世界が終わる。そして、僕は生き返る。

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 私にとって、越生優太という少年は希望そのものだった。幼い頃、私は地獄の底にいた。優太くんがいたから、ここまで生きて来れたと言ってもいい。

 小さな子どもにとって親とは神であり、決して逆らうことは出来ない存在だった。

 私は家で、常に怯えていた。私は親に愛されていなかった。母とその彼氏は何の前触れもなく癇癪を起こし、私を殴り飛ばした。常に顔色を伺いながら過ごしている私が気に入らないのか、更に私に暴力を振るった。

 母の彼氏は最低な人間だった。周りが見えず、自分のことしか考えられず、子どものまま親になってしまったような、最悪な男だった。

 私はいつだって母に助けを求めていた。だが、彼女はただそれを見ているだけだ。更には、時として彼氏に加担して私を殴った。

 なぜ母が私を殴っていたのか、私は知っている。酔っ払った母が私を睨みながらよく言っていた。

「お前の顔を見てると虫酸が走るのよ」

 母はどうやら、私の顔が気に入らなかったらしい。

 若くして私を身篭った母は、あっさり私の父に捨てられた。私の顔はどうやら父にそっくりのようで、母は私を見るたびに父のことを思い出して狂いそうになるらしい。

 そんなの知るかよ、と思った。勝手に産んでおいてそんな言い分はないと思う。そんなの私にはどうすることも出来ない。顔だって選んでこうなったわけじゃない。

 それでも、私は愛に飢えていた。だから、母に嫌われたくなくて、突き放されたくなくて、暴力に耐え続けた。

 それでも、私は家族の爪弾きものにされていた。私は彼らと一緒に過ごすことを禁じられていたのだ。リビングには入れず、隣にある小さな和室に閉じ込められていた。真っ暗な部屋の中、必要最低限の食事しか与えられず、暑い時も、寒い時も、毛布も布団もなく、床に寝転がっていたのを覚えている。

 私の世界は、地獄だった。いつ暴力を振るうか分からない母やその彼氏にビクビクして過ごした幼少時代は、最悪の記憶として今も脳裏にこびりついている。

 一番鮮明に覚えているのは、母の彼氏がギャンブルに負けて帰って来た時のことだ。彼はいつも、ギャンブルに負けると家で暴れ回る。私は怖くて仕方なくて、和室の隅で蹲っていた。彼の機嫌が直るのを、ひたすら待っていた。しかし、彼は鬱憤を晴らす為に私に近づいて来る。バンッと和室の襖を開けて、部屋の中に入ってくる。彼の赤くギラついた瞳を、今でも時々夢に見る。奴はやけになって吸っていたタバコを口から外した。彼は血走った瞳を大きく見開き、荒い呼吸のまま、私にタバコを近づけた。

 怖かった。恐怖で体はガタガタ震えて、声も出ない。失禁すらしそうだった。

 震える私に構わず、男は私の腕にタバコを押し当てた。その瞬間、初めて泣き叫ぶことが出来たのを覚えている。その後も男はひたすら私を殴っていた。彼自身の怒りが消えるまで、鬱憤が晴れるまで、私はサンドバッグのように殴られ続けた。

 それが、私の日常だった。

 ☆★☆★☆★

 私が優太くんと初めて会ったのは、私と彼が五歳の時だ。その頃になると私は自分のことを生きている意味のない愚かな人間だと思うようになっていた。母は日常的に「お前なんか産まれて来なければ良かったのに」と言い続けた。それは呪詛のように私の心に刻み込まれ、私は私という人間が如何に下等な存在かということを植え付けられていた。『エモーション』なんてものに頼らなくとも、人間は簡単に洗脳されてしまうのだと、今になって思う。

 私は愛情に飢えていた。私の心は砂漠のようにカラカラに乾いていて、いつか注がれるであろう無償の愛を探し求めていた。そんな時に出会ったのが、優太くんだった。

 その日も男はギャンブルに負けて怒り狂っていた。この頃になると私は身の危険を察知できるようになっており、危害を加えられる前に家を出るようになっていた。

 彼の怒りが私に向く前に、私はそーっと家を出た。家に帰ると勝手にどこに行っていたんだと彼らに殴られるが、タバコを押し当てられるのよりはマシだった。怒りのピークさえ過ぎてしまえば、後の暴力は我慢できる。

 私はわずか五歳にして、そんな知恵を身につけていた。

 その日は茹で上がるように蒸し暑い夏の日で、陽は既に沈みかけていた。空は真っ赤に燃えていて、陽が暮れかけているというのにその暑さは留まるところを知らないらしかった。

 蝉の大合唱に背中を押されながら、滴る汗も拭わずに私は歩いた。目的地は、近くの公園だ。

 子どもの足でも、歩いて五分とかからない。私が心配なら、すぐにでも見つけられる場所だ。だというのに、母は私を探しに来たことは無かった。

 公園に入り、水道の水を飲んで乾いた喉を潤す。公園の中には、親子連れの家族が三組ほどいた。彼らは家族ぐるみの付き合いなのだろう、子どもは子ども同士遊具で遊び、母達は近くのベンチに座って談笑していた。

 これが本来の家族のあり方なのかと思うと、酷く胸を締め付けられた。遊具で遊ぶ同い年くらいの子ども達の笑顔が、とても眩しかった。私はあんな風に、笑ったことがない。

 そんな彼らに気を取られて、初めはブランコに揺られている少年に気がつかなかった。どうやらその少年は、家族連れの一員ではないらしい。彼は遊具で遊ぶ子ども達に一瞥もくれることなく、俯いたまま、緩くブランコを漕いでいる。そんな彼の憂いに満ちた横顔を見て、心が泡立ったのを覚えている。彼は私の仲間だと、直感的に思った。

 気づいた時には、私は彼の隣にあるブランコに腰掛けていた。

「ね、ねえ、なにしてるの?」

 その時私は、産まれて初めて赤の他人に喋りかけた。心臓が壊れたと思うくらい、どくどくと脈打っている。自然と、ブランコを握る手に力が入る。ゴクリと、喉が鳴った。

 彼は初め、自分が声をかけられたと気付いていなかった。一度顔を上げて、きょろきょろと周りを見る。ブランコの近くに人がいないことを確認して初めて、声をかけられたのが自分だと気付いたようだった。

 彼は驚いたように私を見つめている。

「えっと、ぼくにはなしかけてる?」

 そう聞かれると、私は何の用があって彼に話しかけたのか分からなかった。気がついた時には、彼に近づいていた。それだけだった。

「さ、さみしいんだ」

 何も考えず、思うまま、口を動かした。それは紛れもなく、私の本心だった。ずっと、心の奥底に眠っていた、抗い難い本心。私の言葉を、彼は真面目な顔で聞いている。彼は瞳は、揺れていた。

「きみも、さみしかったの?」

 彼の声が、すーっと私の心に入り込んで来た。その一言で、彼は私の仲間なんだと確信した。

 それから私達は陽が暮れるまでずっと、一緒にいた。彼がこの公園に出て来た理由も、私がこの公園に逃げて来た理由も、お互いに全部話した。

 優太くんの家には、両親が殆ど帰ってこないらしい。彼らは一週間に一度、少しだけ家に戻ってきて食料を置いて再び家を出る。彼は、ずっと一人ぼっちだった。それで、その寂しさを紛らわせる為に、この公園に出て来たらしかった。

「ぼくたちみたいなひとのことをね『こどく』っていうんだって」
「こどく?」

 なんて難しい言葉を知っているんだろうと、私は素直に感心していた。

「そう。てれびでいってたんだ」

 確かに、私達は孤独だった。誰にも愛されず、誰からも必要とされない者同士だった。

「でも、これからはへいきだよ」

 優太くんは、私を見て優しく笑う。

「ぼくにはきみがいて、きみにはぼくがいる」

 私を指差してから、自分の方に指を刺す。

「ぼくたちはもう、こどくじゃないんだ」

 彼は、そう言ってくれた。

 その時、私は初めて愛情というものを知った気がする。胸が凄く暖かった。カラカラに干上がっていた心に、愛が染み渡っていくのを感じた。

 この感情を言葉で説明しろと言われても、きっと無理だ。言葉はなんて無力なんだろうと本気で思った。

「ありがと……ありがとね……」

 気付いた時には、涙が流れていた。

 私はずっと、この世界から消えて無くなりたいと思っていた。こんな地獄みたいな人生を、これ以上歩んでいく自信がない。でも、違った。私はきっと、この人に出逢う為に産まれて来たんだ。

 私はこの時初めて、暴力を受けていて良かったと思えた。こんなに素敵な人に出会えたのだから。

 優太くんはそっと、私の頭を撫でてくれた。

 私は優太くんに顔を向けた。優太くんの顔はぼやけてよく見えなかった。視界に入る全てが、溶け出したように、歪んで見えた。
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