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第29話:還魂
しおりを挟む血で描かれた陣は、主の生命力が尽きかけていることに呼応するように、その禍々しい光をまるで断末魔のように揺らめかせた。
結界の外で、その凄まじい気の乱れを感じ取った香蘭と曉は、息をのんだ。
「……玲瓏!」
儀式が失敗しようとしている。
だが、術者である玲瓏の魂はまだ諦めてはいなかった。
輪廻の川の対岸、今にも来世へと渡ろうとしているか細い琥珀色の光。
(……酷い男だ。私を救うために、自らを犠牲にするなど)
(だがその結末を、私が認めるものか)
玲瓏は、傷だらけの魂の手をさらに先へと伸ばす。川の奔流が彼の魂を削り押し戻そうとする。だが彼は、歯を食いしばってその流れに逆らった。
その指先が、ついに琥珀色の光に触れた。
その瞬間、暖かくそしてどうしようもなく懐かしい感覚が、彼の魂を包み込む。間違いなく紫釉の魂だ。
『―――!』
魂は抵抗した。もう還ってはならないのだと。そうすれば、また愛しい人を傷つけてしまうと。
だが、玲瓏はその光を決して離さなかった。
「もう、一人にはしない」
現世で血を吐きながら。魂の世界でその身を削られながら。玲瓏は、ただその光を力強く自分の方へと引き寄せ始めた。
「今度こそ、私が、お前を連れ戻す」
「私が、お前を、絶対に守る」
その、あまりに切実な声に、魂の光の抵抗がほんの少しだけ弱まった。
玲瓏はその機を逃さない。
彼は、残された全ての生命力をその一点に注ぎ込んだ。
「―――来いッ!」
魂の絶叫と共に、玲瓏は琥珀色の光を輪廻の川から現世へと引きずり出した。
霊廟の中、玲瓏の肉体が祭壇にもたれかかるようにして大きく崩れる。
だが彼の顔には、初めてかすかな笑みが浮かんでいた。
彼が引き戻した魂が、琥珀色の光の玉となって祭壇の上に静かに浮かんでいたからだ。
「……は……はは……」
血塗れの口元で玲瓏が笑う。
第一段階は終わった。
あとはこの魂を、器へと還すだけ。
玲瓏は、朦朧とする意識の中最後の力を振り絞り、その光の玉へと手を伸ばした。
「おかえり、紫釉……」
低く慈しむような声が、静かな霊廟に優しく響き、玲瓏の血に濡れた指先が祭壇の上に浮かぶ琥珀色の光球をそっと導いた。
その愛しさに満ちた仕草に応えるかのように、魂の光はゆっくりと祭壇に眠る蓮紫釉の体へと降りていく。
光が、その胸に触れた瞬間。
それは、紫雨が覚醒した時のような暴力的な奔流ではなかった。
まるで、乾いた大地に最初の雨粒が染み込むように。
閉ざされた蕾が、朝陽を浴びてゆっくりと花開くように。
魂は、あるべき場所へと穏やかに、そしてごく自然に還っていった。
琥珀色の光が、紫釉の体全体へと温かい血潮のように巡っていく。
死の気配に満ちていた肌に血の気が戻り、生者の色が灯る。固く閉じられていた唇がわずかに開き、長い沈黙を破る最初の呼吸を静かに吸い込んだ。
そして。
閉ざされていた瞼がかすかに震え、ゆっくりと持ち上げられていく。
現れたのは、あの玲瓏が夢にまで見た美しく潤む琥珀色の瞳だった。
その、あまりにも完璧な奇跡の光景を、玲瓏は床に膝をついたままただ呆然と見上げていた。
もう指一本動かす力も残っていない。魂を繋ぎとめるだけで、精一杯だった。
(……ああ……)
だが彼の心は、久しく忘れていた歓喜に満たされていた。
祭壇の上で、目覚めたばかりの青年がゆっくりと身を起こした。
彼は、まず自分の両手を見つめる。白く、しなやかな、見慣れているはずなのにどこか懐かしい自分の手。
そして、次に彼は、血塗れで倒れ伏す寸前の玲瓏へとその視線を向けた。
その琥珀色の瞳には、もう隠紫雨だった頃の怯えや混乱の色はない。かといって、蓮紫釉だった頃の無垢なだけの優しさとも違う。
全ての記憶と二つの人生の哀しみを知った上で、それでもなお目の前の男を愛さずにはいられないという、深くそして揺るぎない愛情の光が宿っていた。
玲瓏は、薄れゆく意識の中でその瞳に見つめ返されただ幸せだと思った。
もう一度、その声が聞きたい。
そう願った、その時。
「――玲瓏」
凛とした、鈴の音のような声が静かな霊廟に響き渡った。
それは、紛れもなく彼が焦がれ続けた愛しい人の声だった。
その声を聞き届け、玲瓏の意識はついにぷつりと途絶えた。
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