命の終わりとユートピア・ワンダーワールド

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 それから僕達は水族館へ向かった。月野が「今日はこれをやります」と言って見せてきたノートに[水族館へ行きたい]と書いてあったからだ。

 今日は不幸なことに夏日で、少し歩くだけで汗が滝のように流れてくる。

 海辺にある水族館へ向かう為、海岸線を歩いていく。僕と月野が始めて会ったあの砂浜だ。

 どこまでも続く蒼穹に、背の高い雲が浮かんでいる。生ぬるい風が泳いで夏の匂いを運んでくる。

 汗だくになってたどり着いた水族館は、まさに天国だった。チケットを買って、エントランスで息をつく。

「あー、生き返りますね」

 僕達はエントランスのベンチに座って、売店で買ったラムネを握りしめていた。

 クーラーから吐き出されるカビ臭い冷風が、ほてった体に染み渡っていく。館内は飲食禁止なので、ラムネを飲み干してからゲートをくぐった。

 水族館の中はいくつかのエリアに分かれており、僕達は順番に回っていくことにした。まず初めに現れたのは、真っ暗な部屋だ。光の届かない世界で暮らしている深海魚達が、それぞれの水槽で泳いでいた。

 見たこともないような形をした魚や、毒々しい色をした魚達が、青い光に照らされて泳いでいる。このエリアには人はあまりおらず、いるのは僕達と老夫婦と、若いカップルが三、四組だけだった。

 月野は暗闇の中をホタルのように発光している魚を見て「おぉ」と歓声をあげていた。

 次のエリアは二階にあり、エレベーターで向かわなければならない。エレベーターに乗り込み、二階に付いた。

 扉が開いて、僕達は思わず息を呑んだ。視界いっぱいに、雄大な水槽が広がっていたからだ。その中を大きなジンベイザメがゆらゆらと泳いでいる。

 エレベーターから抜け出した月野は、その光景に目を奪われていた。全長三十メートルは超えているであろうアクリルパネルの内側には、大小様々な魚が踊るように泳いでいる。その光景は、自分がまるで海の底にいるようで、幻想的な眺めだった。

 二階の隅にあるお土産屋で、月野はマリンドームに興味を示したようだ。しかし、彼女の右手には既に購入済みのジンベイザメのぬいぐるみが抱えられている。

「知ってますか?」

 彼女はそのマリンドームを手にとって、僕の方へと視線を向けた。そのマリンドームの中には人魚が座っており、その周りを魚達が泳いでいる。

「いい歳こいて君が可愛いものが好きだってこと? 意外だったよ」

「違います」

 彼女は鋭い目で僕を睨んだまま続ける。

「この水族館最大の売りです」

「知らないな」

「ここには人魚がいるんですよ」

 人魚……その言葉に、一瞬だけ嫌な予感がした。何か最近それに関連する言葉を聞いたような気がする。

「ええ、どうやら半年ほど前に捕まえたそうです」

「そうなのか」

 この世界にはサンタクロースだっているんだ。人魚の一匹や二匹いたところで何も驚かない。

「次はその人魚のエリアに行ってみましょう」

 二階には外へと続く出入り口があり、その出口の先に人魚エリアがあるらしかった。

 人魚エリアは一階と二階合わせて一つのエリアとなっており、二階にあるのは岩場エリアだ。一階は深海魚エリアの壁の反対側にあり、人魚の水槽エリアとなっている。

 月野に連れられて二階の外に出ると、燦々と輝く太陽に肌が炙られ、気が滅入った。だが、すぐにそんな気持ちも吹き飛んでしまった。

 人魚エリアにはかなりの人だかりができており、彼らの視線の先――――そこには一匹いや、一人寂しそうに岩の上に座る人魚の姿があった。

 赤茶色のショートボブに、病みきったように据わった目、貝殻でできた胸当て、その上半身はどこからどう見ても人間のそれだ。だが、下半身は青く澄み切った美しい鱗に覆われていて、尾ヒレが付いている。

 彼女は確かに、人魚だった。

 その時、隣に立っていた月野が目を細めて呟いた。

「ああ、私と一緒だな」

 それは本当に声を発したのかどうかも分からない、消え入りそうな声だった。僕の勘違いだと言われれば信じてしまえそうなくらいには、小さな声だ。

「今、なんて?」

 僕がそう聞くと、彼女はポカンとした表情で首を捻った。

「何がですか?」

「私と一緒って」

「何のことですか?」

 彼女は不機嫌そうに眉を寄せる。

「意味の分からないことを言わないでください」

「はあ……」

 意味が分からないのはこっちの台詞だ。声を大にして言ってやりたかったが、彼女の機嫌が悪くなっても困るのでグッと堪えた。

「それにしても、なんだか可哀想ですね」

 幸いにもこれ以上機嫌が悪くなることもなく、月野は人魚に視線を向けた。

「確かに、見ていていい気になるものではないね」

 狭い水槽の中に閉じ込められて、自由を奪われて、人に見せ物にされる。そんなのってあんまりじゃないかと思う。

 その時、僕はふいに思い出した。

『ヒントは、そうだな。八尾比丘尼やおびくにだ』

 確か、星の骸がそんな話をしていた。目の前の人魚がトリガーになったのかどうかは分からないが、八尾比丘尼伝説についての記憶が、唐突に甦った。

 理由までは覚えていないが、僕は向こうの世界で、食い入るように八尾比丘尼伝説について調べていた。それにまつわる文献や資料を図書館に籠もって読んでいた。

 その内容は確かこうだ。大昔、とある村に十七から十八ほどの若い娘がいた。彼女は誤って不老長寿とさる人魚の肉を食してしまい、八百年近く生きたという。

 なぜ僕はそんなものを真剣に調べていたのだろうか。

 僕のそんな思考を他所に、視界の端をある人物が通り過ぎていった。

 あの茶色に染められた髪には見覚えがある。あれは、常田だ。僕の唯一の友人である、常田真夏。

 彼が、たった一人で人魚エリアに入ってきた。だが、明らかに様子がおかしかった。

 いつもは無造作にとっ散らかっている髪の毛が、綺麗に整えられている。ぽつぽつと生えていた髭も、全て剃られていた。彼の麻薬中毒者のようだった風貌が、好青年に変わっている。

 そんな彼を眺めていると「どうかしたんですか?」と月野が訝しむように聞いてきた。

「あ、いや……」

 ほとんど上の空で返事をしてしまう。

 常田が死んだような表情で人魚を見つめ、下のフロアへと降りていったからだ。

 まさか……。

 ここで、一つの仮説が僕の中で生まれた。それとほぼ同時に、「おお!」と、岩場エリアの中からどよめきが起こる。

「どうやら人魚さんが笑ったみたいですね」

 人魚を見ると、確かに彼女は表情を綻ばせていた。そして、僕の仮説を裏付けるように、人魚は勢いよく水槽の中へ飛び込んでいく。

「どうしたんでしょうか」

「多分、好きな人でも見つけたんだよ」

 人魚を追いかけて下のフロアへと向かう客達に続き、僕達も一階にある人魚エリアへと向かった。一階の水槽は先程のジンベイザメのエリアのようになっており、横幅十メートルほどのアクリルパネルに囲まれていた。人魚は水槽の底付近を何度も行き来している。

「あれは誰かを探しているんでしょうか」

「ああ、多分そうだな」

 やがて目的の人物が見つからないと諦めたのだろう。彼女は水槽の真ん中くらいまで上がって、表情を輝かせた。

 彼女の視線の先、そこには綺麗におめかししやがった常田がいる。彼は人魚エリアの壁に寄りかかりながら、呆然とした表情で人魚を眺めていた。

 水槽の前にへばりついている人間どもは、人魚がなぜ笑っているのかに気付いていない。人魚を見るという自分の欲を満たすことで頭がいっぱいだからだ。

「あの人魚さん。彼のことが好きなんですかね?」

 僕の視線を追って気が付いたのだろう。月野も常田を見つけたようだ。

「ああ、どうやら両想いみたいだぞ」

 人魚は緩やかに泳いで、水槽に両手をつけた。そうして、安らかな表情で彼を見つめている。ちらりと常田に視線を送ると、彼もまたふっと口元を微かに緩ませていた。

「ええ、そのようですね」

 それはきっと、彼らにとって幸せなひと時なのだろう。常田の言っていたことの意味が、ようやく分かった。あいつの言っていた絶対に報われることのない恋というのはこのことだ。彼の愛する相手はこの水槽で飼育されている人魚だったのだ。そりゃあ、絶対に叶わない恋だとヤケになっても仕方ない。

 それから常田は、一度俯いて諦めたように笑った。ふらりと体を揺らして二階の岩場エリアへと戻っていってしまう。慌てて人魚も彼を追って岩場へと戻る。

 後から僕達も二階へ向かったが、そこに常田の姿は無かった。

 彼が消えた後、人魚は表情を曇らせ、しばらく常田を探していたが、完全に彼が消えてしまったことを悟ったのだろう。彼女は岩場の奥へと引っ込んでしまった。

「ああ……なんだか切ないですね」

「多分、彼らは僕達の愛すべき仲間だ」

「仲間?」

「この世界で幸せになれない者同士ってことだよ」

 僕がそう言うと、月野は納得したように「確かにそうですね」と頷いた。

「なんだか不思議な気分です」

「どうして?」

「だって、意味が分からないじゃないですか。今まで私は散々幸せそうにしている連中を憎んできたんです。でも、いざ不幸な人々を見ていたら彼らの幸せを願ってしまった」

 彼女は目線を下げてから、人魚を見る。 

「きっと、人魚と自分を重ねてしまったんだと思います。私は昔、向こうの世界にいる時、小さな部屋の中で誰かが来るのをずっと待っていました。その誰かが来てくれるのが、私の心の支えになっていた。そんな記憶が、微かにあるんです」

 月野の言う誰かというのは、以前彼女が言っていた理想のあの人、という奴だろう。

「そうか」

「ええ、だからじゃありませんが、私は彼らをどうにかして救いたいと思ってるんです。私が幸せになれないなら、せめて彼らに幸せになって欲しい」

 私が幸せになれないなら、そうした彼女の言葉一つ一つに、僕の中の感情が蠢くのが分かる。

 名前を与えていなくても、正体に気づかないふりをしていても、彼女の言葉が栄養になって、僕の中でその気持ちが育っていく。

 彼女を幸せにしたい。彼女の願いを、叶えてあげたい。どうしようもなく、そう思ってしまう。

「じゃあ、あいつに会いに行こうか」

 僕がそう言うと、月野はぽかんとした顔をした。

「あいつ?」

「ああ、あいつだよ。人魚に想いを寄せられてる男だ」

「彼の居場所が分かるんですか?」

「もちろんだ。だって、あいつは僕の友人だからな」

 彼女は今度、驚いたように目を剥いた。

 彼女は馬鹿にしたように笑ってから「サンタさんに友人がいるなんて」と言った。
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