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42 二人の答え

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 二度目だと思った。



 その光景を見るのは。



 石で組まれた天井。礼拝堂と同じ白い壁。

 けれどその中に一つだけ、初めて見たものがあった。

 それは―――今にも泣きそうなアルケインの顔。



「目が、覚めたか……」



 触れそうなほど近くにアルケインの顔が、ゆっくりと離れていった。

 なぜだかそれが残念だと、そんな風に思った自分をロティは訝しんだ。



「私、死んだはずでは……?」



 二度と浮かび上がらない湖だと、エレが言っていた。

 事実ロティは死を覚悟していたし、湖に飛び込んだところまでの記憶はある。



「ええと、ここは冥界ですか?」



 横になったままで、ロティは首を傾げた。

 本当は起き上がりたかったが、体に力が入らなかったのだ。



「ばかなことをいうな! 今度こそ、本当にに失ったかと思った……」



 アルケインの弱々しい言葉に、ロティは驚いてしまった。なにせ精霊王といえば全知全能。

 天界にいるすべての神の中で最も気高く、能力が高いとされているからだ。



「困りました」



 アルケインを見上げながら、ロティは呟く。



「何がだ? 何か欲しいものがあるのか?」



 再びのぞき込んでくる顔に、ロティは力を振り絞って手を伸ばした。

 白くて温かくも冷たくもない肌に、指先が触れる。

 その指先に、熱い雫が一滴。



「泣かないで、アルケインさま」



「泣いてなどいるか!」



「はい。ごめんなさい」



「いいかロティ、そもそもお前は!」



「はい」



「無茶ばかりして、全然周りが見えていない!」



「はい、アルケインさま」



「小さくて、いつも一生懸命なのは分かるが……」



「照れます、アルケインさま」



「褒めてない!」



「はい」



「守ろうとするのに、勝手に手の中から逃げ出して」



「はい」



「大人しいふりをして時々思い切りがよくて」



「……そうでしょうか?」



「どうしようもないと思うのに、どうしてこんなに目が離せないんだ?」



「え?」



 ロティはアルケインの顔を見ようとしたが、無理だった。

 なぜなら尋ね返す直前、その腕の中に抱き込まれてしまったからだ。



「アルケインさま……」



「―――雨は止んだ」



 精霊王の囁きを、理解するのには少しの時間が必要だった。



「本当ですか!?」



 起き上がろうとするロティを、アルケインが己の体で押し留める。



「もう、人間をいたずらに試すようなことはしない。お前の自由を奪うこともしない。だから、一つだけ約束してくれ」



「なんでしょうか……?」



 アルケインの支払う代償があまりにも大きい気がして、ロティは驚いてしまった。



 (私が差し出せるもので、アルケインさまが欲しがるものなんてあるだろうか?)



 彼女が不安になったのも無理からぬことだ。

 もしアルケインとの約束を守れなかったら、再び地上は危険に晒されるかもしれないのだから。

 ごくりと息を飲んで、ロティは精霊王の言葉を待った。



「お前の意思で、ここにいてはもらえないだろうか? ずっと私の、傍に」



 そう言って体を離すと、アルケインはロティの左手を持ち上げた。

 そしてその薬指に、己の唇を落とす。

 左手の薬指は、直接心臓につながっているというとても重要な部位だ。

 指先からまるでマグマが流れ込んだように、ロティの体は熱くなった。



 (それって、まるで……っ)



 そんなはずはないと、ロティは自分の考えを否定した。

 頭に浮かんだそれはひどく甘やかで、彫刻ばかり磨いていた彼女にはあまりにも刺激が強かったからだ。

 それでも重かったはずの体がふわふわとして、胸はなんだかむず痒い。

 アルケインの提案はあまりにも嬉しいもので、でも素直に受け入れるには沢山の障害がある気がした。



「それは、無理です……」



 その言葉を吐き出すのが、どれほどつらかったか。

 ロティは思わず、自分の方が泣いてしまうのではないかと思った。

 アルケインの顔が失望で曇る。



「なぜだ? 私が嫌いだからか?」



「違います! そんなわけっ……ない」



 嬉しくてこんなにも心が震えるというのに、アルケインのことを嫌いなはずがない。



「ならばどうして」



「約束をしても、守ることができないからです。私は人で、あなたは神様です。だからずっとは、一緒にいられない」



 その言葉を口にするのは、身が引き裂かれる思いだった。

 できれば頷きたい。ずっと一緒にいると声高に叫んでしまいたい。

 けれどそれができないのは、二人が人と神という全く違う存在だからだ。

 神は永遠に近い時を生き、人は神からすれば瞬きほどの速さで死んでしまう。

 ここで一刻すれ違ったことすら本当は奇跡のようなことで、その現実を忘れてはいけないとロティは思うのだ。



 (いつか私は、アルケインさまを置いて冥界へ行かねばならない……)



 今回は運良く助かったとしても、ロティには人としての寿命がある。だからアルケインとずっと一緒にいるとは、どうしても約束できなかった。



「それは……」



 精霊王は怪訝な表情を浮かべる。

 するとちょうどその時、部屋に入ってくる者があった。

 簡単な貫頭衣を腰の帯で締めた、ぼんやりと輪郭の定まらない男だ。

 見覚えのない人物の登場に、ロティは思わず体を固くした。

 男は跪いて手に持ってきたトレーを差し出す。アルケインは何食わぬ顔で、その上に置かれていたコップを手に取った。



「とにかく今は、これを」



 差し出されたのは、おそらくアトルスの水だ。

 アルケインは右腕でロティの頭を支え、水を飲ませようとした。

 しかしロティは、見知らぬ人物が部屋にいることが気になって仕方ない。



「あ、あのっ」



「なんだ? 俺の手からでは水も飲めないと?」



 アルケインはどこか不機嫌そうにしている。



「そうではなくて、そのっ、その方は一体……」



 ロティが視線で男を示すと、アルケインは一瞬怪訝な顔をし、そしてすぐにさもありなんと笑い出した。



「はははっ、そうか。もうお前にもあれが見えるのだな」



「あれとは、その……一体どういうことでしょうか?」



「あれは精霊だよ。ロティ、お前はもう、感応力のない人間のロティではない」



「“私”ではない?」



「ああ。人々を救うため犠牲になって湖に飛び込んだことで、地上には雨を止ませた女神への信仰が生まれた。お前は神になったんだよ。ロティ」



 唖然とするロティの前に、アルケインはフロテアがやったように遠くの見える窓を出現させる。

 そこに映し出されたのは、礼拝堂に新しい像が運び込まれる様子だった。白くて巨大な像は、アルケイン像の隣に今まさに設置されようとしていた。

 ちょうど彼のハートの視線と、向かい合う形で。



「そんな、地上の人達が洞窟での出来事を知るはずないのに……」



「私が命じたんだ。お前が沈んだのは確かに、一度人間が沈めば浮かび上がらない湖だった。人は死ねば二度と生き返らない。しかし私はロティにもう一度会いたかった。だからお前を、人ではなく神として蘇らせようと考えたんだ。人間が信仰すれば神は生まれる。私はエレインの夢枕に立って、お前をペルージュを救った神として信仰するようにと告げた。エレインがその言葉を信じたから、お前は今神として生まれたのだ」



 あまりにも理解を越えた話だった。

 ロティは簡単には飲み込むことができず、口を開けたままアルケインの顔を見上げる。

 その隙に、彼はロティの口に水を注ぎこんだ。

 慌てて水を飲み込むと、体に力が満ちるのが分かった。

 体は今までにないほどに軽く、そして爽快な気持ちだった。アルケインに押さえられていなければ、天に浮き上がってしまいそうなぐらいだ。



「まさか……本当に?」

 水を飲んで落ち着いたロティは、跪く精霊とアルケインを交互に見つめた。

 部屋にいるのが精霊だというのも信じられなければ、自分が神になっただなんてもっと信じられない。

 しかし窓の向こうでは確かに、像を拝む人がいる。ロティの顔をした白い彫刻を、磨いて大切にする人々の様子が映っていた。

 その最前列に、立っているのはエレインだ。

 その顔はロティが知っているものよりもかなり年を取っていて、晩年の大神女にそっくりだった。

 ロティは彼女が本当に大神女であったこと。そして地上では自分だけを置いて時が流れてしまったことを知った。

 彼女が湖に落ちてから、地上では既に十年以上の時が流れている。



「私本当に、神になったんですか?」



「ああ」



「もうずっと永遠に、死んだりしないってことですか?」



「そうだ……いやだったか?」



 アルケインの顔が、不安げに曇る。

 いつも堂々としていた彼のそんな表情に、ロティは小さく笑った。



「じゃあずっとずっと……アルケインさまのお傍にいてもいいんですか?」



 ロティの声が、涙で震える。



「当たり前だろう」



 そうして二人は、今度こそ強く抱きしめ合った。

 窓の外は霧ではなく青い空が広がっている。

 その青さはまるで、これからの二人を祝福しているかのようだった。



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