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灰の中の灯
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ルネの指が再び引き金にかかる。ローゼリアの震えも、アーデンの鋭い視線も、もはや関係なかった。あとは、ほんの一瞬の決断。それだけで、この戦いに終止符が打たれるはずだった。
——だが、次の瞬間。
轟音が空間を引き裂いた。
拠点の一部が爆発する。熱と衝撃が壁を揺るがし、崩れた瓦礫が室内にまで転がり込む。爆風に巻き込まれ、空気がひび割れるように震えた。煙が一気に充満し、視界が灰色に染まる。
「……っ!」
ルネはとっさに息を止める。だが、アーデンはそうはいかなかった。粉塵が喉を焼き、彼は激しくむせる。反射的に剣を下げ、視界を確保しようとするその一瞬——それは、ルネにとって十分すぎる隙だった。
「行くぞ」
ルネは迷わずローゼリアの腕を掴む。彼女が抵抗する暇などない。混乱と衝撃の中で、彼は彼女を強引に引き寄せ、そのまま脱出口へと向かって駆け出した。
「……待って……!」
彼女の掠れた声が背後に滲む。しかし、ルネは振り向かない。
足音が響く。廊下の先、煙の向こうに広がる暗闇——そこが脱出路だった。
この拠点がかつて貴族の邸宅だった頃に造られた逃走経路。現在は塞がれていたが、ゼヴァが事前に仕込んでいた爆破によって、その封鎖は取り払われていた。崩れた瓦礫の隙間から、かろうじて人が通れるほどの穴が開いている。
「入れ」
ルネはローゼリアをその穴へと押し込む。彼女の足がもつれ、床に手をつく。それでも、躊躇う時間はなかった。
「……アーデンが——」
「早く行け」
短く言い放ち、ルネはローゼリアの背中を押す。そして自らもその闇の中へと身を投じた。
背後から響く怒声。アーデンのものか、それとも別の兵士たちのものか。
煙の向こうで、剣が振るわれる音がした。
だが、もう遅い。
ルネとローゼリアの姿は、すでに地下の闇へと消えていた。
冷たい空気が肌を刺す。湿った石壁がわずかな光を反射し、うっすらとした輪郭だけが見える。
ルネは前を行くローゼリアの腕を強く引いた。彼女が抵抗しようとする気配を感じるたび、さらに力を込める。無理やりでも、歩かせなければならない。ここで立ち止まるわけにはいかない。
背後の爆発音がまだ耳の奥に残っている。瓦礫が崩れ、煙が充満し、兵士たちの怒声が響いていた。アーデンは……追ってきているのか?
「ずいぶんと乱暴な連れ出し方だな」
その軽やかな声に、ルネは足を止めた。瓦礫の影から姿を現したのはゼヴァだった。煙と崩落の混乱を利用し、別の経路から地下道へと滑り込んだのだろう。彼の衣は煤けていたが、表情には何の乱れもない。
彼は手にしたナイフを軽く回しながら、ルネとローゼリアを見つめる。そして、軽く鼻で笑った。
「……これで苛立ちから解放されるといいな、ルネ」
その言葉に、ルネの表情が一瞬だけ険しくなる。だが、何も言い返さない。
ローゼリアは肩で息をしながら、二人の間に漂う冷えた空気を感じていた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、今、この場には静寂が満ちている。しかし、彼女の胸の内は嵐のように荒れていた。
「……アーデン……」
震える声が漏れた。その名を呼んでも、返事が返るはずもないのに。彼女の脳裏には、煙の向こうに残された男の姿がこびりついていた。咳き込みながら、それでも剣を握りしめていたあの姿が。
アーデンの元へ戻りたい——そう思っている自分がいる。 だが、同時に、それを許さない何かが胸を締め付ける。
ルネの指が、ローゼリアの細い腕をさらに強く掴んだ。
「……違う…私は……」
ローゼリアの声は掠れていた。何が違うのか、何を否定したいのか、言葉が形を成す前に、彼の手がそれを許さなかった。
「違わない」
ルネの低い声が響く。
「お前は俺と来る。それ以外の選択肢はない」
ローゼリアの体が強く引かれる。足元がふらつき、彼の胸へと引き寄せられる形になった。拒絶しようとした。けれど、思考がうまく働かない。
「相手は深窓の令嬢だ。もう少し優しく扱えよ」
ゼヴァが呆れたように口を挟む。
ルネはゼヴァを睨んだが、何も言わない。 その代わり、ローゼリアの腕を離すこともなかった。
「さあ、帰ろう」
ゼヴァが彼女を一瞥し、静かに言った。
「君の居場所はあちらじゃない」
まるで彼女が何の疑問も抱かずにルネについていくことが当然であるかのように言う。
「……私の居場所……」
彼女は思わず呟いた。 それはどこにあるのか。アーデンの傍ではなかったのか? でも、ルネの手が触れた瞬間、彼の感情が流れ込んできたとき——彼女の心は迷いを生んでいた。
ローゼリアは抵抗することもできず、ただ歩かされる。 行く先がどこなのかもわからないまま。
三人が身を潜めたのは、拠点からそう遠くない森の奥、かつての狩猟小屋だった。石造りの外壁は苔むし、木製の扉は長年の風雨に晒されて軋んでいる。だが、幸いにも屋根はまだ健在で、雨風を凌ぐには十分な空間だった。
室内は暗く、暖炉の灰だけがその昔ここに人が住んでいたことを物語っている。長年使われていないせいか、空気はひんやりと冷たい。それでも、戦場から逃れてきたばかりの彼らにとっては、一時の安息地となるはずだった。
ルネは窓の外を警戒しながら、剥がれかけた木の壁にもたれる。ゼヴァは反対側の椅子に腰掛け、どこか呑気にナイフを弄んでいた。
ローゼリアは黙ったまま床に座り込んでいた。体は疲れ果てているはずなのに、目を閉じれば脳裏に焼き付いた光景がよみがえる。アーデンの姿、剣を握る手、煙の中での叫び声。
彼女は身震いし、そっと腕を抱いた。
それでも、心の奥で疼くのは、その記憶ではなかった。
ルネの存在が近くにあるせいで、刻印の疼きはひどく強くなっていた。胸の奥から波のように広がる感覚。彼の感情が、彼女の中へと流れ込んでくる。
ふと、ローゼリアは顔を上げた。
「……なぜ、わざわざ私を連れ戻しに来たの……?」
その問いは、静かな室内にゆっくりと落ちた。
ルネは少しの間、何も言わなかった。
彼は窓の外を見つめ、薄闇の中に何かを探すように視線をさまよわせる。何かを言おうとする。だが、その言葉はすぐには出てこなかった。
「……お前を傍に置いておいた方が使えると判断した」
ようやく発された言葉は、彼らしい冷たい響きを持っていた。
だが——その奥にある迷いが、ローゼリアには伝わってしまった。
「本当に……?」
彼の声の揺らぎが、彼女の心に直接響く。刻印のせいか、それとも彼らの関係そのものがそうさせるのか。
「……本当に、それだけのために私を連れ戻したの?」
ローゼリアの視線がルネを射抜く。
ルネは応えなかった。いや、答えられなかった。
ゼヴァはそんな二人の様子を静かに見ていた。いつもの観察するような態度を崩さぬまま、ナイフを指先で回しながら、ふと呟く。
「……ルネ、お前は自分の気持ちを正直に話したことがあるか?」
ルネはゼヴァを睨んだが、反論しない。
沈黙が降りた。
ローゼリアはただルネを見つめる。刻印が脈打つたびに、彼の迷いと混乱が流れ込んできていた。
アーデンの姿が、目を閉じればはっきりと浮かんでくる。
剣を握りしめ最後まで彼女を守ろうとした、あの姿。
彼はきっと、まだ自分を探している。あの炎と煙の向こうに取り残された彼のことを、考えない日はないだろう。
アーデンのことを思い出すたびに、胸が締め付けられる。
あの優しさも、あの静かな眼差しも、何もかも失われてしまったような気がした。
ふと、目の前の男へと視線を向けた。
彼は窓の外を見つめている。その横顔には冷徹な静寂が張り付いていたが、彼の内側にあるものが、刻印を通して伝わってくる。
彼は迷っている。
ルネという男にしては珍しく、何かを決定しきれずにいる。
彼はなぜ、自分を連れ戻したのか?
その問いに、彼は明確な答えを出せていない。
傍に置いておいた方が使える?
そんな言葉で誤魔化しているが、それが本心ではないことは彼女にも分かる。
そして、それが恐ろしかった。
ローゼリアは、自分の内に芽生えつつある感情に気づいてしまった。
アーデンのことを忘れたわけではない。
それでも——ルネの存在が、自分の中で大きくなってきている。
それが、刻印のせいなのか、あるいはもっと別の何かなのか。
彼女には分からなかった。
ただ、確かなことが一つある。
この場にいるのは自分が望んだ結果ではないはずなのに、ルネの傍にいることでどこか安堵してしまっている。
それが、自分でも許せなかった。
ローゼリアの瞳から涙が零れる。
静寂の中、彼女の涙が頬を伝い、指先へと落ちていく。
何の涙なのか、分からなかった。
アーデンと別れてしまった悲しみ?
それとも、こうしてルネと一緒にいることへの安堵?
自分が何を求めているのか、分からない。
ただ一つだけ確かなのは、今、心の中にあるのはアーデンへの想いだけではなかったということ——。
刻印が脈打つ。
ルネの感情が流れ込んでくる。
それは焦燥と怒りと、そして——彼自身も気づいていない、ある種の執着。
ローゼリアは震える唇を噛み締めた。
ルネの感情が、自分の中で根付いてしまっている。
それがどうしようもなく恐ろしかった。
夜の静寂が、小さな隠れ家を包み込んでいた。外では風が木々を揺らし、遠くで夜鳥の声が響く。ローゼリアは粗末な鏡の前に立ち、じっと自分の顔を見つめていた。
そこに映るのは、確かに自分のはずだった。だが——何かが違う。
瞳の奥に宿る光が、わずかに冷たく、重く感じられる。まるで、その視線が自分自身のものではないかのように。
次の瞬間、胸の奥で刻印が疼いた。
鈍い痛みが波紋のように広がり、意識の奥底に何かが流れ込んでくる。
焦げた木々の匂い。崩れ落ちる建物。血に染まる石畳。
誰かの絶叫が、耳の奥で微かに響く。
ローゼリアの指が、無意識のうちに鏡の縁を掴む。冷たい金属の感触が、現実との境界をわずかに保つ。だが、流れ込んでくる感情は止まらない。
——殺せ。
脳裏に、ルネの声が響いた。
誰を? 何のために?
答えはない。ただ、感情の奔流が彼女の内側を侵していく。
鏡に映る自分が、ルネの視線と重なった。
彼の目には、自分はどう映っているのか?利用すべき存在か、それとも、ただの枷か。
刻印の疼きは止まらない。ルネの憎しみが、自分の心に根を下ろし始めている。
気づけば、鏡の中の自分の顔がわずかに歪んで見えた。
薄闇に沈む一室には、重く静かな緊張が漂っていた。
木製の机の上に広げられた地図には、無数の赤い印が刻まれている。その一つひとつが冥紋院と繋がる施設であり、標的だった。
「ここだ」
ゼヴァが地図の一点を指し示す。蝋燭の灯りが彼の横顔を照らすと影が揺らめき、その言葉に不吉な予感を添えるようだった。
「冥紋院の研究データが保管されている施設だ。重要度は高い。不正な資金が流れ込み強固な守りを敷いているが、正面を叩けば混乱は避けられない」
それを聞いたルネは、何も言わずに頷くと、机の上の武器を手に取った。
刃を抜き、指先でその鋭さを確かめる。拳銃の弾倉を確認し、無駄なく装填する。その仕草には迷いがなかった。
ローゼリアはそんな二人を不満げに見つめていた。
彼らの会話の中に、自分の存在はない。ただ標的があり、作戦があり、殺意がある。彼女が何を思い、何を望もうと、そこには入り込む余地がないのだ。
計画は着々と組み上げられていく。
どこから侵入し、どの経路を使い、どれほどの犠牲を許容し、どの瞬間に引くべきか——。
ローゼリアは耐えきれずに口を開いた。
「復讐なんて、虚しいだけよ」
ローゼリアの言葉が静かな空気に落ちた。しかし、ルネは手を止めなかった。
ナイフの刃を磨きながら、淡々と拳銃の弾倉を確かめながら、まるで彼女の言葉など最初から耳に入っていないかのように、ただ作業を続ける。
沈黙が落ちる。
それは、無視とも受け取れるほどの無関心だった。
「……聞こえなかったの?」
ローゼリアは思わず問い詰める。
すると、ルネはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、深く冷たい夜の色を宿しているだけだった。
「……虚しいかどうかなんて、関係ない」
「関係ない……?」
「復讐が虚しいことくらい、俺だって分かってる」
ルネは淡々とした口調で告げる。
「だが、それが何だ?止める理由にはならない」
ローゼリアは思わず黙り込む。
彼は復讐の無意味さを理解していないわけではない。
むしろ、それを知った上で、それでもなお足を止める気など微塵もないのだ。
ゼヴァが地図を指で弾きながら口を開いた。
「お前がどう思おうと、こっちはやることをやる。やりたくないなら、せいぜい邪魔しないことだな」
二人の男は何事もなかったかのように作戦の細部を詰め始めた。地図上を指でなぞり、侵入経路を確認するルネ。ゼヴァは軽く頷きながら、それを聞き流すように短い相槌を打つ。
ローゼリアの胸中に苛立ちが募る。彼らの世界に、自分の声はまるで響かない。復讐と戦い、それだけがこの場の全てであるかのようだった。
ローゼリアの手が無意識に動いた。
硬質な音が部屋に響く。小さな手のひらがテーブルを叩いた衝撃が、沈黙を切り裂く。
「次は私も行くわ」
静寂が張り詰める。
ルネは即座に顔を上げ、ローゼリアを見据えた。
「お前に何ができる?」
その瞳には氷のような冷たさが宿り、まるで彼女の言葉が取るに足らぬものだと言わんばかりだった。
「足手まといになるだけだ。ここで大人しくしていろ」
ローゼリアは反射的に拳を握る。
「ここで大人しくって……まるで、私はただの囚人じゃない!」
苛立ちが混じった声が、薄暗い部屋に響いた。
「逃げられないように縛られて、ただ待つだけ? そんなの冗談じゃないわ!」
ルネはため息をつくように視線を逸らし、再び地図に目を落とした。
「戦場は遊びじゃない。お前を連れていけば、こっちが余計な手間をかけることになる」
「そうやって私をただの足手まといとして扱うのね」
「事実だ」
ルネは淡々と返す。
その様子をゼヴァが楽しげに眺めていた。
「……まぁ、感情の共有ってやつは便利でもあり、厄介でもあるな」
その言葉に、ルネがわずかに眉をひそめる。
「ルネ、お前がどれだけ突き放したつもりでも刻印が繋がっている限り、こいつの動揺もお前に伝わる。感情が乱れれば、それこそ計画に支障が出るんじゃないか?」
ルネは言葉を返さなかった。
「それなら、俺が彼女を守る。お前が余計なことを気にしないように…それならどうだ?」
ルネは短く息を吐いた。
「……勝手にしろ」
投げやりに言い捨て、ルネは再び地図へと視線を戻した。もうローゼリアに構う気はない、という無言の意思表示だった。
ローゼリアはその言葉を聞いた瞬間、わずかに口角を上げた。
それは自分でも気づかぬうちに零れ落ちた、安堵の表情だった。
——だが、次の瞬間。
轟音が空間を引き裂いた。
拠点の一部が爆発する。熱と衝撃が壁を揺るがし、崩れた瓦礫が室内にまで転がり込む。爆風に巻き込まれ、空気がひび割れるように震えた。煙が一気に充満し、視界が灰色に染まる。
「……っ!」
ルネはとっさに息を止める。だが、アーデンはそうはいかなかった。粉塵が喉を焼き、彼は激しくむせる。反射的に剣を下げ、視界を確保しようとするその一瞬——それは、ルネにとって十分すぎる隙だった。
「行くぞ」
ルネは迷わずローゼリアの腕を掴む。彼女が抵抗する暇などない。混乱と衝撃の中で、彼は彼女を強引に引き寄せ、そのまま脱出口へと向かって駆け出した。
「……待って……!」
彼女の掠れた声が背後に滲む。しかし、ルネは振り向かない。
足音が響く。廊下の先、煙の向こうに広がる暗闇——そこが脱出路だった。
この拠点がかつて貴族の邸宅だった頃に造られた逃走経路。現在は塞がれていたが、ゼヴァが事前に仕込んでいた爆破によって、その封鎖は取り払われていた。崩れた瓦礫の隙間から、かろうじて人が通れるほどの穴が開いている。
「入れ」
ルネはローゼリアをその穴へと押し込む。彼女の足がもつれ、床に手をつく。それでも、躊躇う時間はなかった。
「……アーデンが——」
「早く行け」
短く言い放ち、ルネはローゼリアの背中を押す。そして自らもその闇の中へと身を投じた。
背後から響く怒声。アーデンのものか、それとも別の兵士たちのものか。
煙の向こうで、剣が振るわれる音がした。
だが、もう遅い。
ルネとローゼリアの姿は、すでに地下の闇へと消えていた。
冷たい空気が肌を刺す。湿った石壁がわずかな光を反射し、うっすらとした輪郭だけが見える。
ルネは前を行くローゼリアの腕を強く引いた。彼女が抵抗しようとする気配を感じるたび、さらに力を込める。無理やりでも、歩かせなければならない。ここで立ち止まるわけにはいかない。
背後の爆発音がまだ耳の奥に残っている。瓦礫が崩れ、煙が充満し、兵士たちの怒声が響いていた。アーデンは……追ってきているのか?
「ずいぶんと乱暴な連れ出し方だな」
その軽やかな声に、ルネは足を止めた。瓦礫の影から姿を現したのはゼヴァだった。煙と崩落の混乱を利用し、別の経路から地下道へと滑り込んだのだろう。彼の衣は煤けていたが、表情には何の乱れもない。
彼は手にしたナイフを軽く回しながら、ルネとローゼリアを見つめる。そして、軽く鼻で笑った。
「……これで苛立ちから解放されるといいな、ルネ」
その言葉に、ルネの表情が一瞬だけ険しくなる。だが、何も言い返さない。
ローゼリアは肩で息をしながら、二人の間に漂う冷えた空気を感じていた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、今、この場には静寂が満ちている。しかし、彼女の胸の内は嵐のように荒れていた。
「……アーデン……」
震える声が漏れた。その名を呼んでも、返事が返るはずもないのに。彼女の脳裏には、煙の向こうに残された男の姿がこびりついていた。咳き込みながら、それでも剣を握りしめていたあの姿が。
アーデンの元へ戻りたい——そう思っている自分がいる。 だが、同時に、それを許さない何かが胸を締め付ける。
ルネの指が、ローゼリアの細い腕をさらに強く掴んだ。
「……違う…私は……」
ローゼリアの声は掠れていた。何が違うのか、何を否定したいのか、言葉が形を成す前に、彼の手がそれを許さなかった。
「違わない」
ルネの低い声が響く。
「お前は俺と来る。それ以外の選択肢はない」
ローゼリアの体が強く引かれる。足元がふらつき、彼の胸へと引き寄せられる形になった。拒絶しようとした。けれど、思考がうまく働かない。
「相手は深窓の令嬢だ。もう少し優しく扱えよ」
ゼヴァが呆れたように口を挟む。
ルネはゼヴァを睨んだが、何も言わない。 その代わり、ローゼリアの腕を離すこともなかった。
「さあ、帰ろう」
ゼヴァが彼女を一瞥し、静かに言った。
「君の居場所はあちらじゃない」
まるで彼女が何の疑問も抱かずにルネについていくことが当然であるかのように言う。
「……私の居場所……」
彼女は思わず呟いた。 それはどこにあるのか。アーデンの傍ではなかったのか? でも、ルネの手が触れた瞬間、彼の感情が流れ込んできたとき——彼女の心は迷いを生んでいた。
ローゼリアは抵抗することもできず、ただ歩かされる。 行く先がどこなのかもわからないまま。
三人が身を潜めたのは、拠点からそう遠くない森の奥、かつての狩猟小屋だった。石造りの外壁は苔むし、木製の扉は長年の風雨に晒されて軋んでいる。だが、幸いにも屋根はまだ健在で、雨風を凌ぐには十分な空間だった。
室内は暗く、暖炉の灰だけがその昔ここに人が住んでいたことを物語っている。長年使われていないせいか、空気はひんやりと冷たい。それでも、戦場から逃れてきたばかりの彼らにとっては、一時の安息地となるはずだった。
ルネは窓の外を警戒しながら、剥がれかけた木の壁にもたれる。ゼヴァは反対側の椅子に腰掛け、どこか呑気にナイフを弄んでいた。
ローゼリアは黙ったまま床に座り込んでいた。体は疲れ果てているはずなのに、目を閉じれば脳裏に焼き付いた光景がよみがえる。アーデンの姿、剣を握る手、煙の中での叫び声。
彼女は身震いし、そっと腕を抱いた。
それでも、心の奥で疼くのは、その記憶ではなかった。
ルネの存在が近くにあるせいで、刻印の疼きはひどく強くなっていた。胸の奥から波のように広がる感覚。彼の感情が、彼女の中へと流れ込んでくる。
ふと、ローゼリアは顔を上げた。
「……なぜ、わざわざ私を連れ戻しに来たの……?」
その問いは、静かな室内にゆっくりと落ちた。
ルネは少しの間、何も言わなかった。
彼は窓の外を見つめ、薄闇の中に何かを探すように視線をさまよわせる。何かを言おうとする。だが、その言葉はすぐには出てこなかった。
「……お前を傍に置いておいた方が使えると判断した」
ようやく発された言葉は、彼らしい冷たい響きを持っていた。
だが——その奥にある迷いが、ローゼリアには伝わってしまった。
「本当に……?」
彼の声の揺らぎが、彼女の心に直接響く。刻印のせいか、それとも彼らの関係そのものがそうさせるのか。
「……本当に、それだけのために私を連れ戻したの?」
ローゼリアの視線がルネを射抜く。
ルネは応えなかった。いや、答えられなかった。
ゼヴァはそんな二人の様子を静かに見ていた。いつもの観察するような態度を崩さぬまま、ナイフを指先で回しながら、ふと呟く。
「……ルネ、お前は自分の気持ちを正直に話したことがあるか?」
ルネはゼヴァを睨んだが、反論しない。
沈黙が降りた。
ローゼリアはただルネを見つめる。刻印が脈打つたびに、彼の迷いと混乱が流れ込んできていた。
アーデンの姿が、目を閉じればはっきりと浮かんでくる。
剣を握りしめ最後まで彼女を守ろうとした、あの姿。
彼はきっと、まだ自分を探している。あの炎と煙の向こうに取り残された彼のことを、考えない日はないだろう。
アーデンのことを思い出すたびに、胸が締め付けられる。
あの優しさも、あの静かな眼差しも、何もかも失われてしまったような気がした。
ふと、目の前の男へと視線を向けた。
彼は窓の外を見つめている。その横顔には冷徹な静寂が張り付いていたが、彼の内側にあるものが、刻印を通して伝わってくる。
彼は迷っている。
ルネという男にしては珍しく、何かを決定しきれずにいる。
彼はなぜ、自分を連れ戻したのか?
その問いに、彼は明確な答えを出せていない。
傍に置いておいた方が使える?
そんな言葉で誤魔化しているが、それが本心ではないことは彼女にも分かる。
そして、それが恐ろしかった。
ローゼリアは、自分の内に芽生えつつある感情に気づいてしまった。
アーデンのことを忘れたわけではない。
それでも——ルネの存在が、自分の中で大きくなってきている。
それが、刻印のせいなのか、あるいはもっと別の何かなのか。
彼女には分からなかった。
ただ、確かなことが一つある。
この場にいるのは自分が望んだ結果ではないはずなのに、ルネの傍にいることでどこか安堵してしまっている。
それが、自分でも許せなかった。
ローゼリアの瞳から涙が零れる。
静寂の中、彼女の涙が頬を伝い、指先へと落ちていく。
何の涙なのか、分からなかった。
アーデンと別れてしまった悲しみ?
それとも、こうしてルネと一緒にいることへの安堵?
自分が何を求めているのか、分からない。
ただ一つだけ確かなのは、今、心の中にあるのはアーデンへの想いだけではなかったということ——。
刻印が脈打つ。
ルネの感情が流れ込んでくる。
それは焦燥と怒りと、そして——彼自身も気づいていない、ある種の執着。
ローゼリアは震える唇を噛み締めた。
ルネの感情が、自分の中で根付いてしまっている。
それがどうしようもなく恐ろしかった。
夜の静寂が、小さな隠れ家を包み込んでいた。外では風が木々を揺らし、遠くで夜鳥の声が響く。ローゼリアは粗末な鏡の前に立ち、じっと自分の顔を見つめていた。
そこに映るのは、確かに自分のはずだった。だが——何かが違う。
瞳の奥に宿る光が、わずかに冷たく、重く感じられる。まるで、その視線が自分自身のものではないかのように。
次の瞬間、胸の奥で刻印が疼いた。
鈍い痛みが波紋のように広がり、意識の奥底に何かが流れ込んでくる。
焦げた木々の匂い。崩れ落ちる建物。血に染まる石畳。
誰かの絶叫が、耳の奥で微かに響く。
ローゼリアの指が、無意識のうちに鏡の縁を掴む。冷たい金属の感触が、現実との境界をわずかに保つ。だが、流れ込んでくる感情は止まらない。
——殺せ。
脳裏に、ルネの声が響いた。
誰を? 何のために?
答えはない。ただ、感情の奔流が彼女の内側を侵していく。
鏡に映る自分が、ルネの視線と重なった。
彼の目には、自分はどう映っているのか?利用すべき存在か、それとも、ただの枷か。
刻印の疼きは止まらない。ルネの憎しみが、自分の心に根を下ろし始めている。
気づけば、鏡の中の自分の顔がわずかに歪んで見えた。
薄闇に沈む一室には、重く静かな緊張が漂っていた。
木製の机の上に広げられた地図には、無数の赤い印が刻まれている。その一つひとつが冥紋院と繋がる施設であり、標的だった。
「ここだ」
ゼヴァが地図の一点を指し示す。蝋燭の灯りが彼の横顔を照らすと影が揺らめき、その言葉に不吉な予感を添えるようだった。
「冥紋院の研究データが保管されている施設だ。重要度は高い。不正な資金が流れ込み強固な守りを敷いているが、正面を叩けば混乱は避けられない」
それを聞いたルネは、何も言わずに頷くと、机の上の武器を手に取った。
刃を抜き、指先でその鋭さを確かめる。拳銃の弾倉を確認し、無駄なく装填する。その仕草には迷いがなかった。
ローゼリアはそんな二人を不満げに見つめていた。
彼らの会話の中に、自分の存在はない。ただ標的があり、作戦があり、殺意がある。彼女が何を思い、何を望もうと、そこには入り込む余地がないのだ。
計画は着々と組み上げられていく。
どこから侵入し、どの経路を使い、どれほどの犠牲を許容し、どの瞬間に引くべきか——。
ローゼリアは耐えきれずに口を開いた。
「復讐なんて、虚しいだけよ」
ローゼリアの言葉が静かな空気に落ちた。しかし、ルネは手を止めなかった。
ナイフの刃を磨きながら、淡々と拳銃の弾倉を確かめながら、まるで彼女の言葉など最初から耳に入っていないかのように、ただ作業を続ける。
沈黙が落ちる。
それは、無視とも受け取れるほどの無関心だった。
「……聞こえなかったの?」
ローゼリアは思わず問い詰める。
すると、ルネはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、深く冷たい夜の色を宿しているだけだった。
「……虚しいかどうかなんて、関係ない」
「関係ない……?」
「復讐が虚しいことくらい、俺だって分かってる」
ルネは淡々とした口調で告げる。
「だが、それが何だ?止める理由にはならない」
ローゼリアは思わず黙り込む。
彼は復讐の無意味さを理解していないわけではない。
むしろ、それを知った上で、それでもなお足を止める気など微塵もないのだ。
ゼヴァが地図を指で弾きながら口を開いた。
「お前がどう思おうと、こっちはやることをやる。やりたくないなら、せいぜい邪魔しないことだな」
二人の男は何事もなかったかのように作戦の細部を詰め始めた。地図上を指でなぞり、侵入経路を確認するルネ。ゼヴァは軽く頷きながら、それを聞き流すように短い相槌を打つ。
ローゼリアの胸中に苛立ちが募る。彼らの世界に、自分の声はまるで響かない。復讐と戦い、それだけがこの場の全てであるかのようだった。
ローゼリアの手が無意識に動いた。
硬質な音が部屋に響く。小さな手のひらがテーブルを叩いた衝撃が、沈黙を切り裂く。
「次は私も行くわ」
静寂が張り詰める。
ルネは即座に顔を上げ、ローゼリアを見据えた。
「お前に何ができる?」
その瞳には氷のような冷たさが宿り、まるで彼女の言葉が取るに足らぬものだと言わんばかりだった。
「足手まといになるだけだ。ここで大人しくしていろ」
ローゼリアは反射的に拳を握る。
「ここで大人しくって……まるで、私はただの囚人じゃない!」
苛立ちが混じった声が、薄暗い部屋に響いた。
「逃げられないように縛られて、ただ待つだけ? そんなの冗談じゃないわ!」
ルネはため息をつくように視線を逸らし、再び地図に目を落とした。
「戦場は遊びじゃない。お前を連れていけば、こっちが余計な手間をかけることになる」
「そうやって私をただの足手まといとして扱うのね」
「事実だ」
ルネは淡々と返す。
その様子をゼヴァが楽しげに眺めていた。
「……まぁ、感情の共有ってやつは便利でもあり、厄介でもあるな」
その言葉に、ルネがわずかに眉をひそめる。
「ルネ、お前がどれだけ突き放したつもりでも刻印が繋がっている限り、こいつの動揺もお前に伝わる。感情が乱れれば、それこそ計画に支障が出るんじゃないか?」
ルネは言葉を返さなかった。
「それなら、俺が彼女を守る。お前が余計なことを気にしないように…それならどうだ?」
ルネは短く息を吐いた。
「……勝手にしろ」
投げやりに言い捨て、ルネは再び地図へと視線を戻した。もうローゼリアに構う気はない、という無言の意思表示だった。
ローゼリアはその言葉を聞いた瞬間、わずかに口角を上げた。
それは自分でも気づかぬうちに零れ落ちた、安堵の表情だった。
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