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08 ロティの怒り

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 それから二日、アルケインの訪れはなかった。

 自然、常に自己を維持する結果となったロティにとっては、本当に自分に精霊王が憑依しているのだろうかと疑問に思う日々が続いた。

 アルケインが現れなければ、彼女の心はただの掃除婦のままだ。

 なのに日がな働くでもなく神女たちに傅かれる生活は、彼女にとっては苦痛に他ならなかった。

 なにせ傅く神女たちの目の中には、本当にこの娘の中に精霊王がという疑いと得体のしれない者に対する畏れが混在していたからだ。

 ロティは毎日縮こまりながら、できるだけ神女たちに迷惑を掛けない生活を心がけた。

 唯一嬉しかったのは、二度と入ることはできないと思っていた大神女の部屋に入れたことだ。

 そこはロティにとって、思い出の場所だった。

 優しかった前の大神女。

 死の間際まで、ロティのことを気遣ってくれていた。

 いつもどこか、寂しそうにしていたお母さん。

 結局最後まで、その顔から憂いがなくなることはなかったけれど。

 ロティが神殿の外に出るようにと願った彼女は、今のロティを見たら一体なんというのだろう。

 感応力が歴代の中でも特に強かったと言われる彼女なら、この停滞した状況になにがしかの打開策を見つけてくれたかもしれない。

 朝早く、神女に起こされる前に目を覚ましたロティは、大きなベッドからおそるおそる降りた。

 気を抜くと、寝ぼけて三日に一回は転がり落ちるので、いつも生傷が絶えない。

しかしここに暮らすとなると、懐かしさはあれ緊張してひどく落ち着かない気持ちになった。

 頼むから掃除婦用の宿舎に帰してくれとお願いもしてみたが、その願いが聞き入れられることはなかった。

 重いカーテンを開けると、窓の外はまだ薄暗い。

 夜の縁がじわじわと明るくなっていくのを見つめながら、ロティは溜息をついた。



 (一体いつまで、こんな生活が続くんだろう……)



 三度の食事は食べきれないようなご馳走を用意され、神女でもないのに神女装束を着せられる。毎日丁寧にくしけずられる髪はすっかりほつれが無くなり、神女のマッサージによって肌は少し柔らかくなった。

 幸せ―――なのだろう一般的に見れば。

 しかし小心者のロティにとって、いままでとあまりに違うその生活は苦痛でしかなかった。

 外に出たい。

 外に出て彫刻を磨きたい!

 今この瞬間にも、美しい彫刻達に埃が降り積もっているかもしれないというのに。

 鍵はなくとも部屋の外では神女たちが交代で見張りをしている。

 ロティは胸を掻きむしりたくなるような衝動を堪え、毎日室内の調度品を磨いてはその欲求を堪えていた。

 幸い、大神女の居室には小さな彫刻や細工の施された調度品が多数ある。

 最初の数日はそれを磨くことで気がまぎれたが、それが七日を越えてくるとその衝動は堪えがたいものになった。



 (もっと大きな、白く艶のあるあの彫刻を磨きたい―――) 



 大きな窓にはめ込まれた貴重な硝子に、映るロティの顔が歪む。

 この一枚硝子は大神女の大のお気に入りで、ロティは暇さえあればこの硝子を磨いていた頃のことを思い出した。

 手垢も水垢も拭い去ってしまえば、硝子は日光を受けて宝石のように光る。

 その窓から見える中庭の風景を、大神女は愛していた。

 この部屋は、懐かしいが辛すぎる。

 ロティにとって、大神女との思い出はまだ生々しい傷跡なのだ。

 ―――と、その時だった。

 ロティは何事かと目を見張った。

 目の前の硝子が、まるで水面のようにじわじわと波打っているのだ。

 恐れるように、ロティは絨毯の上を後ずさった。

 しかし足を取られて、ビタンとその場に尻餅をつく。

 するとロティ以外誰もいないはずの寝室に、豪快な笑い声が響いた。

 みれば目の前の硝子に、以前夢に出てきた男が浮かんでいる。

 見間違いかと、ロティは目をこすった。

 しかし何度見直しても、硝子には向こうの透けた平たい男が映っている。



『息災か?』



 気難し気に腕を組んだその姿は、怒っているようにしか見えない。

 ロティは相手が名乗る前に、その場に跪いていた。

 その男がアルケインかもしれないと、気が付いたのはその後だ。

 寝ぼけているのかと隠れて自分の頬を抓ってみるが、ただ痛いだけで夢が覚める気配はなかった。



『何をしている。顔を上げろ』



 命じられ、こわごわと顔を上げる。

 しばらく茫然と男を見上げていたロティだったが、はっとして居住まいを正した。

 通った鼻立ちと太陽色の髪。そして鎧と白装束は、絵画に書かれた精霊王と全く同じものだ。



『いつまで呆けているつもりだ?』



 呆れた顔をされ、ロティは開きっぱなしになっていた口を閉じた。

 透けた男の向こうでは、じりじりと朝が始まっている。

 困惑したロティは、思い切って口を開いた。



「……精霊王アルケイン様。どうして私なんかを、依代に選ばれたのですか?」



 こんなことがなければ、静かに暮らしていけたはずなのに。

 言外にそんな思いを込めて、ロティは男に尋ねた。



『不服か?』



 男が不思議そうに眉を上げる。



「そういうわけでは……ただ、他にも相応しい方が、この神殿には沢山いらっしゃいます」



『お前でなければ意味がない』



 アルケインの答えは、ロティにとっては納得のいかないものだった。

 なぜなら彼女は、感応力がないことで今までずっと虐げられてきたからだ。

 お前ではだめだと言われたことは何度もあるが、ロティでなければいけないことなんて今まで一つもなかった。

 しかしそう言われて嬉しいかといえば、全くそんなことはない。

 むしろ、湧き上がってきたのは胸を焼くような怒りだった。

 感応力がないことで、今までロティがどれほど苦労してきたか。

 そして養い親に、どれだけ苦労と心配をかけたか。



 (なんで今更……っ)



 ぎりりと歯を食いしばっていると、ロティの感情の昂ぶりに気付いたのだろう。アルケインが不思議そうな顔をする。



『何を憤る。お前はいい部屋に住み、腹いっぱい食べられるようになった。これ以上なにが不服だ』

 その言葉は、気が弱いはずのロティの心を逆撫でした。



「子供の頃から、感応力がないと何度も神殿を追い出されそうになりました。そのたびに大神女にはご迷惑をおかけして……っ。どうして今更!  あの人が死んで、それでも神殿にしがみ付いて静かに暮らしていこうと決めたのに、どうしてかき乱すのですか!?」



 もう相手が神であることすら、忘れた。

 ロティは胸の奥深くにしまい込んでいた激情を吐き出す。

 感応力がないという現実が、これ以上自分の生活を脅かすのは許せなかった。

 いいものを食べ、いい服を着せられてもロティ自身が別のものに生まれ変われるわけじゃない。

 神女たちの冷たい視線は相変わらずだし、その上でいやいや世話されるぐらいなら石ころのように無視されていた頃の方がましだ。

 そして自分の好きに彫刻を磨いていられれば、その瞬間だけでも幸せでいられたのに。

 息も荒く肩を揺るがせるロティが、我に返ったのは硝子に拳を叩きつけようとする自分に気付いたからだ。

 大神女が気に入っていた一枚硝子を、自分が壊してしまうわけにはいかない。

 恐る恐る上を見上げれば、そこには相変わらず精霊王の白い顔が映っていた。

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