂うなだれた。

「……だって……これまで、デートなんてしたことないし……」
「え……一度も?」
「……ないよ。一度も。誰とも! だから、どこに行くのが普通とか、何をするのが一般的とか、なんにも知らないの!」

 なんだか虚しくなってきて、言葉が止まらなくなる。

「だいたい、大学生のときだって、倫彰さんが門限は十九時って決めたんだよ。バイトも学業優先だって禁止して……わたし、めちゃくちゃ厳しい家の子だって思われてたんだからね!」
「大学生の女の子なら、門限はそれくらいだろう?」
「みんなもっと遅かったよ! それに、ちょっと大雨だとか、電車が止まったとか、ちょっとしたことで倫彰さん車で迎えに来ちゃうし。防犯ブザーと防犯スプレーまで持たされるし。わたしの大学のときのあだ名、『お嬢』だったんだからね!」
「可愛いじゃないか」
「可愛くない! 箱入りってバカにされてたの!」
「もしかして、そのせいで、出会いがなかったのか? 家が、厳しいから?」

 そういうわけではないけれど……陽菜はむすっと唇を突き出して、うんとうなずく。
 平凡を絵に描いたような地味な容姿で、おまけに『厳しい家の子』で通っていた陽菜だって、さすがに『わたしの友達、紹介してあげよっか?』なんて話が一度もなかったわけじゃない。
 そういったお誘いを全部断ってきたのは、倫彰がいたからだ。
 毎日毎日側にいて、休みの日には一緒にテレビを見たり、買い物に行ったり、作った料理をおいしいと食べてくれるのだ。
 手が届かない人だとわかっていても、どんなに異性として見てもらえなくても、毎日一緒にいる好きな人への気持ちをなかったことにして、ほかの人とデートする気になんてなれない。
 だから、ものすごーく簡略化していえば、彼にも責任はある。

「そうか……そうだな。確かに俺は、ちょっと過保護ではあるし……。それなら、デートしようか」
「うん、そう、倫彰さんのせい……えっ?」

 勢いでうなずきかけたけれど、よく考えると意味がわからない。
 倫彰は、スープボウルやレンジから取り出したほかほかの焼きおにぎりをキッチンカウンターに置きながら、陽菜を見てクシャッと笑った。

「相手は三十代なんだろう? 俺は陽菜くらいの年代の子が何を考えてるかはよくわからないけど、三十路みそじの男が何を考えてるかはわかるよ。だから、練習してみよう」
「な、なんでそうなるの⁉」
「このままだと、陽菜がその男……いや、その相手じゃなくても、男に振り回されるのは時間の問題な気がする。彼氏に会わせてくれる気はないんだろう?」
「やだ、絶対嫌っ!」

 というか、会わせることなんてできない。架空の人物なのだから。

「なら、俺で練習してみたらいい。男目線での忠告くらいはできると思う。俺にできるのは、もうそれくらいだし──それに、俺のせいなんだろう? 陽菜が箱入りなのは。だったら、責任を取らないとな」

 肩をすくめて、冗談とも本気とも取れない調子でそう言うと、彼は陽菜を手招きしてダイニングテーブルに着くように指示をする。

「ほ……本気じゃないよね?」
「本気だよ。やっと、嫁入り前の娘と家族旅行に行きたがる父親の気持ちがわかったよ。思い出作りがしたいんだな。俺は今、まさにその心境だよ」
(な、なんだぁぁ……そっちか……)

 デートと言うからドキドキしてしまったではないか。純情な乙女のときめきを返して欲しい。
 けれど、倫彰の恋人の立場はどうなるんだろう?

「……それって、倫彰さんの恋人はいい気分じゃないと思うけど。一応、わたし奥さんだし」
「恋人なんていないよ」
「……ほんとに?」
「いたら、陽菜には紹介する」

 だったら、あの女の人は?
 聞きたい気持ちをぐっと堪える。
 もう別れたのかもしれないし、今はまだ恋人未満なのかもしれない。もしかしたら、割り切ったオトナの関係という可能性も──とにかく、詳細は知りたくない。

(それに、これって最後のチャンスだよね……)

 倫彰にとっては深い意味のない疑似デートだとしても、陽菜には特別な思い出になるはずだ。
 胸の奥で、心臓がトクトクと駆け足になっていく。

「あぁ、でも、陽菜の彼氏が嫉妬しっとするかな? 俺と陽菜が、二人きりで出かけたら」
「いっ、いいんじゃないかな! あの人、来週から仕事で忙しいって言ってたし……!」

 いもしない好きな人のために、倫彰とのデートのチャンスをフイにするなんて絶対に避けたい。あの女性のことは気にかかるけれど……
 複雑な思いを抱えながらも、来週末に出かけると決まって、陽菜はすっかり舞い上がっていた。日曜が終わったばかりなのに、もう次の日曜が楽しみで仕方がなかった。


      ◆ ◇ ◆


 九月下旬の日曜日。
 都心からちょっと離れたカフェが、今日の目的地。
 倫彰とは、自宅の最寄り駅で待ち合わせすることになっている。

『そのほうが、臨場感があるだろう?』

 駅での待ち合わせを提案したのは倫彰だった。
 陽菜の恋人(架空)が車を持っていないから、移動手段は電車のほうがいいと判断したらしい。そのうえ倫彰は、朝からスポーツジムに出かけており、そのまま昼過ぎに待ち合わせ場所にやってくる徹底ぶりである。

(変なところでこだわるからなぁ、倫彰さん)

 彼のこだわりの強さに首をひねりながらも、陽菜の口元はゆるみっぱなしだ。
 この日のために購入したスモーキーオレンジのワンピースの裾が、脛のあたりでひらりと揺れる。
 襟元がキュッとつまり、ウエストにベルトの付いたちょっと大人っぽいワンピース。
 倫彰との初デートにふさわしいと思える服は手持ちの中には見つけられなくて、あちこち巡ってやっと選んだ一着だ。
 薄手のデニムジャケットを羽織り、足元は黒のショートブーツ。
 髪は緩く巻いて下ろし、ちょうどいい大人っぽさ……の、はずだ。
 急に彼にり合うような大人の女性にはなれないけれど、ほんの少しでも、背伸びしたい。
 今日くらい、異性として見てほしい。

(変じゃないかな……)

 見慣れた最寄り駅が近付いてくるにつれて、緊張と不安で鼓動が加速していく。
 人の流れに乗って最後の信号を渡ると、約束どおりに倫彰は駅前のバス停の傍で待っていた。
 アイボリーのサマーニットに薄手のジャケットを合わせ、ボトムはデニムだ。
 髪も普段よりラフなスタイリングで、いつもよりかなりやわらかい雰囲気に見える。
 完全プライベートモードの装いを見るのは初めてではないけれど、顔が急に熱をびた。

(どうしよう……倫彰さんと、デートなんだ……)

 行き交う人の中に陽菜を探していたらしい倫彰の視線が、一度陽菜の上を通り過ぎて、はっとしたように戻ってくる。ほんのひととき目を瞠った倫彰が、クシャッと笑う。

「一瞬、陽菜だってわからなかった。すっかりお姉さんだなぁ」
「……わたしだって、二十三歳の大人ですからね。おでかけのときはおしゃれくらいするんですー」

 渾身こんしんのおしゃれが「お姉さん」だなんて、やっぱり子供扱いだ。
 だからといって、どう言ってもらったら自分が満足するのかはわからないけれど。

「そうか、今のは失礼だったな。うん、似合ってるよ。大人っぽくて、ドキッとした」

 大人っぽい。ドキッとした。
 リップサービスだとわかっているのに、陽菜の頬はカァッとなった。

「…………そう? ふーん……」

 子供扱いされるとモヤモヤするのに、大人っぽいと言われるとドキドキして、まともに返事もできずにツンとそっぽを向いてしまう。
 そういうところが子供なんだとわかっているけれど、この反応が精一杯。
 胸が高鳴って、頭の中がふわふわして、気持ちが浮ついてしまうのだ。


 倫彰が陽菜を連れて行ってくれたのは、三十分ほど電車で揺られた自然公園の近くのカフェだ。歴史を感じさせる立派な洋館は、言われなければ飲食店だとわからなかっただろう。
 お店の内装もモダンレトロで統一され、大きな振り子時計や猫足のソファなどの装飾品も、雰囲気たっぷりでドキドキしてしまう。

(こういうところ、来てみたかったんだよね)

 大学生の女子会にはちょっとハードルが高い、大人女子向けのカフェだ。
 倫彰は予約してくれていたらしく、受付をするとスムーズに二階の窓辺の席に案内された。

「わぁ……」

 布張りの肘掛け椅子に座った陽菜は背筋をピンと伸ばし、好奇心のままにキョロキョロと店内を観察する。
 幅広い年代の女性たちが主な客層で、ほかには二組カップルがいる。
 どちらも陽菜と同年代くらいだろうか。

(わたしたちもカップルに見えるかな)

 勝手な想像でにんまりしそうになった陽菜だったが、はっとして顔をあげる。
 ゆったりと椅子に背を預けた倫彰が、子猫でも見るような表情でこちらを見守っていた。
 大人っぽいと褒めてもらったのに、台無しにしてしまったかも……!

「……素敵なお店だったから、いろいろ気になっちゃって」

 しょんぼりしかけた陽菜に、倫彰は目尻のしわを深くして手を伸ばす。
 小動物の喉をくすぐるみたいに、彼の長い指がふわりと頬を撫でた。

「陽菜の喜ぶ顔が見たかったんだから。楽しんでくれたほうがうれしいよ」

 いつもよりソフトな触れ方に、全身の毛がぶわりと逆立った。
 頭や頬をそっと撫でられるくらい、いつものことなのに。
 なぜか今日は、普段よりずっとドキドキする。
 心を落ち着けようと窓の外に視線を向ける。

「わぁ……すごい。いい眺めだね」

 窓外に広がる手入れの行き届いた庭。それを囲う外壁の向こうに広がる、自然公園の緑。
 目の奥がじんわりするくらい優しい景色だ。
 ビル群を遠く感じさせる景色は、陽菜を懐かしい気分にさせる。

(地元を思い出すなぁ……)

 祖母の納骨以来、地元には一度も帰っていない。
 家族がどこにもいない現実に打ちのめされてしまいそうで、帰れないのだ。
 けれども郷愁の念は確かにあって、テレビや雑誌で田舎町を目にすると、ついぼんやりと見入ってしまう。もしかしたら倫彰は、陽菜の好きそうな店を選んだだけでなく、この景色を見せようとしてくれたのかもしれない。

「こんな素敵なカフェがあったなんて、知らなかった」
「俺もこのあいだ知ったんだ」
「来たことあったから連れてきてくれたんじゃないの?」
「仕事でこのあたりに来たときに、大正時代に建てられた洋館のカフェがあるって聞いて、相葉と通りから見たんだ。だけど、男一人で入る店じゃないし、相葉と来てもなぁ」

 確かにこの圧倒的女性向けの空間に、倫彰と相葉の二人組ははまらない。

(ビジネスより、女子会かデート向きだもんね)

 倫彰は、ほかの女性と来る選択肢はなかったのだろうか?

(そんな時間なかったのかも……)

 彼は休日はできるだけ家にいて、陽菜と過ごしてくれる。
 ゆっくりデートする時間があったとは思えない。
 そう思うと、また胸の奥がギューッと締め付けられる。
 人生の大事なときを、倫彰は陽菜の側にいることを選んでくれた。
 彼が嫌々自分と家族になっただなんて卑屈になっているわけじゃない。
 一緒に過ごした時間は、彼にとっても、温かくて心地良い時間だったと信じたい。
 だけど、陽菜と家族として過ごすことを選んだ彼が、ほかの選択肢を選ばなかったことからは目を逸らしてはいけないとも思う。
 彼の友人たちから届く季節の挨拶あいさつ状には、可愛い子供の写真が添えてあることが増えた。
 幸せな家族写真を目にするたび、自分と結婚していなかったら、今頃彼にも訪れていたかもしれない未来を思い描かずにはいられなかった。
 そして、少しずつ罪悪感が大きくなっていった。
 糸がもつれるように、感謝の気持ちや罪悪感、叶わない片思いが絡まり合って、やっぱり離婚するのが一番いいと思える。

(うん、やっぱり、これがいい。お別れじゃなくて、独り立ちするときなんだ)

 こくりと陽菜がうなずくと、向かいで倫彰が軽やかな声をあげて笑う。

「難しい顔してると思ったら、また『うん』って。可愛いなぁ」
「っ……! そ、外ではそういうのやめてよね……!」

 耳まで熱くなった陽菜がモジモジと俯いたところに、アフタヌーンティーセットが運ばれてきた。
 深い緑のガラスのプレートに、サンドイッチやタルトが並んでいる。
 別で用意された真っ白なプレートには、スコーンとジャムとクロテッドクリーム。
 愛らしい花柄のティーセット。すべてが乙女心を刺激する。

(か、かわいい~! おいしそう~!)
「全部顔に出てるよ。可愛いなぁ」

 倫彰がまた不用意に可愛いと言いだして、紅茶の抽出時間をはかるために砂時計をセットしていた女性店員さんにも温かい眼差しで微笑まれてしまった。

(言わないでって頼んだばっかりなのに! これだから倫彰さんはっ!)

 自分でもはっきりわかるくらい顔が熱くなる。

「は、恥ずかしいでしょ……!」

 店員さんが去るなり抗議するが、やはり倫彰には響いていない。

「ごめんごめん。だけど、本当に陽菜が可愛いんだからしょうがない」
「も、もうっ……!」

 話にならないので、倫彰を無視してテーブルに並ぶセットをスマホで撮影する。
 むくれた陽菜を、彼は肘掛けに頬杖をついて目を細めて見つめていた。

「困ったなぁ……。陽菜は、恋愛で苦労しそうだ」
「えぇっ、なんで⁉」
「こんなにいちいち反応が可愛いと、いじめたくなる。男ってそういうバカな生き物なんだよ」

 ほんの一瞬、倫彰の視線が鋭さを増して、つやを帯びたように見えた。
 その眼差しに、体の奥がしびれるようにジンとして……変な感じだ。
 知らない感覚に、ほんの少し怖くなる。

「わ、わたしは……そんな悪趣味なことしない、優しい人を選びますー」

 子供じみた口調の反論が咄嗟とっさに口をついて出る。
 倫彰は冗談のように笑って「そう願うよ」と話を流し、ころんと丸いティーポットを手にして、温められたカップに陽菜のために紅茶を注いだ。

「さあ、どうぞ」
「……ありがとう」

 倫彰は家でもときどき紅茶やお茶をれてくれるけれど、今日のこの特別感はなんだろう。

(外だからかな? なんか、いつもよりドキドキする……)

 なんでもないようなフリで紅茶を味わい、あたたかいうちにスコーンを食べる。
 クロテッドクリームのまろやかな風味とジャムの爽やかな甘みが、スコーンの香ばしさとともに口の中に広がる。
 おいしさに目を瞠った陽菜に、倫彰が満足げに頬をゆるめた。

「よかったな。おいしくて」

 大きな手が伸びてきて、ぽんぽんと頭を撫でられる。

「まったく……可愛いなぁ」

 髪型が崩れないよう配慮した優しい手つきに、陽菜は心の中で悲鳴をあげた。

(心臓、もたないかも……!)


      ◆ ◇ ◆


 社会人一年生にとって、月曜日は緊張の日だ。
 先週の自分のミスが発覚したり、予想外の仕事を回されて右往左往したり。
 怒涛の電話ラッシュで午前中はあっという間に過ぎ去って、お昼前なのにすでにヘロヘロだ。
 昨日の夢みたいなデートが、はるか昔のことのように感じる。
 ──倫彰とカフェを出たあとは、のんびり自然公園を散策して、駅前の大型書店に立ち寄った。
 陽菜の目当てはCD付きの中国語会話教材だったけれど、それ以外にも文芸や雑誌のコーナーを見て回り、書店を出るときには『隣県の美術館で開催される期間限定の展示会に行こう』と次のデートが決まっていた。
 あまりに自然で、次の約束を取り付けられたことにも気付かなかった。
 大人の男、おそるべしだ。
 けれども、ドキドキのデートから帰宅したあとは、いつもの家族モードに戻っていた。
 二十二時には、「そろそろ寝なさい」と二階に追い立てられたのだ。
 いまどき中学生でももっと遅くまで起きているだろうに。
 陽菜は机に両手をついて、ぎゅーっと背筋を伸ばす。

(美術館、本当に連れて行ってくれるのかな。ううん、行けなくても、倫彰さんとデートの雰囲気を味わえただけで幸せ……)
「市間さーん、ちょっと」
「は、はいっ!」

 ミーティングルームから顔を出した部長に呼ばれて、陽菜はビクッと腰を浮かせた。
 いけない。仕事中に別のことを考えてしまっていた。
 部長は、陽菜をちょいちょいと手招きしている。ミーティングルームの窓からは、先日食堂で遭遇した眼鏡の男性が見えた。たしか、秘書課の加苅だ。

(わたし……何かやらかした?)

 冷たいものを背筋に感じながらミーティングルームに入る。
 椅子に座った部長が一枚の用紙を長机の上に滑らせ、老眼鏡の上からチラッと陽菜をのぞいた。

「これ、市間さんが対応してくれたんだよね? ポルトガル語も話せるの?」
「は、はい。日常会話程度なら。それもかなり、カタコトですが……」

 すぐにはピンとこなかったけれど、そういえば先日、ブラジルからの電話連絡を受けて担当者に取り次いだのだ。
 通話相手の英語はなまりが強く文法もでたらめで、こちらの話が通じているのか曖昧あいまいな返事だった。十二時間時差のあるブラジルからの緊急連絡だったこともあり、咄嗟とっさにポルトガル語で対応した。それがまずかったのだろうか。

「英語とフランス語も堪能だったよね。あと、中国語も話せるんだって?」
「中国語はうまく発音できないので、ほとんど話せませんが……」
「どうして入社面接で、英仏以外の語学も堪能なことを伏せていたのか、教えてもらえますか?」

 部長の背後にたたずんでいた加苅が、不思議そうに首を傾げた。
 やや吊った鋭い目が、倫彰の秘書相葉と重なる。

「英語以外の外国語は、ビジネスで通用するレベルではないからです」

 陽菜の地元には、毎年多くの外国人観光客がやってきた。
 旅行者は皆、ガイドやスマホを片手に、翻訳機能や例文を駆使して会話を成立させようとしてくれるが、それだけではカバーできないことも当然出てくる。
 陽菜の両親は、英語はコミュニケーションに不自由しないくらいには話せたし、弟の将太は、夏の合宿に訪れていたケニア出身の留学生からスワヒリ語を教えてもらって、談笑できるレベルまで習得していた。
 それに、倫彰もそうだ。
 中学三年生の冬。倫彰に都心のショッピングモールに連れて行ってもらったとき、言葉が通じず困っていた旅行者に、彼は流暢りゅうちょうなフランス語で道案内をしていた。
 その姿を見て、陽菜は漠然と、いろんな言葉が話せたら楽しいだろう、世界が広がるだろうなと思い、大学は語学を学びたいと進路を決めた。
 陽菜は大学で英語と中国語、そしてフランス語を学んだ。
 それぞれの検定試験で高スコアを獲得し、英語とフランス語は在学中に教授から資料の翻訳を頼まれるなど、方々で太鼓判をもらって自信がついた。
 けれど中国語は発音が難しく、読み書きとヒアリングはできるが、会話ができない典型的なガリ勉タイプの習得で、武器になるほどの域には到達できなかった。
 ポルトガル語だって、大学の交換留学生に教えてもらって、あやしい発音で日常的な会話がギリギリ成立する程度のものだ。
 大学で四年も集中して学んだのにという悔しい気持ちが強くて、語学に堪能だなんて言えなかった。だからエントリーシートには書かなかったのだ。

「日常会話で充分ですよ。それに、中国語は話せなくても理解はできるわけですよね?」

 陽菜はためらいつつも、嘘をつくのもはばかられて正直に「はい」と返す。
 加苅が部長に目配せし、二人の間で無言の会話がなされた。

「市間さん、改めて紹介するね。こちらは社長秘書の加苅さん。先日、社長の第二秘書が退職してね。ほら、この間の海外赴任が決まったウチの部の岡本おかもと君。壮行会で秘書課の人との結婚発表してたでしょ? その相手が、加苅さんの相棒だったんだよ。急な話だったから、加苅さんも困ってるそうなんだ。外国語に堪能な──特に、英語と中国語のできる人を探してたんだ。市間さん、どうだろう?」
「えっ、異動ですか?」

 あまりにも唐突な話に、陽菜は二人の顔を見比べる。
 営業部のアシスタント業務にやっと慣れてきたばかりなのだ。
 いきなり秘書、それも社長の第二秘書だなんて言われても困惑する。

「業務内容は、今とほとんど変わりませんよ。君の失敗で会社が傾くようなことをお願いするわけではないから、おびえなくても」

 陽菜を安心させようとしているのか、加苅は微笑んで冗談を交える。

「なかなかないよ、秘書課から声がかかるなんて。ステップアップになるよ?」
「実際に見てもらったほうがイメージしやすいかな。少しお借りしても構いませんか?」
「どうぞどうぞ。市間さん、いってらっしゃい」

 加苅がミーティングルームのドアを開けたので、陽菜は渋々彼について廊下に出た。
 エレベーターで十四階まであがり、そこで上層階専用のエレベーターに乗り換える。
 上層階は大会議室や役員フロアになっており、陽菜がこのエレベーターに乗るのは新入社員研修のとき以来だ。

「秘書課は十四階。けど、市間さんには十七階の社長室にいてもらうことになるから、先にそっちを案内するね」

 二人きりになると、加苅は砕けた口調で陽菜に話しかける。
 十七階の重役フロアは、敷かれたカーペットからして一般フロアとは異なっている。
 社長室は二部屋に仕切られており、廊下のドアを入ると加苅と第二秘書のデスクが置かれた部屋があり、その奥が社長の執務室という構造だ。
 加苅のデスクで、実際のメールや資料を見せてもらう。

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