命の終わりとユートピア・ワンダーワールド

37se

文字の大きさ
19 / 44

18

しおりを挟む
 あるところに、幸せの意味について考えている男がいたんだ。

 そいつはその半年くらい前から、全ての理想が叶う最高の世界に迷い込んでいた。何一つ不自由はなく、何の悲しみを背負うことの無くなった彼は、自分が酷く貧相な男になった気がした。

 得ていく幸せの価値が、日を追うごとに減っていったからだ。美味い飯を食っても、いい女を抱いても、どれだけ金を得ても、絵画で名声を得ても、何も感じなくなっていた。いつしか彼にとって、幸せが普通に変わっていた。つまり、幸せに慣れてしまったというわけなんだな。胸に穴が空いたように、虚しさを感じるだけの日々を送っていたんだ。満たされることが幸せに繋がるわけではない。彼はその真実に気がついてしまった。

 そんなわけで、彼は幸せの価値について考えるようになった。幸せについて考えて、天井を眺めていたら一日が終わる。そんな毎日。

 眠れない夜に、海辺を歩くようになった。明け方まで歩き続けて、疲労が溜まった頃に度数の高い酒を一気にあおり、そのまま弾けたように眠る。

 そんな生活を彼は送っていたんだ。

 空っぽの心を抱えて、なにもせずとも湧き上がってくる虚しさを背負って、その日も彼は海辺を歩いていた。淡い月明かりすら目に染みる。そんな時、ザブン、と静かな海から飛沫が上がった。

 音の方へ視線を向けると、そこには美しい人魚がいた。彼女は緩やかに泳いでいき、海の中にぽつんとある岩場に座った。彼女は憂いを帯びた目で、島の方を呆然と眺めている。

 彼女を見た男は、それはもう心を奪われたみたいなんだ。その日は帰ってから一睡もできなかった。いつものように酒を煽っても良かったのだが、それもしない。酒によって記憶の中の人魚が穢れることを恐れたのだ。

 次の日も、男は海辺を歩いた。久しぶりに気分が高揚していた彼は、瓶に詰まった手作りサルサソース片手に、トルティーヤチップスを持って出かけていた。

 桟橋付近を歩いている時に、声をかけられた。

「ねえ、お兄さん」

 そこにいたのは、昨日見かけた美しい人魚だった。緊張しているのだろうか、彼女の声は微かに震えている。それでも、驚いてしまうくらいに美しい声だった。

「お兄さんは、いつも浮かない顔をしてるよね」彼女はふふっと笑ってから「私と同じだ」と言った。

 どうやら人魚は、海の底で生活するのに飽き飽きしていたらしい。人魚には人魚の世界があるらしいが、一度海面に上がって外の世界を見たら、その世界に心を奪われたのだという。

 人魚は唇に指を当てて、物珍しそうに男の持つトルティーヤチップスを見る。

「食べたい?」

 男が聞くと、人魚はごくりと喉を鳴らした。

「食べたい、な」

「分かった」

 海にはきっと違う文化が広がっているんだろうな。そう思いながら、男はサルサソースの瓶を開けた。

「ちょっと辛いけど大丈夫?」

 人魚は頷いた。彼女は桟橋に腰掛けると、恐る恐るといった様子でトルティーヤチップスを受け取った。

 それを口へ運び「美味しい!」と叫んだ。

「ねえ。もし良かったらなんだけどさ」

 人魚は幸せそうにトルティーヤチップスを食べてからいった。

「私に外の世界を教えて欲しいんだ」

 その日から、男は幸せを取り戻した。男にとって、幸せの価値が再び上がった瞬間だった。

 彼は日中、画用紙と絵の具、筆を持って外に出かけた。

「君の目に映った世界が見たいな」

 人魚はそう言っていた。彼は一日中絵を描いていた。この世界に来て、才能を与えられて良かったと、初めて思った。

「うわあ。外の世界にはこんな景色があるんだね」

 彼女は男の描いた絵を何度も何度も見ていた。その絵が自分の力で描いたものじゃないことくらい男には分かってる。この世界から与えられた才能で描いたものだということは彼が一番理解していた。でも、それでも、人魚が笑ってくれるのが嬉しかった。

 人魚にとって、外の世界は新鮮そのものだった。どんなにつまらない景色でも、食事でも、その全てを楽しそうに受け取ってくれる。

 ああ、俺はきっと、彼女に会うために産まれてきたんだ。

 人魚と共に過ごす時間は、とても素敵なものだった。どれだけ一緒にいても、決して満たされることはない。幸せが底をつきない。幸せに慣れることがない。ああ、これが本当に心地よい生活なんだと、彼は思った。

 だが、そんな生活にも、終わりが訪れてしまう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...