宿縁に咲く桃花

Teo

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第8話:桃香の記憶

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仙界せんかいでの生活が始まってから、半月ほどが過ぎた。
日々の修練は厳しいものだったが、紫雨しぐれにとっては、大勢の仙家せんけの者たちと顔を合わせる講話の時間よりはずっと気が楽だった。

その日の午後、修練を終えた紫雨しぐれあきらは、香蘭こうらんに誘われて宮殿の東屋で涼んでいた。季節の果物が振る舞われ、その中の一つに、紫雨は目を輝かせた。
みずみずしく、甘い香りを放つ、桃。それは、紫雨がいた世界でも一番の好物だった。

「わ、桃だ。いただいてもいいですか?」
「もちろん、好きなだけ食べるといい」
香蘭の許可を得て、紫雨は嬉しそうに桃を手に取る。

その時、一人の男が東屋に姿を現した。
「香蘭、いるか」
その声に、香蘭以外の全員が動きを止める。氷のように冷たい美貌の持ち主、閻玲瓏えんれいろうだった。
「まあ、なんて綺麗な方……」
みどりがうっとりとため息を漏らす。彼女は、その圧倒的な存在感と美貌に、一瞬で心を奪われていた。
「香蘭様、あの方は……?」
「ああ、翠殿に紹介はまだだったかな。彼は私の従兄弟で、閻玲瓏。私と同じ、龍皇級りゅうおうきゅう覺者かくしゃだよ」
龍皇級――その言葉に、翠の瞳がさらに熱っぽく輝いた。

玲瓏は、香蘭にだけ視線を向けていたが、ふと彼の鼻腔をふわりとくすぐる、桃の甘い香り。玲瓏の眉が、かすかにひそめられる。
その微かな変化を、香蘭は見逃さなかった。彼は玲瓏の不快そうな表情と、周囲に漂う桃の香りを結びつけ、しまった、というように顔色を変えた。
「玲瓏、場所を変えよう。話なら向こうで……」
香蘭が玲瓏をその場から遠ざけようと声をかけたが、もう遅かった。

愛しい人の面影を写す紫雨の姿と、不快な桃の香りが結びついた瞬間、玲瓏の中で何かが砕け散った。

―――ぶつり。

視界が、赤と黒の色で塗りつぶされる。耳の奥で、聞きたくもない風の音が鳴り響く。
甘い、甘い、桃の香り。あの日の庭も、こんな噎せ返るような甘い香りに満ちていた。
桃の木。揺れる枝。固く結ばれた、組紐。そして、その先で、虚ろな瞳で宙を見つめる、冷たくなった愛しい人。
「―――っ、ぐ……!」
激しい頭痛と吐き気が、玲瓏を襲う。立っていることさえできず、彼はその場に膝をついた。全身から血の気が引き、呼吸が浅くなる。

「玲瓏!」
香蘭が、悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。
過感かかんか!?……いや、これは暴識ぼうしきに限りなく近い……!何故だ、桃の香りごときで……これまで、これほど酷くなったことはなかったというのに!」
(これが、過感……!)
紫雨も曉も翠も、話には聞いていた覺者の精神崩壊を目の当たりにし、顔色を変える。

この機を、翠が見逃すはずもなかった。
「香蘭様、私にやらせてください!」
翠は香蘭を押し退けるようにして、玲瓏の前に回り込んだ。
「玲瓏様、しっかりしてください!私の力で、楽にしてあげます……!」
翠が、その黄金の気をまとった手を、玲瓏の体に伸ばすのを見て、香蘭が叫んだ。
「よせ、翠殿!」
だが、その制止も間に合わず――翠の手が、玲瓏に触れようとした、その時。

「――触るなっ!!」

獣の咆哮ほうこうのような、拒絶の言葉。
玲瓏は、力の限り、翠の手を振り払った。弾き飛ばされた翠は、驚きと屈辱に目を見開いて後ずさる。
「どうして……!?私は龍皇級なのよ!私の鎮触ちんそくなら、すぐに楽にしてあげられるのに……!」
「すまない、翠殿!」
香蘭が、苦しげに説明する。
「彼の体は今不安定で……特定の導心以外の鎮触を、まるで毒のように拒絶してしまうんだ……! 玲瓏、丸薬がんやくは持っているか?」

香蘭は屈んで玲瓏の懐を探るが、見当たらない。鎮触をうまく受けられない玲瓏は申し訳程度だが過感を鎮められる丸薬をいつも持ち歩いていた。
「曉殿、すまないが、私が戻るまで玲瓏を頼む!下手に動いて刺激するな、距離を保て!万が一の時は、君の力で抑えてくれ!」
龍皇級の覺者である曉なら、自分が戻るまで持ちこたえさせられる。そう信じ、香蘭は曉に後を託すと、薬を取りに駆け出していった。

残されたのは、暴識の淵でもがく玲瓏と、なすすべもない召喚者たちだった。
怖い。恐ろしい。逃げなければ。
紫雨はそう思うのに、目の前で、あの美しい人が、まるで迷子の子どものように苦しみ、倒れかかっている。その姿を見た瞬間、彼の恐怖は、どこかへ消し飛んでいた。
玲瓏の体が、ぐらりと大きく傾いだ。
咄嗟にその体を支えようと、紫雨は震える手を伸ばし、崩れ落ちる玲瓏の背中に、そっと、触れた。
「紫雨、危ない!」
曉がその腕を掴んで引き離そうとするが、その瞬間、玲瓏の中で荒れ狂っていた嵐が、勢いを失い始めた。

乾ききった大地に、柔らかな慈雨が染み渡るように、穏やかで、暖かく、そして、どうしようもなく懐かしい『気』が、彼の魂を優しく包み込んでいく。激痛は和らぎ、悪夢のような幻覚はゆっくりと薄れていく。
これは、黄階こうかいの導心が出せる力ではない。それ以上に、これは、あの日失ったはずの、彼の半身ともいえる、唯一無二の鎮触。

「……あり、えない……」
我に返った玲瓏は、ゆっくりと、信じられないものを見る目で、振り返った。
そして、目の前で怯えたように自分を見つめる、地味な眼鏡の青年の魂から、確かに感じ取っていた。
あの、魂の音色を。

「なぜ……」
掠れた声が、唇からこぼれる。
「|黄階ごときのお前から、あの気配が……」
「ぼ、僕はなにも……」

玲瓏の紫の瞳が、初めて、明確な熱を帯びて、紫雨を捉えていた。それは、憎悪でも、殺意でもない。理解を超えた奇跡に対する、激しい動揺と、そして、ありえないはずの希望の光に貫かれた、魂の叫びだった。

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