命の終わりとユートピア・ワンダーワールド

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 この世界はユートピア・ワンダーワールドと呼ばれている。誰がそう呼んだのかは全く知らないが、あの壁面に刻まれた英文からそう呼ばれ始めたのだと聞いた。

 この世界は巨大な壁に囲まれており、人口は不明、壁の外に何があるのかも未知で、この世界にどうやって迷い込んだのかもみな覚えておらず、更には前の世界にいた時の記憶さえ曖昧なのだという。

 早い話、このユートピア・ワンダーワールドという世界は謎に包まれているのだ。分かっているのは世界というには、いささか小さすぎる、ということくらいだ。

 巨大な壁と海に囲まれた島のような世界。それがユートピア・ワンダーワールドだ。

 通常の思考回路の持ち主なら、こんな意味不明な世界からは一刻も早く抜け出したいと思って当然だろう。だが、この世界の住民達は全員この世界に残ることを望んでいる。

 それは、この場所が恐ろしいくらいに理想的な世界だからだ。この世界にいる限り願ったことは大抵叶えられる。

 大金だろうが、愛だろうが、夢だろうが、才能だろうが、何もかもが、この世界では自由に手に入るのだ。

 例えば、僕はこの島で画家になりたいという夢を持った男と会ったことがある。

 そいつの微かな記憶によると、前の世界ではろくな絵が描けず、彼の作品は全く評価されなかったのだという。しかし、実際に彼の書いた絵を見た時は息が詰まった。

 それは月明かりに照らされる美しい人魚の絵だった。

 彼の絵はまるで本物の人魚を切り取ったかのように繊細に描かれており、更には角度なども計算しつくされていた。とてもじゃないが真っ当な評価を得られなかった人間の描いた絵画だとは思えない。

 これだけの才能が前の世界で評価されないことなんて有り得ないと思えるほど、彼の絵は写実的で美しかった。

 彼は才能を与えられたのだろう。認めたくはないのだが、それがこの世界の真理なんだ。ユートピア・ワンダーワールドとはそういう場所なのだ。

 この世界の人々は、大抵が幸せそうに笑っている。自分達が幸せの絶頂にいるということを心底理解している。ほとんどの人々が、理想を叶えているのだから。愛する人と肩を並べて、美味しい料理に囲まれて、夢を叶えて、幸せに暮らしている。

 だからこそ、僕はこんな世界をぶっ壊してやりたいと願っているのだ。僕以外の人間がみんな幸せそうに笑っている、この世界を。

 視線を上空へ向け、闇の彼方へと溶けていくサンタクロースを眺めた。

 こんな御伽噺のような光景を目の当たりにしても、心は何一つ動かなかった。ただ、虚しいと思うだけだ。

 僕だって前の世界では幸せだった。当たり前の光景を見ているだけで、クリスマスなんかよりもよっぽど楽しいと思える日々を送っていたのだ。

 そう思い、ぎゅっと右拳を握りしめた時、脳の片隅で微かな記憶が瞬いた。

 カタカタと音を立てて緩やかに車椅子を押している。僕は何かを彼女に喋りかけながら、空を泳ぐ大きな船に視線を向けた。

 その船はユートピア・ワンダーワールドにあるような空飛ぶ幻想的な船ではない。それは確か、遊園地などにあるヴァイキングと呼ばれるアトラクションだったはずだ。

 彼女は遊園地内に流れる陽気な音楽に身体を揺らしながら、僕の方へ振り向いた。

 そこで、記憶はプツリと途切れている。

 この世界が全ての理想を叶えてくれるなら、早く彼女に遭わせてほしい。それでも、彼女は僕の前に姿を現してくれない。探しに行こうにも、僕は彼女の何もかもを忘れてしまっている。

 彼女は僕にとってとても大切な存在だった。この胸にぽっかりと空いた穴が、それを物語っている。

 きっと、彼女はこの世界にはいないのだ。この世界に、僕だけが迷い込んでしまったのだ。彼女は、向こうの世界にいるに違いない。だから、僕は一刻も早くこの世界から抜け出す必要がある。

 ただ、この世界から抜け出す方法が分からない。あの百メートルを超える壁を登ればいいのだろうか。だが、どうやって?

 海の先にそびえ立つ壁に視線をやって、僕は深いため息をついた。

 だからだろう。無意識のうちに、僕は呟いてしまったのだ。

「ああ、こんな世界……滅んでしまえばいいのに」

 その時、僕は完全に油断していた。まさか本当に[あいつ]の言っていた通りになるとは思っていなかったからだ。

 そのせいか、声が聞こえた時には心臓が止まるかと思った。

「この世界を、壊したいんですか?」

 咄嗟に声の方へ振り向く。そこには十代後半から二十代前半くらいの、少女と呼ぶには大人すぎて、女性というには幼すぎる女が立っていた。

 特徴的な髪型の子だ。右目を隠すように長い前髪を右に流している。

「どうなんですか?」

 彼女は白のロングコートに手を突っ込み、僕に一歩近づいた。心臓が壊れたようにどくどくと脈打っている。

 彼女はとろんと垂れた眠たそうな目付きで、試すように僕を見据えている。

「私、知っていますよ」

「何を?」

 彼女は少しだけ視線を泳がせてから、決心したように告げた。 

「この世界の壊し方です」

 やっぱり。

 つい数時間前に起こった出来事が脳内を駆け抜けていく。

 彼女は本当に[あいつ]の言っていた人物なのかもしれない。だが、僕はまだ完全に[あいつ]を信用したわけではない。何か裏があるのかもしれない。色々と、確かめなければならないことがあった。

「おぉ、それは凄いね」

 僕が気の抜けた声を出すと、彼女は顔をしかめた。

「馬鹿にしてますよね」

「馬鹿になんかしてないよ。ただ、驚いてるだけだ」

 彼女はムスッとした表情のまま僕を睨んだ。

「嘘をつかないでください。もう良いです。私が馬鹿でした」

 その時、彼女は一瞬だけ悲しそうに口元を歪めた。その瞬間を、僕は見逃さなかった。いや、見逃せなかったのかもしれない。

 だって、あまりにも――――そこで、思考が止まった。彼女が踵を返してすたすたと歩き去って行ったからだ。

 ここで彼女を逃すのは良くないと思った。

「ちょっと待ってくれ」

「嫌です」

 声を返して貰えるだけありがたいのかもしれない。

 もしも彼女が[あいつ]の言っていた人物ならば、[あいつ]の言っていたことが本当ならば、彼女はあれを持っているはずだ。

「もしかして君、ノートを持ってない?」

 僕がそう聞くと、彼女は目を見開いた。

「え?」

 サッと彼女の顔から血の気が引いていくのが分かる。彼女の反応で、僕は確信した。

「驚いた。本当にノートを持っているのか」

「どうしてそれを知ってるんですか」

「そんなのはどうだっていいじゃないか」

 [あいつ]から教えて貰っただけだ。だが、そんなことを説明している時間はない。もしかしたら本当に、彼女はこの世界の壊し方を知っているのかもしれない。

「今のは確かめただけなんだ。君がノートを持っていたら、君の言うことを信じてみようってね」

 彼女ははぐらかされたことに不信感を示したが、話が進まないと諦めたのだろう。肩にかけていた手提げ袋に手を突っ込み、一冊のノートを取り出した。

「確かに、私はノートを持っています。このノートの存在を知っているということは、このノートの中身を知ってるんですか?」

 何か隠したいことでもあるのだろうか、彼女は不安気な表情で聞いてくる。

「全く知らないから安心してよ」

 [あいつ]からノートについて詳しい説明は聞いていない。ただ、この場所にノートを持った人物が現れるという情報を聞いただけだ。

「本当なんですね?」

「ああ、そうだよ」

 彼女は安心したようだった。心なしか頬にも赤みが増している。やはり、何か隠したいことでもあるのだろう。だが、彼女の秘密なんてどうでもいい。早くこの世界を壊す方法というやつが知りたかった。そして一刻も早くこの世界から抜け出したい。その為なら、この世界を終わらせることだって厭わない。

「それで? どうすればこの世界を壊すことができるんだ?」

 僕が信じるという姿勢を見せたことに満足したのだろう。彼女は頷いてから指を一つ立てた。

「これを教えるには一つだけ条件があります」

「条件?」

「はい」

 彼女は口元に笑みを湛えたまま続ける。

「貴方にはこの世界を終わらすまでの間、言うことに従ってください。早い話、私の奴隷になって貰います」

「……は?」

 思わず声を上げてしまった。彼女は勝ち誇ったように目を細めて僕を見ている。

 奴隷になれと言われたところで「はいそうですか」と頷ける訳がない。

 だが、ここでこのチャンスを逃してしまったら僕は永遠にこの世界から抜け出せないかもしれない。それは嫌だった。

 何をしようが、何をされようが、僕はこの世界から抜け出したい。例え彼女の言っていることが嘘だとしても、僕はその嘘に縋り付きたい。そう思ってしまうくらいには、僕はこの世界が嫌いだ。

「分かったよ。僕はこの世界を滅ぼすまでの間、君の奴隷になる」

 僕がそう言うと、彼女は満足そうに頷いた。

「話が早くて良いですね。貴方、奴隷の才能がありますよ」

 どうやら彼女の人格は破綻しているみたいだ。だが、悪くないと思えた。性格の悪い奴との方が割り切った付き合いができる。下手な情に流されなくて済むからだ。

「分かった。で、どうやってこの世界を壊すんだよ」

 僕がそう聞くと、彼女はもったいつけたように息を大きく吸い、僕に告げた。



「それはですね。私の命を終わらせることですよ」



 一瞬の静寂があった。強い海風が吹いて、真っ白な粉雪が叩きつけられるように僕の頬に当たった。その雪が熱で溶けていくのと同時に、噛み砕かれた言葉がじんわりと僕の脳内に染み渡っていく。

「君が死ぬ、のか?」

「そうです。私が死ぬことが、この世界を破壊する条件です」

「意味が分からないな」

「ですよね。私にも分かりません」

 あははっと、彼女は戯けたように笑う。

「でも、仕方ありませんよ。それがこの理不尽でクソッたれな世界が決めたことなんですから」 

 理不尽でクソッたれな世界という部分には大いに共感できた。

「君はそれに納得してるのか」

「まあ、私はこの世界が大嫌いですから。仕方ありません」

 どういう理屈なのかは分からないが、彼女は自分が死ぬことを受け入れているらしい。

「一つ聞きたい。それは僕の手で君を殺すってことになるのかな?」

 冷たい汗が背筋を伝うのが分かる。この世界から抜け出すためには僕は殺人を犯さなければならないのかもしれない。そんな覚悟が、僕にはあるのだろうか。でも、いざとなったら――

「ああ、それは大丈夫です。死ぬ時は私が一人で勝手に死にますから」

 彼女は驚くほどあっさりと言った。その言葉に胸を撫で下ろす。僕が彼女を死に追いやる必要はないようだ。

 だが、違和感があった。彼女が一人で勝手に死ねばこの世界は滅びる。ではなぜ、僕なんかに声をかけたのだろう。

 僕の思考を盗み見たかのように、彼女は告げた。

「ただし、死ぬには手順が必要になります。そのために、貴方に声をかけたわけです」

「つまるところ、死ぬためには前準備が必要で、僕はその前準備を手伝えばいいってことだね?」

「話が早くて助かります」

「ああ。じゃあ、僕は何をすればいい?」

「やることは沢山あります。だけど、大きな問題が一つだけあるんです」

 彼女は指を一つ立てる。

「というと?」

「それはですね。貴方には私のことを好きになって貰わないといけないってことなんです」

 にんまりと口角を上げて「大変でしょう?」と彼女は呟いた。

「なんだそれ。人肌恋しいのか?」

「違います」

 彼女は持っていたノートの角で僕のこめかみを殴った。それは割と力の込められた容赦のない一撃で、僕は思わずよろけてしまう。

「このノートにはこの世界の壊し方が記載されています。その中の条件の一つが、私が人に愛されることなんです」

 彼女はあれだけ隠したがっていたノートの中身をあっさりと吐いた。彼女の行動には一貫性がないように見える。

 僕はノートの中身を確認しようと反射的に手を伸ばした。

「辞めてください!」

 彼女は大声をだして、ノートを抱きしめるようにして僕に背を向けた。

「中身は、ダメです」

「あぁ、ごめん」

 どうやら彼女はノートの内容を隠したいのではなく、中身を見られたくないらしい。だが、それはどういうことなのだろう。どんな違いがあるのか見当もつかない。だが、そんなことはどうでもいい。

「これからは気をつけてください」

 彼女は一度呼吸を整えて、話を戻しますと呟いた。

「このノートの作者は私が一人孤独に死んでいくのが可哀想だと思ったのでしょう。だから、そんな条件を作ったんだと思います」

 冗談じゃないと思った。僕はずっと理想のあの人のことだけを考えてここまで生きてきた。今更、こんな目の前のよく分からない女を愛せるわけがない。

「だから、貴方には頑張って私のことを好きになってもらいます。貴方にとって私が大切で大切でどうしようも無くなった時に、私は死ぬんです」

 彼女は無邪気に笑っている。今日見た中で、一番楽しそうな笑顔だった。

「要は心の道連れが欲しいんだな」

「そういうことですね。ノートの作者はそう考えたんでしょう」

 彼女は[ノートの作者]というところを強調した。そんな馬鹿なことを考えるのは自分じゃないとアピールしたかったのだろうか。それはいかにも[あいつ]が考えそうなことだった。

「そこまでベラベラ喋らせておいて何言ってんだって話だろうけど、最後の条件だけは難しい。というより、無理だ」

 僕はかいつまんで理想のあの人のことを説明した。彼女は思ったよりも真面目に僕の話を聞いてくれた。

「なるほど。ですがね、嫌だ無理だ。なんて選択肢はないんですよ」

 彼女は淡々と言葉を紡いでいく。

「嫌なら別に良いんです。でも、貴方は絶対に私の言う通りにするしかない。だって、そうしないと貴方はこの世界から一生抜け出すことができない」

 だから言ったでしょ、奴隷になってくださいって、と彼女は続けた。

 確かにそう言われると痛かった。この世界を壊す以上、僕は彼女の言いなりになるしかない。でも、ダメだと分かっていても反論せずにはいられなかった。

「他の人が君を愛して、この世界を壊してくれるかもしれない」

 自分で言っていて、めちゃくちゃだと思う。それまで世界が終わるのを待ち続ける自信があるかと言われたら、そんなわけないと答えるしかない。

「本当にそう思いますか? では、貴方はこの世界の人々がこの理想郷を壊す手順に手を貸してくれるとお考えなんですね?」

 僕は黙ることしかできなかった。絶対にそんなことはない。

「残念ながら貴方に拒否権は無いんですよ」

 確かにその通りだ。やはりこの世界から抜け出す以上、彼女の言うことを聞くしかない。

 そこで、ふと思った。彼女はどうしてそこまでして、この世界を壊したいと思っているのだろうか。

 恐らく、彼女はこの世界から抜け出したいわけではないのだろう。だって、死んでしまうのだから。どういう原理かは分からないが、彼女の死と引き換えにこの世界は滅びる。なら、彼女はどうして、死を選んでまでこの世界を無くそうとしているのだろう。

「ねえ――」

 喋りかけようとしたところで、彼女の声にかき消された。

「とにかく、話は以上です。明日、この近くの広場で待ってます。場所は分かりますね?」

 彼女に指定された場所は、幸い僕がいつも待ちぼうけをくらっているあの場所だった。

「ああ」

「じゃあ明日、深夜一時に、その場所で待っています」

 彼女はすたすたと砂浜を歩いて行った。僕はそんな彼女の背中を見ながら、浜辺にポツリと立ち尽くしている。まるで嵐が過ぎ去った後のような静寂が、その場を支配していた。

 まさか本当に、この世界の壊し方を知っている人物と出会えるなんて思っていなかった。

[あいつ]の言っていたことが本当に起こった。僕は本当に[あいつ]と遭遇してしまったのかもしれない。

 この世界を作った、あの人物に。
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