世界が終わる。そして、僕は生き返る。

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 優太くんと出会ってから、私の生活は少しずつ暖かくなっていった。愛を求めて乾ききっていた心は、次第に潤い始めた。優太くんが隣にいてくれたから、私は地獄のような日常を生きていくことができた。

 私の心と体には決して消えない傷がある。それでも、私はそれを嫌だとは思わなかった。その傷があったから、私は優太くんと出会えた。

 仄暗い地獄の底にいながらも、私達は二人だったから、笑っていられたのだ。

 あの、忌まわしい交通事故が起こるまでは。

 あの時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。

 雨上がりの、澄んだ空。空の端には目眩がするくらいに美しい虹が架かっていた。

 彼は落ちたお守りを取ろうと引き返した。

 その瞬間を、何度やり直したいと思っただろうか。「今度新しいお守りを買えばいいよ。私、頑張るから」

 たったそれだけのことを、どうして言えなかったのだろう。

 お守りを拾い上げた直後、赤い閃光が瞬いた。次の瞬間には優太くんは空に舞っていて、気がついた時には頭から地面に落ちていた。血の海が広がり、嫌な匂いが立ち昇る。

 そこから先の記憶はあまり無い。私はひたすら叫んでいたような気がするし、意識を失っていたような気もする。次に意識がはっきりしたのは病院の集中治療室の前だった。

 警察から連絡がいったのだろうか、私の隣には仲の悪そうな男女が退屈そうに座っていた。彼らの顔を見て、すぐに優太くんの両親だと気づいた。顔が、本当に似ている。

 実の息子が生と死の狭間にいるというのに、彼らは平気な顔をして座っている。早く帰してくれと言わんばかりに、彼らはスマホを眺めていた。

 信じられなかった。許せないと思った。今、私の最愛の人が戦っているというのに、生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに、彼らは余計な時間を取らせるなとでも言いたげな様子だった。

 それから数時間経った頃、集中治療室の中から医者が出てきた。

 まだ結果も聞いていないというのに、優太くんの両親は顔を綻ばせている。隣で彼の無事を死ぬ気で祈っている私がいるのに、だ。

 医者は難しい顔をしていた。その表情を見て最悪の展開が脳裏をよぎる。医者は苦虫を噛み潰したような表情のまま、口を開いた。

「なんとか、一命は取り留めました」

 その言葉を聞いて、全身から力が抜けていくのが分かった。

「しかし」

 続く医者の言葉を聞いて、頭が真っ白になったのを覚えている。

「多分、目覚めることはないと思います」

 目覚めることはない。それって。

 優太くんとお喋りすることができない。優太くんと並んで歩くことができない。優太くんに抱きしめてもらうことができない。私の気持ちを、知ってもらうことができない。

 放心状態に陥りかけていた私の意識を、ある一言がすくい上げた。

「なんだ。生きているのか」

 一瞬で、身体中の血液が沸騰した。その発言をしたのが彼の父なのか母なのか、どちらの発言なのかは分からない。だが、そんなのはどうでも良かった。私は、ただ怒りに震えていた。初めて、人を殺してやりたいと心の底から思った。

 医師は一度驚いたように目を見開いてから、誤魔化すように咳払いをした。

「えー、ここからいくつかの選択肢があります。詳しくはこちらで」

 そう言って、医者は近くの病室を示した。優太くんの両親は、めんどくさそうに顔を歪めてから、渋々医者に着いて行った。一緒に行っていいのか分からなかった私は、ただ立ち尽くすしかなかった。君も同席して良いよ、とは言ってもらえなかった。そんな優しさがないことくらい、分かっている。

 話を終えた両親は病室から出ると、すぐにどこかへ行ってしまった。彼らは、一命を取り留めた優太くんの顔すら見ていない。

 私はその後病室から出てきた医者に突撃して、話を聞いた。

「優太くんはどうなったんですか?」

 医師の説明によると、優太くんは勇気の『エモーション』を服用していたらしい。この時期には既に『エモーション』の危険性が世間で騒がれ始めていた。だが、脳にさえ衝撃が加わらなければ『エモーション』は何の危険もなく使うことができる。そういう考え方もまだ一定数残っていた。だから、優太くんは持っていた『エモーション』を使ってしまった。

 あの時、優太くんは「逃げるんだよ」と笑って言っていた。確かに、その時の優太くんいつもよりたくましく見えた。

 優太くんはきっと、私と逃げ出す勇気を得るために『エモーション』を服用したんだ。私は体の傷を隠すことに精一杯になってたから、彼が薬を飲んでいたことになんて全く気付いていなかった。

 やっぱり、何から何まで、私が悪い。

『エモーション』を飲ませるような行動をしてしまったことも、お守りを拾わせてしまったのも、全部、私が悪い。

 それさえ無ければ、あんなことにはなっていなかった。

「これから、優太くんはどうなるんですか? どうにかして、優太くんを助ける方法はないんですか?」

 真っ白になる頭を無理やり動かして、私は聞いた。信じたくない。優太くんが目覚めないなんて、やっぱり、受け入れられない。

「必ずしも本人の為になるかどうかは分からないが――」

 そう前置きをして、医師は仮想世界について説明してくれた。私も、噂程度には仮想世界については知っていたが、詳しい内容までは知らなかった。どうやら、昏睡状態に陥った患者が夢の中で擬似生活を送れるというものらしい。年齢が二十歳を越えれば、私もその中に入れるという。

「本当ですか!?」

 医師の言葉に、思わず大声を上げていた。

「ああ、仮想世界の中でいいのなら、君はもう一度彼と会うことができるよ」

 それを聞いた瞬間、私は数時間ぶりに息を吸えた気がした。一瞬だけ体中に血が巡り、微かな希望に安堵する。

「君は、彼の恋人なのかい?」

 医者は、悲しそうな顔をして私に聞いてきた。

「いや、そういうわけではないですけど。私にとって、彼はとても大切な人です」
「そうか」

 医者は安心したように息を吐いた。

 彼が言うには、優太くんの両親は仮想世界を生み出すことを拒否したらしい。更には下手な延命措置は取らなくて良いとも発言していたという。それが本当に親のやることなのかと、私は怒りに震えた。

「彼にも君のような人がいてくれて良かったよ」

 そう言われて、私の心は少しだけ震えた。やっぱり、私達は深く結びついているのだと、心底思った。私達は孤独同士、堅い絆で結ばれているのだ。

 優太くんは私が助けるんだと誓った。彼の延命措置も、仮想世界も、全部私が何とかするしかないんだ。それが、犯した罪を償う唯一の方法なのだから。

 ☆★☆★☆★

 私はその日に、学校を辞めた。そうして私は手当たり次第に職を探した。なんだってやるつもりだった。辛い仕事だろうが、苦しい仕事だろうが、なんだってやる覚悟だった。

 だって、優太くんが寝たきりになったのは私のせいなのだから。あの時私が弱音を吐かなければ、お守りを取りに行ったのが私だったら、優太くんは無事だった。

 彼に死んで欲しくない。彼ともう一度会いたい。絶対に逢いたい。それしか考えていなかった。

 仮想世界を作るお金も、優太くんの治療費も、全部、私が払う。それだけの覚悟を決めた。

 そうして、優太くんは仮想世界で生きることとなった。

 優太くんはヘッドギアを付けて脳の損傷した場所を補い、彼の為に作られた偽物の世界で暮らす。そこは越生優太の変わりに安達来夏が事故に遭った世界。

 数日後、私は病院に呼ばれた。優太くんの暮らす仮想世界を作る為の、情報が必要らしかった。

 病室に入ると、そこには白衣を着た女性が座っていた。彼女が、千代田さんだ。

 千代田さんは優太くんの記憶を元に、始めの世界を作り上げた。そこに私の情報を加えて、よりリアルな世界を作りたいとのことだった。

 社会人となった私は家を出て、都内に就職した。優太くんが眠っている病院が、都内にあるからだ。彼のすぐ側にいたかった。

 日中は会社で働き、夜は工事現場などで働く。朝は新聞配達などのアルバイトをこなす。金を稼ぐには、こうするしかなかった。あまりお金を使いたく無かったので、食事も最低限のものにした。実家から出られたことだけが、唯一の救いだった。

  優太くんが死んでからの日々は、はっきり言って地獄だった。私に愛を注いでくれる人は消えてしまった。私の心の拠り所が、消えてしまった。私は何とか自分を保とうと、優太くんを想像した。空想の世界で優太くんの隣を歩いていた。仕事の合間を縫って、優太くんとの思い出の場所に行ったりした。

 いつかの用水路に向かって、綺麗な水を泳ぐコイを見たりした。

 私の頭の中では隣に優太くんがいる。

「ねえ、この子達って、飼われてるのかな」

 しかし、隣には誰もいない。声に出しても、返事は返ってこない。少し進んだところに行くと、コイが逃げ出さないように張られた柵があった。私達が見過ごしただけで、後ろにも柵があるのかもしれない。

 結局、私達はどこにも行けなかった。このコイのように、私達は、どこにも行けなかった。

 私は一人で優太くんの亡霊を追っているだけに過ぎない。ふとした瞬間に現実に戻されると、涙が出てきた。

 ただ、そんな私にも心が安らぐ瞬間がいくつかあった。一つは優太くんの病室にいる時だ。優太くんの手を握っているだけで、どれだけ疲れていようと頑張ろうと思うことが出来た。そしてもう一つが、仲間と一緒にいる時だ。

 彼と出会ったのは工事現場での作業中のことだった。働き出して三年ほど経った頃、彼が後輩として入ってきた。

 彼の名前は蓮田直人という。その名前には、聞き覚えがあった。少し考えて、思い出す。いつか、千代田さんが言っていた。

「そういえば、越生くんに仲間ができたんだよ」

 千代田さんの話によると、蓮田さんという人物は最愛の人を亡くしているのだという。夢の世界で、優太くんは蓮田さんと知り合って、彼のことを仲間だと思ったらしい。

 ここで蓮田さんと出会ったのは運命だと思った。私と優太くんは、まだ見えない何かで繋がっていると思えたから。

 タイミングを見計らって、私は蓮田さんに話しかけようと思った。仕事の休憩時間中に、そのチャンスはやって来た。彼はスマホを開き、ある写真を眺めていた。その写真には蓮田さんと、むぎ色に焼けた元気の良さそうな女性が写っている。

 私は彼の隣に座り込み、声をかけた。

「それ、いい写真ですね」
「ああ、これ、お気に入りなんですよ」

 蓮田さんは私が勝手にスマホを覗き込んだことに嫌な顔一つせず、遠い過去を懐かしむような、暖かい声を出した。

「俺の隣に写ってる彼女、もう死んじゃってるんです。もう手に入らないものって、凄い輝きを放つんですよね」

 彼のその言葉で、彼が私と同類の人間であることを確信した。

「あ、なんか、すみません。こんなこといきなり言われたって、迷惑なだけですよね」

 蓮田さんはくしゃっと顔を歪めて、申し訳なさそうに笑う。

「いいえ」と言って、私は強くかぶりを振った。

「凄く分かりますよ。私達は、多分仲間なんです。私も昔、最愛の人を亡くしてますから」

 蓮田さんは瞳を大きくしながら私を見た。

「ちょっとした面影を感じるだけで、勇気が湧いてくるんです。彼はもういないのに、今も私の胸の中に居続けているような、そんな気すらします」

 用水路を見た時、サイダーを飲んだ時、大好きな曲が流れた時、私は、優太くんを感じる。

「そうですか。じゃあ、俺達は仲間ってことですね」

 彼は少し、病んでいるようだった。そう言った彼の瞳には、力が宿っていない。

 そうして私達は、友人と言える関係になった。

 休日に飲みに行って恋人を亡くした辛さや、世界への恨みを語り合った。そうした仲間が、私の心を楽にさせてくれた。

 彼と知り合って数ヶ月が経った頃のことだ。

 仕事からの帰り道、缶チューハイを片手に彼は今にも消え入りそうな声で言った。

「俺には、夢があるんだよ。その為に、今必死になって働いているんだ」

 この頃になると彼は本性を出したというか、しわがれた声で、終わった表情で話すようになっていた。

 彼はプルタブを開けてから、ぐいっと酒をあおる。

 彼の夢とは一体何だろうと、私は凄く興味を惹かれた。だって、愛する者を失ってしまってもなお抱ける夢なんて気にならない方がおかしい。人生に絶望しているからこそ、その夢が気になって仕方なかった。

「あの、聞いてもいい?」
「ああ。普通の奴になら絶対に言うつもりはないんだけどな。安達になら、分かってもらえるような気がするんだよ」

 彼は一拍置いてから、続けた。

「あの、仮想世界って聞いたことあるか? 俺はさ、そこに入るのが夢なんだよ」

「え?」と間の抜けた声を出すので精一杯だった。仮想世界に入りたい。それが意味することというのは――――

「仮想世界に入れば、俺はまた凪沙とやり直せる。あそこに行けば、全てが俺の思いのままだ。だから俺は、何とかして、昏睡状態に陥りたいんだよ」

 そう語る彼の瞳は、恍惚としていて、完全に狂っていた。狂人が、私の目の前にいた。

「俺はね、凪沙の自殺を無かったことにしたいんだ。あの日、俺と凪沙は小旅行に出かけていたんだ。福寿岬に行った後、福寿温泉というところに行ったんだ。そうして俺が温泉に入っている間に、凪沙は……」

 彼の話によると、凪沙さんは福寿温泉の山中にある神社で首を吊って死んでいたという。

「だから俺はね、今から色々と計画を練っているんだ。昏睡状態には『エモーション』を使えば簡単に陥ることができる。『エモーション』を服用してから、頭に衝撃を加える。一回じゃ上手く昏睡状態に陥れないかもしれないから、必要によっては大小様々な衝撃を頭に加えないといけないな。後はさ、実家にでも手紙を送っておけばいいんだ。急用ができたから、急いで俺の家に来てくれないかって伝えておけば、そのうち俺の家に来るだろう。そこで、昏睡状態の俺を発見する。家の中で昏睡状態に陥れない可能性もあるけど、その場合は道行く人が勝手に通報してくれるだろう。後は遺書のようなものに仮想世界に入りたい旨を書いておけばいい。きっと金さえあれば両親が望む仮想世界を作ってくれる」

 彼は長々と理想の未来を話していた。優太くんが完全に死んでいたら、もしかすると私もこうなっていたのかもしれない。そう思うと、彼を放って置けなかった。そして、その気持ちが分かるからこそ、彼を止めることも出来なかった。

 そんな風にして時を過ごし、ついに、その時が来た。
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