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番外編(幼き二兎、視界は紅く染まる)後編
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三弥砥の横を歩きながら、二兎は物思いに耽っていた。
果たして、この男は殺さなくていいのだろうか?生まれてから、人を殺す術しか教えられず、父親以外に会ったことなど皆無。喋ることなどは論外。むしろ、食事を与えられたのも数えるくらいだった。常に空腹を感じ、僅かな雨水を飲み、雑草を引き千切って食べていた。
父親は、隠れて(二兎は気付いていたが)酒を飲み、二兎が狩った狼の肉を山では高級な塩で味付けて食べていた。
父親は自分の得だけ考え、山に住んでる害獣を狩る二兎の栄誉を我が物にしていた。二兎は、それに関して、どうせ何を言ってもダメだと思い、黙っていた。
「二兎。ここがわしの家だ。イツ!今帰ったよ!」
よく通る三弥砥の声で、顔を上げて驚いた。
目の前には、檜の香りが漂う重厚な平家があった。庭には、鶏がけたたましく鳴き、草が生茂る奥の方では、山羊や馬がモシャモシャと草を食べていて、今まで二兎が見たことのない景色が広がっていた。
「イツ!…何処にいるんだい?お客さんだよ!」
三弥砥は、二兎から離れ、庭の奥へ行ってしまった。
残された二兎は、目の前に赤いフィルターがかかったかのようになっていた。
鶏を殺せば、食物になる。
山羊を殺せば、村で上物の着物と替えてもらえる。
馬を殺せば、食物と着物が両方とも手に入る。
しかし、ここは三弥砥の家だ。勝手に手を出してはいけない。村で裁かれたら大罪になる。
だが、理性が、本能が、身体に染み付いた習慣が「絡繰」へと手を伸ばそうとする。
カチカチと震えて歯の根が合わない。高熱で魘されているときのように、身体が熱くなる。
駄目だ、と思い拳を握る。
だが、「殺せ」と、呪いの思想が消えない。
殺したい。
ついに、「絡繰」の柄に手をガッと掛けた時。
「あんた、そんなことしちゃダメだよ」
若い女性の声が真後ろからして「絡繰」に掛けた手をやんわりと押さえられた。
ハッとして、振り向くと、柔らかい笑みを浮かべた黒い作務衣を着て長い黒髪を結った若い女性がいた。気配は、一切しなかったので、二兎は気づかなかったのだ。
「ああ、イツ。そこにいたのかい?」
三弥砥が、戻って来て、二兎の後ろにいる女性に話しかけた。
「ああ、三弥砥さん。この子がお客さんかい?もうすぐ、九尾様がいらっしゃるだろうにいいのかい?」
「いいんだ。九尾様に見てもらうんだ。その前に、ちょっと身支度をさせてやってくれないか?」
二兎が口を挟もうとするが、二人の会話に隙はない。胡桃餅だけもらって帰ろうと思っていたのに。
「あんた、名前はなんだい?」
「…二兎」
「二兎、可愛い名前じゃないか。ちょっと、こっちへおいで」
イツが、血が染み込んで真っ赤に荒れている二兎の手をとった。いつもは、皆が気味君悪がる手を。
「ほら、山羊の乳飲むかい?今絞ったばかりさ」
二兎を見て鳴く山羊の前には瓶が置かれていた。
「…白い。赤くない」
「あはは、おかしいこと言うねえ!」
イツはゲラゲラ笑った。
「山羊の乳は白いのさ。血じゃないからねぇ。さ、これを飲んだら風呂に入れたげるよ。せっかくの可愛い顔が血に染まってちゃもったいないだろう」
瓶を渡され、恐々と山羊の乳を飲む。
「!」
僅かに甘く、今まで飲んだことのない喉越しに驚き、瓶を落としそうになる。
慌てて、抱え直し、瓶いっぱいの山羊の乳を飲み干した。
「凄いねぇ。一升飲むなんて、将来は大酒飲みかい?」
一息ついた二兎の手を再び、イツが取り、今度は平家の裏に連れて行かれた。
「さ、風呂、入んな。本当は八舞様のために焚いたけど、先にあんたが入りな」
イツが、二兎の着物に手を掛ける。
「…触るな…!」
我に帰った二兎が絡繰に手をかけ、引き抜こうとした瞬間。
「あんた、そんなことしちゃダメだよ」
もう一度、しかし今度は怒りに満ちたイツの声がした。
見ると、「絡繰」の刀身が抜けないように鞘の上からギチギチと女性の力とは思えない力で握られていた。
「いくら、暗殺者でもやたらと殺してたら、盛りのついた猫と一緒さ。ヤればいいってもんじゃない。矜恃を持ちな。無闇に殺すな。ただの殺人狂にはなりたくないだろう?」
二兎の心に産まれて初めて、動揺がうまれた。
殺さなくてもいい、なんて一度も聞いたことがなかった。
ふと、山で殺した仔兎を思い出した。あの仔兎も生きたかっただろう。まだ、母親の温もりの中、微睡んでいたかっただろう。
心の奥底でその仔兎を殺したくなかったのをかき消したのも思い出した。
「あたしも、あんたと同じ暗殺者だ。今まで、日の光なんて浴びたことはなかった。だけど、三弥砥さんが救ってくれたのさ。あんたは綺麗な顔をしてる。きっと誰かに恋することもあるだろう。だから、今度は、あたしが助ける番」
イツが、刀から手を離し、静かに涙を流している二兎の頬を拭い、ふっと笑い、抱き締めると、
「いらっしゃい、二兎。今日からここに住んでいいよ」
果たして、この男は殺さなくていいのだろうか?生まれてから、人を殺す術しか教えられず、父親以外に会ったことなど皆無。喋ることなどは論外。むしろ、食事を与えられたのも数えるくらいだった。常に空腹を感じ、僅かな雨水を飲み、雑草を引き千切って食べていた。
父親は、隠れて(二兎は気付いていたが)酒を飲み、二兎が狩った狼の肉を山では高級な塩で味付けて食べていた。
父親は自分の得だけ考え、山に住んでる害獣を狩る二兎の栄誉を我が物にしていた。二兎は、それに関して、どうせ何を言ってもダメだと思い、黙っていた。
「二兎。ここがわしの家だ。イツ!今帰ったよ!」
よく通る三弥砥の声で、顔を上げて驚いた。
目の前には、檜の香りが漂う重厚な平家があった。庭には、鶏がけたたましく鳴き、草が生茂る奥の方では、山羊や馬がモシャモシャと草を食べていて、今まで二兎が見たことのない景色が広がっていた。
「イツ!…何処にいるんだい?お客さんだよ!」
三弥砥は、二兎から離れ、庭の奥へ行ってしまった。
残された二兎は、目の前に赤いフィルターがかかったかのようになっていた。
鶏を殺せば、食物になる。
山羊を殺せば、村で上物の着物と替えてもらえる。
馬を殺せば、食物と着物が両方とも手に入る。
しかし、ここは三弥砥の家だ。勝手に手を出してはいけない。村で裁かれたら大罪になる。
だが、理性が、本能が、身体に染み付いた習慣が「絡繰」へと手を伸ばそうとする。
カチカチと震えて歯の根が合わない。高熱で魘されているときのように、身体が熱くなる。
駄目だ、と思い拳を握る。
だが、「殺せ」と、呪いの思想が消えない。
殺したい。
ついに、「絡繰」の柄に手をガッと掛けた時。
「あんた、そんなことしちゃダメだよ」
若い女性の声が真後ろからして「絡繰」に掛けた手をやんわりと押さえられた。
ハッとして、振り向くと、柔らかい笑みを浮かべた黒い作務衣を着て長い黒髪を結った若い女性がいた。気配は、一切しなかったので、二兎は気づかなかったのだ。
「ああ、イツ。そこにいたのかい?」
三弥砥が、戻って来て、二兎の後ろにいる女性に話しかけた。
「ああ、三弥砥さん。この子がお客さんかい?もうすぐ、九尾様がいらっしゃるだろうにいいのかい?」
「いいんだ。九尾様に見てもらうんだ。その前に、ちょっと身支度をさせてやってくれないか?」
二兎が口を挟もうとするが、二人の会話に隙はない。胡桃餅だけもらって帰ろうと思っていたのに。
「あんた、名前はなんだい?」
「…二兎」
「二兎、可愛い名前じゃないか。ちょっと、こっちへおいで」
イツが、血が染み込んで真っ赤に荒れている二兎の手をとった。いつもは、皆が気味君悪がる手を。
「ほら、山羊の乳飲むかい?今絞ったばかりさ」
二兎を見て鳴く山羊の前には瓶が置かれていた。
「…白い。赤くない」
「あはは、おかしいこと言うねえ!」
イツはゲラゲラ笑った。
「山羊の乳は白いのさ。血じゃないからねぇ。さ、これを飲んだら風呂に入れたげるよ。せっかくの可愛い顔が血に染まってちゃもったいないだろう」
瓶を渡され、恐々と山羊の乳を飲む。
「!」
僅かに甘く、今まで飲んだことのない喉越しに驚き、瓶を落としそうになる。
慌てて、抱え直し、瓶いっぱいの山羊の乳を飲み干した。
「凄いねぇ。一升飲むなんて、将来は大酒飲みかい?」
一息ついた二兎の手を再び、イツが取り、今度は平家の裏に連れて行かれた。
「さ、風呂、入んな。本当は八舞様のために焚いたけど、先にあんたが入りな」
イツが、二兎の着物に手を掛ける。
「…触るな…!」
我に帰った二兎が絡繰に手をかけ、引き抜こうとした瞬間。
「あんた、そんなことしちゃダメだよ」
もう一度、しかし今度は怒りに満ちたイツの声がした。
見ると、「絡繰」の刀身が抜けないように鞘の上からギチギチと女性の力とは思えない力で握られていた。
「いくら、暗殺者でもやたらと殺してたら、盛りのついた猫と一緒さ。ヤればいいってもんじゃない。矜恃を持ちな。無闇に殺すな。ただの殺人狂にはなりたくないだろう?」
二兎の心に産まれて初めて、動揺がうまれた。
殺さなくてもいい、なんて一度も聞いたことがなかった。
ふと、山で殺した仔兎を思い出した。あの仔兎も生きたかっただろう。まだ、母親の温もりの中、微睡んでいたかっただろう。
心の奥底でその仔兎を殺したくなかったのをかき消したのも思い出した。
「あたしも、あんたと同じ暗殺者だ。今まで、日の光なんて浴びたことはなかった。だけど、三弥砥さんが救ってくれたのさ。あんたは綺麗な顔をしてる。きっと誰かに恋することもあるだろう。だから、今度は、あたしが助ける番」
イツが、刀から手を離し、静かに涙を流している二兎の頬を拭い、ふっと笑い、抱き締めると、
「いらっしゃい、二兎。今日からここに住んでいいよ」
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