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第2話:仙界の理
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意識がゆっくりと浮上する。
焼けるように熱かった光は消え、代わりに柔らかな明るさが瞼を透かしていた。耳を劈くようだった警笛と悲鳴は嘘のように静まり、今はただ清浄な空気が満ちている。紫雨は恐る恐る目を開いた。
「……ここ、は……」
隣から曉の掠れた声が聞こえる。
目の前に広がっていたのは信じがたい光景だった。
床は磨き上げられた白玉のようで、自らの姿を淡く映している。天を支える巨大な柱には天に昇る龍の彫刻が精緻に施され、その鱗の一枚一枚までが生きているかのようだ。嗅いだことのない甘い香りがどこからか漂ってくる。ついさっきまでいたはずの、鉄とコンクリートでできた無機質な駅のホームとは何もかもが違っていた。
そして彼らの周りには、古代中国の絵画から抜け出してきたかのような長く優雅な衣をまとった人々が、息をのんでこちらを見つめていた。驚愕と畏怖、そして祈るような期待。様々な感情が入り混じった視線が三人に突き刺さる。その囁きの中には明らかな困惑の色も含まれていた。
「何故三人も……?」
「殿方がお二人もご一緒にとは……。前例がないぞ……」
その静寂を破ったのは、ひときわ豪華な衣をまとった壮年の男だった。彼もまた目の前の異例の事態に眉をひそめていたが、やがて意を決したように三人の前へと進み出た。そして唯一の女性である翠の前に跪くと、恭しく言った。
「……あなた様が、仙女様にございますか」
男の問いかけに、周囲のざわめきが少しだけ静まる。
「せ、仙女……?」
突然注目の的となった翠が、戸惑いの声を漏らす。その黒かったはずの瞳が今は柔らかな桃色に色づいていることに彼女自身はまだ気づいていない。
壮年の男は顔を上げた。
「本来、仙女様はお一人でこの地にご降臨されるはず。あなた様方のように殿方が共に現れるなど、我々の知る歴史には御座いませぬ。しかし、その輝く瞳…もしや、我らの祈りに応えてくださった救世主様にございますか」
男の言葉に周囲の人々も「おお……」と納得したような声を上げ、翠に希望の眼差しを向け始める。
「救世主……私が?」
「はい。この仙界は今、数百年に一度目覚めるとされる『鬼王』の脅威に晒されております。その災厄に対抗できる力を持つ『覺者(かくしゃ)』たちを支え、癒すことができる高位の『導心(どうしん)』を切実に求めておりました。仙異界より訪れる仙女様は、古来より決まって強力な導心の力をお持ちなのです」
男の説明はにわかには信じがたいものだった。仙界、鬼王、覺者、導心。知らない単語ばかりが飛び交う。しかし男の真摯な眼差しは、これが冗談や芝居ではないことを物語っていた。
曉が警戒を解かないまま一歩前に出た。その逞しい背中が自然と紫雨を庇う位置に立つ。
「待ってくれ。どういうことだ。俺たちはさっきまで駅にいたはずだ。どうやってここへ?それに、帰してもらえるんだろうな」
男は曉の問いに痛ましげに首を振った。
「恐れながら、それは叶いませぬ。この召喚の儀は、仙異界で命を落としかける魂を、その瀬戸際でこちらへ引き寄せるもの。もしあなた方が元の世界へ戻られた場合、魂は再びその死の寸前であった瞬間に引き戻されてしまうのです。そうなれば今度こそ……。あなた方には、心当たりが、おありでしょう?」
なぜ俺たちの状況を知っているんだ……?曉は絶句し、唇を噛む。男は具体的な何も見ていないはずなのに、その言葉は的確に三人の絶望的な状況を言い当てていた。帰れば死ぬ。紫雨もまた血の気が引いていくのを感じた。
だが一人、翠だけは違った。
彼女の顔からはいつの間にか戸惑いの色は消えていた。帰れない。その事実は彼女にとって絶望ではなかったらしい。平凡で退屈な日常から逃れたいと願っていた彼女にとって、この劇的な状況はむしろ望み通りだったのかもしれない。
仙女、救世主。人々が自分にひれ伏し崇めている。その事実に彼女の顔には傲慢なまでの喜色が浮かび始めていた。
「そう……。私が、仙女……」
翠はうっとりと呟き、自分の新たな運命に酔いしれているようだった。
取り残されたのは紫雨と曉だけだった。
紫雨はこの壮麗な建物も清浄な空気も、なぜかほんの少しだけ懐かしいような、それでいて胸が締め付けられるような奇妙な感覚を覚えていた。しかし、それ以上にわけのわからない状況に放り込まれた不安と恐怖が心を支配する。
曉の隣にそっと寄り添う。彼の存在だけがこの非現実的な世界で唯一の確かなもののように感じられた。
壮年の男は立ち上がると、改めて三人に深く頭を下げた。
「突然のことで困惑されていることと思います。詳しい話は場所を移して改めて。まずはあなた方がどれほどの御力をお持ちなのか、拝見させていただきたく存じます。さあ、こちらへ」
男に促され三人は壮麗な回廊へと足を踏み出す。ひれ伏していた人々が道を開け、その後ろを敬虔な眼差しでついてきた。
ただ一人、仙女として崇められる翠だけが胸を張って前を歩く。曉は油断なく周囲を警戒しながら紫雨の半歩前を。そして紫雨は自分の身に起きたことを何一つ理解できないまま、ただ曉の背中を追うことしかできなかった。
彼らが向かう先には『測魂儀』と呼ばれる、魂の階位を測るための神聖な儀式が待ち受けている。
その結果がこの仙界における彼らの価値を、そして運命を決定づけることになるのを、紫雨はまだ知らなかった。
焼けるように熱かった光は消え、代わりに柔らかな明るさが瞼を透かしていた。耳を劈くようだった警笛と悲鳴は嘘のように静まり、今はただ清浄な空気が満ちている。紫雨は恐る恐る目を開いた。
「……ここ、は……」
隣から曉の掠れた声が聞こえる。
目の前に広がっていたのは信じがたい光景だった。
床は磨き上げられた白玉のようで、自らの姿を淡く映している。天を支える巨大な柱には天に昇る龍の彫刻が精緻に施され、その鱗の一枚一枚までが生きているかのようだ。嗅いだことのない甘い香りがどこからか漂ってくる。ついさっきまでいたはずの、鉄とコンクリートでできた無機質な駅のホームとは何もかもが違っていた。
そして彼らの周りには、古代中国の絵画から抜け出してきたかのような長く優雅な衣をまとった人々が、息をのんでこちらを見つめていた。驚愕と畏怖、そして祈るような期待。様々な感情が入り混じった視線が三人に突き刺さる。その囁きの中には明らかな困惑の色も含まれていた。
「何故三人も……?」
「殿方がお二人もご一緒にとは……。前例がないぞ……」
その静寂を破ったのは、ひときわ豪華な衣をまとった壮年の男だった。彼もまた目の前の異例の事態に眉をひそめていたが、やがて意を決したように三人の前へと進み出た。そして唯一の女性である翠の前に跪くと、恭しく言った。
「……あなた様が、仙女様にございますか」
男の問いかけに、周囲のざわめきが少しだけ静まる。
「せ、仙女……?」
突然注目の的となった翠が、戸惑いの声を漏らす。その黒かったはずの瞳が今は柔らかな桃色に色づいていることに彼女自身はまだ気づいていない。
壮年の男は顔を上げた。
「本来、仙女様はお一人でこの地にご降臨されるはず。あなた様方のように殿方が共に現れるなど、我々の知る歴史には御座いませぬ。しかし、その輝く瞳…もしや、我らの祈りに応えてくださった救世主様にございますか」
男の言葉に周囲の人々も「おお……」と納得したような声を上げ、翠に希望の眼差しを向け始める。
「救世主……私が?」
「はい。この仙界は今、数百年に一度目覚めるとされる『鬼王』の脅威に晒されております。その災厄に対抗できる力を持つ『覺者(かくしゃ)』たちを支え、癒すことができる高位の『導心(どうしん)』を切実に求めておりました。仙異界より訪れる仙女様は、古来より決まって強力な導心の力をお持ちなのです」
男の説明はにわかには信じがたいものだった。仙界、鬼王、覺者、導心。知らない単語ばかりが飛び交う。しかし男の真摯な眼差しは、これが冗談や芝居ではないことを物語っていた。
曉が警戒を解かないまま一歩前に出た。その逞しい背中が自然と紫雨を庇う位置に立つ。
「待ってくれ。どういうことだ。俺たちはさっきまで駅にいたはずだ。どうやってここへ?それに、帰してもらえるんだろうな」
男は曉の問いに痛ましげに首を振った。
「恐れながら、それは叶いませぬ。この召喚の儀は、仙異界で命を落としかける魂を、その瀬戸際でこちらへ引き寄せるもの。もしあなた方が元の世界へ戻られた場合、魂は再びその死の寸前であった瞬間に引き戻されてしまうのです。そうなれば今度こそ……。あなた方には、心当たりが、おありでしょう?」
なぜ俺たちの状況を知っているんだ……?曉は絶句し、唇を噛む。男は具体的な何も見ていないはずなのに、その言葉は的確に三人の絶望的な状況を言い当てていた。帰れば死ぬ。紫雨もまた血の気が引いていくのを感じた。
だが一人、翠だけは違った。
彼女の顔からはいつの間にか戸惑いの色は消えていた。帰れない。その事実は彼女にとって絶望ではなかったらしい。平凡で退屈な日常から逃れたいと願っていた彼女にとって、この劇的な状況はむしろ望み通りだったのかもしれない。
仙女、救世主。人々が自分にひれ伏し崇めている。その事実に彼女の顔には傲慢なまでの喜色が浮かび始めていた。
「そう……。私が、仙女……」
翠はうっとりと呟き、自分の新たな運命に酔いしれているようだった。
取り残されたのは紫雨と曉だけだった。
紫雨はこの壮麗な建物も清浄な空気も、なぜかほんの少しだけ懐かしいような、それでいて胸が締め付けられるような奇妙な感覚を覚えていた。しかし、それ以上にわけのわからない状況に放り込まれた不安と恐怖が心を支配する。
曉の隣にそっと寄り添う。彼の存在だけがこの非現実的な世界で唯一の確かなもののように感じられた。
壮年の男は立ち上がると、改めて三人に深く頭を下げた。
「突然のことで困惑されていることと思います。詳しい話は場所を移して改めて。まずはあなた方がどれほどの御力をお持ちなのか、拝見させていただきたく存じます。さあ、こちらへ」
男に促され三人は壮麗な回廊へと足を踏み出す。ひれ伏していた人々が道を開け、その後ろを敬虔な眼差しでついてきた。
ただ一人、仙女として崇められる翠だけが胸を張って前を歩く。曉は油断なく周囲を警戒しながら紫雨の半歩前を。そして紫雨は自分の身に起きたことを何一つ理解できないまま、ただ曉の背中を追うことしかできなかった。
彼らが向かう先には『測魂儀』と呼ばれる、魂の階位を測るための神聖な儀式が待ち受けている。
その結果がこの仙界における彼らの価値を、そして運命を決定づけることになるのを、紫雨はまだ知らなかった。
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