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31 美の女神フロテア

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「顔色が優れないな。気分が悪いのか?」



 本の内容を説明している途中、俯いたロティをアルケインが気遣う。

 ロティは控えめに、首を横に振った。



「いいえ。そういうわけではないんです。ただ……」



「ただ?」



「悲しいと思いました。罪を犯した人の中には、自分のためじゃなくて誰か大切な人のためにそうしなければならなかった人もいたのに」



 ロティの言葉に、アルケインは眉を顰める。



「では、理由があれば罪を犯してもいいと?」



 アルケインの硬質な言葉に、ロティははっと顔を上げた。



「そういうわけじゃ、ないです。悪いことは、悪いこと。それを取り違えているわけじゃなくて……ごめんなさい。うまく言えないです。でも私は―――」



「私は?」



 一言一言確かめるように、ロティは言った。



「もしアルケインさまが危険な目にあっていて、それを助けるためには定められた規則を破らなければならないというのなら、きっと罪を犯すと思うんです。罰を受けると分かっていても、そんなの耐えられないから」



 そう言った時のロティの顔は、まるで迷子の子供のように頼りなかった。

 その言葉を聞いて、次に俯いたのはアルケインの方だ。



「すいません。不愉快でしたか?」



 精霊を―――ひいてはすべての秩序を司るのが精霊王だ。自分の言葉が癇に障ったのかもしれないと、ロティは不安になった。



 (不興を買わないようにしようって決めたのに、私ったらつい……)



 そうは思っても、後の祭りだ。

 アルケインは何も言わず立ち上がると、そのまま部屋を出て行こうとした。



「アルケインさま!」



 呼び止めると、彼は立ち止まる。

 しかし決して後ろを振り返ろうとはしなかった。



「すまない。残してきた仕事を思い出したので戻る」



 口早にそう言うと、アルケインはさっさと部屋から出て行ってしまった。

 すぐに霧で消えてしまう背中を、ロティは心細げに見送る。

 まさか彼が顔を真っ赤にし、部屋から出た途端にその場にしゃがみ込んでいたことなど、ロティは知る由もなかった。



 アルケインが去った後、しばらくして砂時計が最後の砂粒を落としたので、彼女はベッドに入ることにした。

 精霊王の機嫌を損ねたのではないかと不安ではあったが、彼との約束を破るわけにはいかない。

 霧の布団にくるまれて目を閉じていると、ふと誰もいないはずの室内から物音がした。

 アルケインが戻ってきたのかもしれないと、ロティは思わずベッドから起き上がる。

 するとそこにいたのは太陽の髪を持つ男神ではなく、実った麦穂色の髪に透き通った湖の目を持つ、大変に美しい女神だった。

 ロティは一目で。その神が誰であるかを悟った。



「はじめまして。私は美と愛欲の女神フロテア」



 そう言って、女神は艶やかにほほ笑んだ。





  ***





「ねえあなた。一体どんな手を使ってアルケインを落としたの?」



 カウチに寝そべりながら、それでも優雅にフロテアが言う。

 女神が口にするのは、さっきからそんな内容の質問ばかりだ。



「ですから、何度も言っている通り私はアルケインさまにそのようなことはしていません!」



 ロティは必死に否定するのだが、女神は耳を貸そうともしない。



「そんなはずないじゃない。だってもう天界中でもちきりの噂よ? あの朴念仁のアルケインが地上から恋人を連れ帰ったって。ねえあなた、そんな顔してすごく駆け引き上手なの? それとも意外に床上手とか?」



 キラキラと目を輝かせてフロテアに聞かれても、ロティは首を横に振る他なかった。



 (というか床上手って、一体何? 床のお掃除の名人ってこと?)



「床のお掃除なら、多少は得意ですけど……」



 ロティが自信なさげに言うと、フロテアは目をまん丸にした後、美貌を歪めて爆笑し始めた。

 カウチに張られた布をバンバンと叩いている。



「くっ、くるし~!」



 まるで芋虫のようにもがく女神に、ロティは慌ててしまった。

 どこかに水がないだろうかと探すと、いつものように水差しとコップがどこからともなくやってくる。



「ひゃっひゃっひゃっ!」



 もはや笑い声かどうかも怪しくなってきた喘ぎをあげるフロテアに、ロティは恐る恐る水を注いだコップを差し出す。

 フロテアは震えながらそれを手にすると、勢いよく飲み干してしまった。



「はは、はは、もう笑わせないでよ……」



 そう言いながら、フロテアは苦しそうにお腹をさすっている。



「も、申し訳ありません」



 何が悪かったかは分からないが、とりあえずロティは謝っておいた。

 偉い人にはとりあえず頭を下げておく。これが神殿で生き抜いてきたロティの処世術である。



「なーんか予想外ね。アルケインのやつ、こーんな純真無垢っぽい子が好きなんだ。どうりで私に靡かないわけだ」



 フロテアの素っ気ない物言いに、ロティは心臓がぎゅっとつかまれたような気がした。



「あの、お二人はその、特別な関係でらっしゃったんですか……?」



 思わず尋ねると、フロテアは不機嫌そうに眉をしかめる。



「なに、気になるの? たかが人間風情が」



 勢いよく言い返され、ロティはしおしおと小さくなる。まるで潮風にあたった草のように。



「すいませんその、驚いてしまって」



 ロティの知る文献の中のアルケインは、女嫌いで気難しい神だ。

 だから今まで、アルケインにそういう相手がいることを想像したことなどなかった。

 しかし実際にフロテアの美しさを目にしたら、そういうこともあったんじゃないかと思えてしまうのだ。

 彼女は女であるロティが思わず見とれてしまうほど綺麗で、魅力的だった。豊満な体のラインを出す簡素なドレスに、そこからすっきりと伸びた白い手足。

 ここ何年も地上の収穫祭ではシェスカがフロテアの役を務めていたが、十分に美しいと思っていたそれが実は力不足だったのだと、ロティは実物を目にして知った。

 不意にフロテアが立ち上がり、ロティの目の前に立つ。

 改めて煌めくような容姿に、ロティは目が潰れる思いだ。

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