宿縁に咲く桃花

Teo

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第9話:蓮公子の再来

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桃の一件がもたらした波紋は、紫雨しぐれが思う以上に、大きく、そして早く広がっていた。
仙家せんけの者たちの間で、今や一番の話題は、あの日、東屋で起きた不可解な出来事についてだった。

『ついに、閻公子えんこうしが公衆の面前で倒れられたそうだ』
『やはり、あれほどの御方でも、限界だったのだろう……』
『仙女様の鎮触ちんそくさえ拒絶されたのに、その後、不思議と静まられたらしい。一体何があったのだ……?』
『その時そばに居られた黄階こうかい導心どうしん様が鎮触を行ったのかと思ったが、その方は己は何もしていないと仰っていたそうだ』

噂は尾ひれをつけ、人々の好奇心を煽る。そして、誰からともなく、紫雨に関する不可解な点も結びつけ始めた。
『閻公子を鎮められるのはあのお方しかいないと思っていたが……』
『あのお方といえば……あの黄階の導心、ふとした立ち居振る舞いが、まるで名家で育った公子のようではないか? ついこの間もあのお方に見えて目を疑ってしまった』
『馬鹿者、迂闊にその方の話をするんじゃない。閻公子に聞かれでもしたら……』

そんな噂が広まり始めた頃。修練を終えた後、あきらは憂鬱そうに己の手を眺める紫雨を呼び止めた。
「紫雨。まだ力のことで思い詰めてるのか。お前のペースでやればいいって言われてるだろ」
「……ごめん。そんなつもりは、ないんだけど。どうしても歯痒くなっちゃって……」
「ほらよ」
曉が不器用に差し出したのは、彼が自分で彫ったらしい、小さな木彫りの鳥だった。
「下手だけど、お守りだ。お前が早く自分の力に自信を持てるように。……まあ、気休めだな」
「曉……」
紫雨は、その不格好だが温かい贈り物を両手でそっと受け取った。
「ありがとう。大事にするね」
その光景を遠巻きに見ていた香蘭こうらんや他の仙官せんかんたちは、二人の友情に微笑ましく目を細めていた。以来、紫雨はそのお守りを肌身離さず持ち歩くようになった。

そして今日、三人は香蘭に招かれ、若手から年配まで、様々な仙官たちが交わる茶会に参加していた。
茶会が始まり、紫雨は懐から例の木彫りの鳥を取り出し、文机ふづくえの隅にそっと置いた。曉がくれたお守りを眺めていると、不思議と心が落ち着くのだった。
和やかな会の中、みどりが席を立った拍子に、その長い袖が置物を払ってしまった。木彫りの鳥は床に落ち、カラン、と乾いた音を立てて、その翼が大きく欠けてしまった。

「あ……」
翠が気まずそうに声を上げる。曉は、自分が贈ったものが壊されたのを見て、思わず眉を寄せた。
周囲の者たちも、息をのむ。先日、曉が紫雨を励ますために贈ったと、誰もが知っているからだ。そしてそれをいかに大事にしていたかも。

当の紫雨は、一瞬だけとても悲しそうな顔で欠けた翼を見つめた。だが、すぐにふっと顔を上げると、困っている翠に向かって、穏やかに微笑んだ。
「あ、あの……その、隠さん……」
「大丈夫だよ、池内さん。わざとじゃないんだから」
そして、欠けた置物をそっと拾い上げると、こう言ったのだ。
「それに、形あるものは、壊れてしまうって言うしね。僕が机の端に置いたのがいけなかったんだ」

その瞬間、その場にいた香蘭や、年配の仙官たちの顔色が変わった。
その言葉は、あまりにも有名だったからだ。
皆が噂をする『あのお方』、――蓮公子れんこうしの逸話として。
八年前、ある宴の席で、給仕をしていた一人の侍女が、衣の袖を蓮公子の髪に引っかけてしまい、彼が挿していた玻璃がらすの髪飾りを床に落として砕いてしまった。蓮公子がそれを閻公子から贈られ、どれほど大切にしていたか知る者たちは、誰もが蒼白になった。
しかし、蓮公子は一瞬だけ悲しげに眉を寄せたものの、地面にひれ伏す侍女を一切責めず、こう言って許したのだ。
『形あるものは、いつか壊れてしまうから仕方がない』と。
そして、隣にいた閻公子に向き直ると、甘えるように微笑んでこう強請った。
『ねえ、玲瓏れいろう。また、私に贈ってくれるだろう?』
そのあまりに美しく慈愛に満ちた光景に、『閻公子』玲瓏は呆れたように、しかし愛おしげに息を吐き、こう答えた。
『ああ。お前が望むなら、それがたとえ月であろうと贈ろう』
この逸話は、伝説のように語り継がれていた。

そして今、目の前の青年が、その逸話と全く同じ言葉を口にした。
誰もが固唾をのんで見守る中、紫雨は、少しむっとしている曉に向き直ると、安心させるように綺麗に微笑んでみせた。
「曉、ごめんね。でも、また作ってくれるでしょ?」
曉は、その言葉が翠を気遣ってのことだとすぐに分かった。そして、紫雨の曉への申し訳なさと信頼に満ちた瞳を見て、照れくさそうに頭を掻いた。
「しょうがないな。もちろんだ。今度は、もっとうまく作れると思う」

―――ぞわり。
その場にいた者たちの背筋を、畏怖にも似た戦慄が駆け抜けた。
言葉だけではない。状況も、相手への対応も、そして、最後に贈ってくれた相手に見せた、絶対的な信頼と、少しだけ甘えるような、あの微笑みまで。
これは、偶然の一致などではない。
魂に刻まれた記憶の再現。
この出来事をきっかけに、「蓮公子の再来」という噂は、仙家の中で、もはや揺るがしようのない確信へと変わっていった。

翠は、そんな周囲の反応に苛立ちを募らせていた。理由もわからぬまま、玲瓏が、そして今や仙家の者までもが、紫雨にだけ特別な視線を向けている。自分は仙女だというのに蚊帳の外に追い出されているような疎外感。そうだこれは疎外感だ。あまりにも理不尽で、腹立たしい。
(なぜ……! なぜ、あんな男を……!)
注目されるべきは仙女であるこの私。嫉妬と屈辱が、翠の心を黒く塗りつぶしていく。

香蘭もまた、この状況を深く憂慮していた。心が凍り付いた従兄弟の小さな変化も、日に日に真実味を帯びていく噂も、無視できない段階に来ている。
(彼らに、きちんと説明しなければならない。玲瓏が、なぜあのようになったのかを)
彼の目的は、紫雨が蓮公子の再来だという噂を確かめることではない。彼らが、玲瓏という複雑な男を理解し、これ以上無用な憶測に振り回されないようにするための、指導役としての責任だった。

その日の夕刻、香蘭は紫雨、曉、そして翠の三人を、自らの私室に呼び寄せた。
「急に呼び出してすまない。先日、玲瓏が倒れた一件について……君たちに、話しておくべきことがあるんだ」
彼の真剣な表情に、三人はただならぬものを感じて、ごくりと喉を鳴らした。
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