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第7話:氷の亀裂
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仙界での生活にも、少しずつ慣れてきた。
といっても、それは生活のリズムの話であって、心の戸惑いが消えたわけではない。特に、仙家の者たちが一堂に会する「講話」の時間は、紫雨にとって苦痛以外の何物でもなかった。
その日も、三人は大広間に集められていた。仙界の歴史や、覺者と導心の心構えについて、長老の一人が朗々と語っている。しかし、その内容は難解で、紫雨の耳にはただの音の羅列としてしか届かない。
それ以上に彼を苦しめているのは、周囲から発せられる強大な『気』の圧だった。龍皇級や仙将級の猛者たちがずらりと並ぶこの場所では、黄階である自分の存在が、まるで嵐の中の小さな塵芥のように感じられてしまう。劣等感と居心地の悪さで、呼吸さえ浅くなっていた。
ちらりと隣を見る。曉は、持ち前の集中力で真剣な表情で長老の話に耳を傾けている。少し離れた席にいる翠は、退屈そうにあくびを噛み殺しているが、その身から放たれる黄金の気の揺らぎは、他の導心たちの中でもひときわ強く、自信に満ち溢れていた。
それに比べて、自分は。
紫雨は、誰にも気づかれぬよう、そっと席を立つことにした。体調が悪いふりをすれば、退出を咎められることもないだろう。
後方の席で良かった、と思いながら、抜き足差し足で出口へと向かう。後ろの席の者に気づかれ、小さく会釈をして通り抜けようとした時、長い仙服の袖が椅子の装飾に触れそうになる。それに気づいた紫雨は、咄嗟に、しかし驚くほど滑らかな所作でひらりと袖を翻した。
紫雨自身は全くの無意識だった。ただ、早くこの場から立ち去りたい一心での行動だ。彼は誰にも見られていないと思いながら、静かに広間の扉を開け、廊下へと姿を消した。
――だが、その一連の動きを、ただ一人、射抜くような視線で見つめていた者がいた。
大広間の最前列。ひときわ豪華な席に座る閻玲瓏は、長老の退屈な講話など聞いてはいなかった。彼の意識は、常に過去と現在(いま)の狭間にある、色のない世界を漂っている。そう、あの日、ただ一人の愛しい人を失ってから、彼の時間は止まったままだった。
その、何も映さないはずの紫の瞳が、ふと、後方で動いた小さな人影を捉えた。
地味な眼鏡の、黄階の導心。先日、川辺ではしたない真似をしていた男だ。どうでもいい存在。
そう認識したはずだった。
だが、男が優雅に袖を翻した、その一瞬。
玲瓏の世界から、音が消えた。
あの、仕草。
長い袖を扱う、独特の、指先の動き。それは、誰よりも見慣れた、彼の記憶に焼き付いて離れない、愛しい人の癖そのものだった。
『玲瓏、衣が乱れてるよ』
そう言って、悪戯っぽく笑いながら、自分の袖を直してくれた白い指先が鮮やかに蘇る。
思考が、目の前の光景を理解できずに混乱する。なぜ、あの男の姿に、彼が重なるのか。
理屈を超えて、魂が悲鳴を上げていた。寸分違わぬ、あの優雅な動き。あれは、間違いなく――。
今まで凍り付いていた湖面に、大きな石が投げ込まれたかのような衝撃。玲瓏の纏う空気が鋭く張り詰める。彼は、講話の最中であることも忘れ、身じろぎもせず、紫雨が消えた扉の一点を、ただ、じっと見つめ続けていた。
「……玲瓏?」
隣に座っていた香蘭が、玲瓏の異変に気づいて、そっと声をかけた。
従兄弟の様子がおかしい。普段の彼なら、講話が終わるまで石像のように動かないはずだ。それが今、まるで何かに魂を囚われたかのように、全身の神経を一点に集中させている。
香蘭は、玲瓏の視線の先を追い、それが先ほど退出していった紫雨に向けられていたことに気づいた。
(玲瓏が……? あの、万事に無関心なはずの彼が、あれほどまでに一人の人間に気を取られるとは……)
常ならぬ従兄弟の様子に、香蘭はただならぬものを感じていた。
(あの青年……紫雨殿に、一体何があるというのだろう……)
紫雨は、まだ知らない。
彼がただの「偶然」や「気のせい」で済ませていた無意識の行動が、氷の棺に閉じこもっていた一人の男の心を、激しく揺さぶり始めているということを。
運命の歯車が、今、確かに音を立てて回り始めていた。
といっても、それは生活のリズムの話であって、心の戸惑いが消えたわけではない。特に、仙家の者たちが一堂に会する「講話」の時間は、紫雨にとって苦痛以外の何物でもなかった。
その日も、三人は大広間に集められていた。仙界の歴史や、覺者と導心の心構えについて、長老の一人が朗々と語っている。しかし、その内容は難解で、紫雨の耳にはただの音の羅列としてしか届かない。
それ以上に彼を苦しめているのは、周囲から発せられる強大な『気』の圧だった。龍皇級や仙将級の猛者たちがずらりと並ぶこの場所では、黄階である自分の存在が、まるで嵐の中の小さな塵芥のように感じられてしまう。劣等感と居心地の悪さで、呼吸さえ浅くなっていた。
ちらりと隣を見る。曉は、持ち前の集中力で真剣な表情で長老の話に耳を傾けている。少し離れた席にいる翠は、退屈そうにあくびを噛み殺しているが、その身から放たれる黄金の気の揺らぎは、他の導心たちの中でもひときわ強く、自信に満ち溢れていた。
それに比べて、自分は。
紫雨は、誰にも気づかれぬよう、そっと席を立つことにした。体調が悪いふりをすれば、退出を咎められることもないだろう。
後方の席で良かった、と思いながら、抜き足差し足で出口へと向かう。後ろの席の者に気づかれ、小さく会釈をして通り抜けようとした時、長い仙服の袖が椅子の装飾に触れそうになる。それに気づいた紫雨は、咄嗟に、しかし驚くほど滑らかな所作でひらりと袖を翻した。
紫雨自身は全くの無意識だった。ただ、早くこの場から立ち去りたい一心での行動だ。彼は誰にも見られていないと思いながら、静かに広間の扉を開け、廊下へと姿を消した。
――だが、その一連の動きを、ただ一人、射抜くような視線で見つめていた者がいた。
大広間の最前列。ひときわ豪華な席に座る閻玲瓏は、長老の退屈な講話など聞いてはいなかった。彼の意識は、常に過去と現在(いま)の狭間にある、色のない世界を漂っている。そう、あの日、ただ一人の愛しい人を失ってから、彼の時間は止まったままだった。
その、何も映さないはずの紫の瞳が、ふと、後方で動いた小さな人影を捉えた。
地味な眼鏡の、黄階の導心。先日、川辺ではしたない真似をしていた男だ。どうでもいい存在。
そう認識したはずだった。
だが、男が優雅に袖を翻した、その一瞬。
玲瓏の世界から、音が消えた。
あの、仕草。
長い袖を扱う、独特の、指先の動き。それは、誰よりも見慣れた、彼の記憶に焼き付いて離れない、愛しい人の癖そのものだった。
『玲瓏、衣が乱れてるよ』
そう言って、悪戯っぽく笑いながら、自分の袖を直してくれた白い指先が鮮やかに蘇る。
思考が、目の前の光景を理解できずに混乱する。なぜ、あの男の姿に、彼が重なるのか。
理屈を超えて、魂が悲鳴を上げていた。寸分違わぬ、あの優雅な動き。あれは、間違いなく――。
今まで凍り付いていた湖面に、大きな石が投げ込まれたかのような衝撃。玲瓏の纏う空気が鋭く張り詰める。彼は、講話の最中であることも忘れ、身じろぎもせず、紫雨が消えた扉の一点を、ただ、じっと見つめ続けていた。
「……玲瓏?」
隣に座っていた香蘭が、玲瓏の異変に気づいて、そっと声をかけた。
従兄弟の様子がおかしい。普段の彼なら、講話が終わるまで石像のように動かないはずだ。それが今、まるで何かに魂を囚われたかのように、全身の神経を一点に集中させている。
香蘭は、玲瓏の視線の先を追い、それが先ほど退出していった紫雨に向けられていたことに気づいた。
(玲瓏が……? あの、万事に無関心なはずの彼が、あれほどまでに一人の人間に気を取られるとは……)
常ならぬ従兄弟の様子に、香蘭はただならぬものを感じていた。
(あの青年……紫雨殿に、一体何があるというのだろう……)
紫雨は、まだ知らない。
彼がただの「偶然」や「気のせい」で済ませていた無意識の行動が、氷の棺に閉じこもっていた一人の男の心を、激しく揺さぶり始めているということを。
運命の歯車が、今、確かに音を立てて回り始めていた。
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