宿縁に咲く桃花

Teo

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第1話:紫水晶の涙

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また、この夢を見ている。

一面に咲き誇る桃の花。甘くむせ返るような香りが空気を満たしている。花びらが吹雪のように舞い散り、視界を淡い桃色に染め上げていた。
その美しい狂詩曲きょうしきょくの中でひときわ目を引く人影が一つ。
長く艶やかな黒髪、人々が神の傑作と称賛するであろう完璧なかんばせ。しかし、その紫水晶の瞳から流れるのは絶望という名の涙だった。彼は誰かの亡骸をその腕に抱きしめている。

『逝くな』

悲痛な声が魂を震わせる。

『私を、置いて……逝かないでくれ』

亡骸は何も答えない。夢の中の「私」は、それが自分自身のなれの果てなのだと、なぜか理解していた。腕も足ももう動かない。彼の頬を伝う涙を拭ってやることも、その震える体を抱きしめ返すこともできない。ただ、彼の悲しみが自分のことのように胸を抉る。

男の叫びが脳に響いた瞬間、世界が軋み、目の前が真っ白になった。

「――はっ!」

息を呑んで、隠紫雨なばりしぐれは自室のベッドから身を起こした。
心臓が警鐘のように激しく脈打っている。じっとりとした汗が額に滲み、浅い呼吸を繰り返した。窓の外はまだ薄暗く、見慣れた自分の部屋の景色が広がっている。
そっと自分の頬に触れる。指先が生温かい涙の痕跡を捉えた。
「……また、この夢か」
絞り出すような声は掠れていた。ここ最近、同じ夢を繰り返し見ては、こうして夜中に目を覚ますことが増えていた。夢の中の出来事は断片的で、目覚めるとすぐにあの美しい男の顔も悲痛な声も霞んでしまう。だが、胸を締め付けるような激しい痛みと、すべてを失ってしまったかのような深い喪失感だけは現実の紫雨の心を苛み続けた。

紫雨はベッドから降りると、その思考を振り払うように洗面所へと向かった。冷たい水で顔を洗い、鏡を見つめる。そこに映るのは、黒い髪に黒い瞳。取り立てて特徴のない、平凡な二十八歳の男の顔だ。夢の中の光景とあまりにかけ離れている。
自室に戻り、着替えを済ませると、紫雨は机の上に置かれた眼鏡を手に取り、慣れた手つきで装着した。これをかけるとクリアになる視界とは裏腹に、少しだけ世界の輪郭がぼやけて嫌な夢の残滓から守られるような気がした。

アパートのドアを開けると、隣の部屋からひょっこりと顔が覗いた。
「お、シグレ。おはよ。またクマ作ってんぞ。ちゃんと寝てるか?」
同じ歳の幼馴染、国下曉くにもとあきらだ。利発そうで快活な顔立ちの彼は、心配そうに紫雨の顔を覗き込む。
「おはよう、曉。大丈夫だよ、ちょっと考え事をしてただけ」
「お前は昔っから考えすぎるんだよ。まあいいや、ほら、行くぞ」
曉はそう言って、先にエレベーターのボタンを押す。何かと引っ込み思案な紫雨を彼は昔から家族のように気にかけてくれていた。その存在は紫雨にとって言いようのない安心感を与えてくれる。二人は職場へと向かうため、最寄りの駅まで並んで歩いた。

その日の夜、偶然帰りが一緒になった二人は、駅前の居酒屋でささやかな週末の前祝いをしていた。
「……というわけで、今度のプレゼンは俺に任せろって部長がさあ」
「ふふ、曉の部署は活気があっていいね」
「まあな。でも煩すぎてたまにはお前の部署みたいな静かな環境で仕事したいって思うよ」
他愛のない会話。心地よいアルコールの気配。胸の奥によどみのように溜まっていた夢の残滓も少しだけ薄れていくようだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、二人は帰路につく。賑やかな週末の雑踏。ホームには、家路を急ぐ人々が溢れていた。

その時だった。

突然、ホームの一角で短い悲鳴が上がった。何かと思って視線を向けると、紫雨たちの数メートル先で、一人の若い女が吸い込まれるように線路へと飛び降りたのだ。
「おい、危ないぞ!」
周囲の人々が遠巻きに叫ぶが、女は耳を貸さない。愛らしい顔立ちに虚ろな瞳を浮かべ、まるでそこにいるのが当たり前かのように枕木の上にただずんでいる。
「ちっ、馬鹿野郎が!」
曉が舌打ちをした。考えるより先に体が動くのが、彼の長所であり、時として短所でもあった。
「紫雨、お前はここにいろ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、曉は鞄を放り出し、躊躇なくホームから線路へと飛び降りた。
「おい、あんた!死にたいのか知らないが、他人を巻き込むな!さっさと上がれ!」
曉は翠の腕を掴み、ホームへと押し上げようとする。しかし。
「やめて!」
女――池内翠いけうちみどりは金切り声を上げて曉の手を振り払った。
「邪魔しないで!私は、もう、こんな退屈な世界は嫌なの!」

その瞬間、カーブの向こうから最終電車がヘッドライトを煌めかせながら姿を現した。けたたましい警笛が駅のホームに鳴り響く。運転士が二人の姿に気づいたのだ。

まずい、と思った紫雨は、考えるよりも先に体が動いていた。

ホームの淵に駆け寄り、手を伸ばす。曉の背中を支え、共に翠をホームへと引き上げようとしたその瞬間だった。

世界が真っ白な光に塗り潰された。

轟音ごうおんも、悲鳴も、何もかもが遠くなる。体がふわりと浮き上がるような奇妙な感覚。目を閉じているのに、瞼の裏が焼けるように明るい。何が起きているのか、全く理解ができなかった。ただ、咄嗟に伸ばした手は確かに曉の体温を捉えていた。
薄れゆく意識の中、紫雨の脳裏に今朝見た夢の光景が再びよぎった。

――逝かないでくれ。
――お願いだ、私を置いて……。

悲痛な声が耳の奥で木霊する。
それは、誰の声だっただろうか。そしてその声は、一体誰にむけられたものだったのだろうか――。


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