30 / 41
囁かれる悪意
しおりを挟む
舞踏会が終盤に差し掛かり、華やかな音楽と笑い声が会場を包む中、クラリスの胸の内には抑えきれない焦燥感が渦巻いていた。
セシルとディランが仲睦まじく踊るその光景――それは、クラリスにとって到底容認できない、苛立ちと嫉妬の火種となっていた。
「どうしてあんな庶民が王子と踊っているのかしら……」
クラリスは扇を握る手に力を込め、取り巻きたちに小声で命じた。
「いいこと?あの子を転ばせて、みんなの笑い者にして差し上げなさい」
取り巻きたちは一瞬戸惑ったものの、クラリスの冷たい視線に押されて渋々頷く。
取り巻きたちはどこか不安そうな表情だ。無理もない。舞踏会という公の場でそんなことをすれば、自分たちの立場にも影響が出る可能性があるのだから。
しかし、クラリスはそんな不安を意にも介さず、扇をひと振りして静かに合図を送った。
合図を受けた取り巻きの一人が、ぎこちない足取りで舞踏会場の中央へと進み出る。そして、わざと足をもつれさせるようにして、セシルの方へと倒れ込んだ。
「きゃっ!」
セシルが一瞬よろめいた。しかし、次の瞬間、ディランが素早く手を伸ばし、彼女の腰を支えた。
「大丈夫か?」
ディランの冷静な声が響く。
セシルは驚きながらも「は、はい……ありがとうございます」と頬を赤らめた。
周囲からはほっとしたようなため息が漏れる。クラリスはその光景を見て歯を噛み締め、すぐに次の手を打とうとする。
(そろそろクラリスの嫌がらせイベントが本格的に始まるはずだ)
エリスは心の中で静かに呟いた。
ゲームではまさにこのタイミングでクラリスが動き出し、舞踏会の真ん中でセシルとディランに派手な恥をかかせる展開が待っていた。そして、この嫌がらせを華麗に乗り越えることで、二人の親密度が大きく上昇するという重要なイベントだったのだ。
もちろん、この場面を回避するという選択肢も存在した。しかし、それでは親密度の上昇は不十分。むしろ、この困難をどう乗り越えるかが二人の絆を深める最大の鍵となる。
「どうしたの?そんなにキョロキョロして。俺と踊るの、そんなに落ち着かない?」
ルークは軽口を叩きながらも、エリスの緊張を感じ取っているようだった。
「セシルが上手く踊れているか、どうしても気になってしまって…ルーク様と踊れることは大変嬉しく思っています」
エリスはそう言いつつも、やはり目線はどうしても二人を追ってしまう。
舞踏会場の天井には、豪奢な魔導式のシャンデリアがいくつも吊り下げられていた。この学園の舞踏会場に設置された照明は、最新の魔工学によって制御されており、特定のエリアを集中的に照らしたり暗くしたりすることができる。
そのため、照明の明暗を微妙に操作することで、舞台演出のような効果を生み出すことが可能だった。
クラリスは事前に、取り巻きを通じて会場の裏手にある照明制御盤に細工を施していた。
この制御盤は、魔力を込められた特殊なクリスタルによって接続されており、特定のエリアを局所的に暗転させることができる仕組みだった。
普段は厳重に管理されている場所だが、取り巻きたちの貴族特権を巧みに使い、クラリスはその警戒を掻い潜っていたのだ。
「……そろそろよ。準備なさい」
クラリスの指示で、取り巻きの一人が魔導通信石を手に取り、合図を送る。わずかに遅れて、会場の一角に配置されたクリスタルが暗く沈んだ。それと同時に、ディランとセシルが踊っているあたりの照明が不自然にふっと消えた。
会場の照明は全体としては煌びやかな光を放っていたが、その一角だけが闇に包まれる異様な光景に、貴族たちが小声でざわめく。
「えっ……何?」
突然の暗転に驚いたセシルは、一瞬バランスを崩しかけたが、すぐにディランが手を引いて支えた。
「落ち着け、何か仕掛けられた可能性がある」
ディランは冷静に周囲を見回しつつも、足元に注意を向けていた。だが、暗闇では微細な動きも見えづらい。
だが、エリスにはわかっていた。この暗闇こそ、クラリスが仕掛けた嫌がらせの第一段階だということを。
(二人とも気を付けて……!)
エリスが心の中で祈った次の瞬間、クラリスの取り巻きの一人が暗闇に紛れてセシルに近づき、強引にセシルを突き飛ばした。
「きゃっ――!」
セシルの悲鳴が響き渡り、バランスを崩した彼女は勢いよく床に倒れ込む。
続いて「プシューッ!」という不穏な音とともに、ワインが勢いよくサーバーのノズルから噴き出した。赤紫色の液体は高圧で空中を描き、真っ直ぐにセシルの方へ向かって飛び散る。
「きゃっ!」
セシルは驚き、思わず後ろへ身を引いたが、避け切れるはずもなくワインは深紅のドレスに容赦なく降りかかった。
そして倒れ込んだセシルの顔や全身に、まるで嘲笑うかのように冷たい液体が容赦なく降り注ぐ。
「………っ!」
セシルが驚きの声を上げる間もなく、赤紫色の液体が次々に顔から髪、そしてドレスへと染み込んでいく。何が起こったのか分からず、呆然とした表情でその場に座り込んだまま動けずにいる。
二人が踊っていたフロアは、一瞬にして静寂に包まれた。
セシルは倒れ込んだまま、顔を上げようとするも、全身にまとわりつく冷たい液体の感触に動けずにいた。髪からドレスの裾にかけて、濃厚な赤紫色のワインが容赦なく染み込み、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
ディランは瞬時に異変を察知し、素早くセシルのそばにかがみ込んだ。「大丈夫か?」と問いかけながら、ハンカチを取り出してセシルの顔に付いたワインを拭おうとする。
その時――
照明がパッと元に戻り、さっきまでの暗闇が嘘のように舞踏会場は再び煌びやかに照らされた。
観客たちは一瞬遅れて状況を理解し、ざわざわとしたざわめきが広がる。「何が起きたの?」「え、どうしたの?」と困惑する声が飛び交う。
一方、クラリスは少し離れた位置で扇を広げ、上品な微笑みを浮かべながら取り巻きと視線を交わしていた。
「まぁ、照明に続いてワインサーバーの不具合かしら?こういう設備の不具合って怖いですわね、うふふ……」
倒れ込んだセシルはようやく立ち上がろうとするも、濡れたドレスが重くなり、なかなか動けない。
「……ディラン様、ごめんなさい……せっかく踊ってくださったのに、私……」
ディランはそんなセシルをじっと見つめ、「気にするな。立てるか?」と静かに声をかけた。その声は冷静だったが、その瞳の奥には怒りの色が垣間見える。
ルークもエリスのそばに立ち、いつもの軽い調子を抑えた声で言った。
「これはただのハプニングって感じじゃないな。エリス、心当たりがあるんじゃないか?」
(心当たりしかないよ……でも、実際に目の前で見ると、想像以上に派手でタチが悪い!)
「まぁ……その……」
エリスは視線を泳がせながら適当に誤魔化そうとしたが、ルークの鋭い視線に気付き、観念して小声で呟いた。「クラリス様……の、可能性が高いと思います」
「やっぱりか」とルークは呆れたようにため息をつきつつ、「さすがにこれは度が過ぎてるな」と真剣な表情を見せた。
一方、ディランはセシルを支えながら、周囲を静かに見渡していた。その鋭い眼光は、ただならぬ気配を放ち、周りの観客たちがざわつく。
「怒っていますわ……」
「あれは見過ごせないよね……」とひそひそ声が聞こえる中、クラリスは涼しい顔を崩さずに扇をゆらゆらと揺らしていた。
「まぁまぁ、大丈夫かしら?」
クラリスはあくまで心配するような素振りでセシルに声をかけた。
「本当にお気の毒ですわね。せっかく素敵なドレスをお召しになっていたのに、こんなことになってしまうなんて。あら、それに……どうやらお肌にもワインがついてしまったようですわね。大丈夫かしら?後でシミにならなければ良いのですけれど」
その声は一見優しげでありながらも、含み笑いと明らかな嘲りを含んでいた。
セシルはディランに支えられたまま、困惑した表情で「だ、大丈夫です……」と答えたものの、声はどこか震えていた。
周囲を見渡すと、最早誰も踊っておらず、会場にいたほぼ全員が二人に注目している。静まり返った空間に、緊張感が張り詰めていた。
会場中が静まり返ったまま、誰も動けずにいる中、ディランはセシルを支えつつ、冷静な表情で前に一歩踏み出した。
「心配をかけてしまったことをお詫びする。ただ、少々ハプニングがあっただけだ」
その低く落ち着いた声は、驚くほど静かなのに会場の隅々まで澄み渡るように響き渡った。
「皆が楽しむための舞踏会だ。このようなことで雰囲気を乱してしまったのなら、私も責任を感じる」
ディランは淡く微笑みを浮かべ、場を和ませるように言葉を続けた。
「さあ、気を取り直して、最後まで思いきり楽しんでほしい」
その静かでありながら確かな威厳を帯びた言葉は、凍りついていた空気を少しずつ溶かしていく。会場に漂っていた緊張感は次第に和らぎ、人々は再び笑顔を取り戻し、舞踏会の華やかな雰囲気が静かに戻り始めた。
しかし、エリスはまだ気を抜けない。
「セシル、控え室で少し休もう?」
エリスはセシルの耳元でそっと囁いた。
「う、うん……ディラン様、服を汚してしまってごめんなさい…」
セシルは困ったようにディラン様の袖に視線を落とす。そこにはセシルのワインまみれの手が触れた跡がくっきりと残っていた。
「気にするな」ディランは淡々とした口調で言い、「歩けるか?」ともう一度優しく声をかける。
セシルはぎこちなく頷き、エリスとディランに支えられながらゆっくりと歩き出す。
控え室へ向かう道中、周囲から注がれる好奇の視線をひしひしと感じたがエリスは意識的に気に留めないよう足を進めた。
控え室に着くと、エリスは扉を閉めて深く息をついた。
「ふぅ……とりあえずここまで来られて良かった」
「ごめんね、エリス……私、また迷惑かけちゃった……」
セシルはしゅんとした表情でうつむく。
「いやいや、セシルは悪くないし!それにセシルはよく頑張ったよ」
エリスは努めて明るい声をかけた。
その時、ディランが淡々とした声で言った。
「着替えた方がいいな。このままでは風邪をひく」
「でも、替えのドレスなんて……」
セシルが不安そうに言うと、エリスはすかさずバッグから何かを取り出した。
「じゃーん!予備のドレス、用意しておきました!」
「え!?いつの間に!?」
驚くセシルに、エリスは得意げに笑った。
(ゲームの中だとセシルに同情した友達…つまり私がセシルに予備のドレスを渡す展開だったからね。ちゃんと準備しておいた。)
「これなら色も違うし、さっきのとは印象が変わるはず。セシル、着替えておいで!」
「ありがとうエリス!」
セシルは嬉しそうにドレスを抱きしめ、更衣室に入る。その背中を見送りながら、エリスはほっと胸を撫で下ろす。
(……ここまでは予定通りに進められている。でも、ここからもきっと大変…!)
セシルとディランが仲睦まじく踊るその光景――それは、クラリスにとって到底容認できない、苛立ちと嫉妬の火種となっていた。
「どうしてあんな庶民が王子と踊っているのかしら……」
クラリスは扇を握る手に力を込め、取り巻きたちに小声で命じた。
「いいこと?あの子を転ばせて、みんなの笑い者にして差し上げなさい」
取り巻きたちは一瞬戸惑ったものの、クラリスの冷たい視線に押されて渋々頷く。
取り巻きたちはどこか不安そうな表情だ。無理もない。舞踏会という公の場でそんなことをすれば、自分たちの立場にも影響が出る可能性があるのだから。
しかし、クラリスはそんな不安を意にも介さず、扇をひと振りして静かに合図を送った。
合図を受けた取り巻きの一人が、ぎこちない足取りで舞踏会場の中央へと進み出る。そして、わざと足をもつれさせるようにして、セシルの方へと倒れ込んだ。
「きゃっ!」
セシルが一瞬よろめいた。しかし、次の瞬間、ディランが素早く手を伸ばし、彼女の腰を支えた。
「大丈夫か?」
ディランの冷静な声が響く。
セシルは驚きながらも「は、はい……ありがとうございます」と頬を赤らめた。
周囲からはほっとしたようなため息が漏れる。クラリスはその光景を見て歯を噛み締め、すぐに次の手を打とうとする。
(そろそろクラリスの嫌がらせイベントが本格的に始まるはずだ)
エリスは心の中で静かに呟いた。
ゲームではまさにこのタイミングでクラリスが動き出し、舞踏会の真ん中でセシルとディランに派手な恥をかかせる展開が待っていた。そして、この嫌がらせを華麗に乗り越えることで、二人の親密度が大きく上昇するという重要なイベントだったのだ。
もちろん、この場面を回避するという選択肢も存在した。しかし、それでは親密度の上昇は不十分。むしろ、この困難をどう乗り越えるかが二人の絆を深める最大の鍵となる。
「どうしたの?そんなにキョロキョロして。俺と踊るの、そんなに落ち着かない?」
ルークは軽口を叩きながらも、エリスの緊張を感じ取っているようだった。
「セシルが上手く踊れているか、どうしても気になってしまって…ルーク様と踊れることは大変嬉しく思っています」
エリスはそう言いつつも、やはり目線はどうしても二人を追ってしまう。
舞踏会場の天井には、豪奢な魔導式のシャンデリアがいくつも吊り下げられていた。この学園の舞踏会場に設置された照明は、最新の魔工学によって制御されており、特定のエリアを集中的に照らしたり暗くしたりすることができる。
そのため、照明の明暗を微妙に操作することで、舞台演出のような効果を生み出すことが可能だった。
クラリスは事前に、取り巻きを通じて会場の裏手にある照明制御盤に細工を施していた。
この制御盤は、魔力を込められた特殊なクリスタルによって接続されており、特定のエリアを局所的に暗転させることができる仕組みだった。
普段は厳重に管理されている場所だが、取り巻きたちの貴族特権を巧みに使い、クラリスはその警戒を掻い潜っていたのだ。
「……そろそろよ。準備なさい」
クラリスの指示で、取り巻きの一人が魔導通信石を手に取り、合図を送る。わずかに遅れて、会場の一角に配置されたクリスタルが暗く沈んだ。それと同時に、ディランとセシルが踊っているあたりの照明が不自然にふっと消えた。
会場の照明は全体としては煌びやかな光を放っていたが、その一角だけが闇に包まれる異様な光景に、貴族たちが小声でざわめく。
「えっ……何?」
突然の暗転に驚いたセシルは、一瞬バランスを崩しかけたが、すぐにディランが手を引いて支えた。
「落ち着け、何か仕掛けられた可能性がある」
ディランは冷静に周囲を見回しつつも、足元に注意を向けていた。だが、暗闇では微細な動きも見えづらい。
だが、エリスにはわかっていた。この暗闇こそ、クラリスが仕掛けた嫌がらせの第一段階だということを。
(二人とも気を付けて……!)
エリスが心の中で祈った次の瞬間、クラリスの取り巻きの一人が暗闇に紛れてセシルに近づき、強引にセシルを突き飛ばした。
「きゃっ――!」
セシルの悲鳴が響き渡り、バランスを崩した彼女は勢いよく床に倒れ込む。
続いて「プシューッ!」という不穏な音とともに、ワインが勢いよくサーバーのノズルから噴き出した。赤紫色の液体は高圧で空中を描き、真っ直ぐにセシルの方へ向かって飛び散る。
「きゃっ!」
セシルは驚き、思わず後ろへ身を引いたが、避け切れるはずもなくワインは深紅のドレスに容赦なく降りかかった。
そして倒れ込んだセシルの顔や全身に、まるで嘲笑うかのように冷たい液体が容赦なく降り注ぐ。
「………っ!」
セシルが驚きの声を上げる間もなく、赤紫色の液体が次々に顔から髪、そしてドレスへと染み込んでいく。何が起こったのか分からず、呆然とした表情でその場に座り込んだまま動けずにいる。
二人が踊っていたフロアは、一瞬にして静寂に包まれた。
セシルは倒れ込んだまま、顔を上げようとするも、全身にまとわりつく冷たい液体の感触に動けずにいた。髪からドレスの裾にかけて、濃厚な赤紫色のワインが容赦なく染み込み、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
ディランは瞬時に異変を察知し、素早くセシルのそばにかがみ込んだ。「大丈夫か?」と問いかけながら、ハンカチを取り出してセシルの顔に付いたワインを拭おうとする。
その時――
照明がパッと元に戻り、さっきまでの暗闇が嘘のように舞踏会場は再び煌びやかに照らされた。
観客たちは一瞬遅れて状況を理解し、ざわざわとしたざわめきが広がる。「何が起きたの?」「え、どうしたの?」と困惑する声が飛び交う。
一方、クラリスは少し離れた位置で扇を広げ、上品な微笑みを浮かべながら取り巻きと視線を交わしていた。
「まぁ、照明に続いてワインサーバーの不具合かしら?こういう設備の不具合って怖いですわね、うふふ……」
倒れ込んだセシルはようやく立ち上がろうとするも、濡れたドレスが重くなり、なかなか動けない。
「……ディラン様、ごめんなさい……せっかく踊ってくださったのに、私……」
ディランはそんなセシルをじっと見つめ、「気にするな。立てるか?」と静かに声をかけた。その声は冷静だったが、その瞳の奥には怒りの色が垣間見える。
ルークもエリスのそばに立ち、いつもの軽い調子を抑えた声で言った。
「これはただのハプニングって感じじゃないな。エリス、心当たりがあるんじゃないか?」
(心当たりしかないよ……でも、実際に目の前で見ると、想像以上に派手でタチが悪い!)
「まぁ……その……」
エリスは視線を泳がせながら適当に誤魔化そうとしたが、ルークの鋭い視線に気付き、観念して小声で呟いた。「クラリス様……の、可能性が高いと思います」
「やっぱりか」とルークは呆れたようにため息をつきつつ、「さすがにこれは度が過ぎてるな」と真剣な表情を見せた。
一方、ディランはセシルを支えながら、周囲を静かに見渡していた。その鋭い眼光は、ただならぬ気配を放ち、周りの観客たちがざわつく。
「怒っていますわ……」
「あれは見過ごせないよね……」とひそひそ声が聞こえる中、クラリスは涼しい顔を崩さずに扇をゆらゆらと揺らしていた。
「まぁまぁ、大丈夫かしら?」
クラリスはあくまで心配するような素振りでセシルに声をかけた。
「本当にお気の毒ですわね。せっかく素敵なドレスをお召しになっていたのに、こんなことになってしまうなんて。あら、それに……どうやらお肌にもワインがついてしまったようですわね。大丈夫かしら?後でシミにならなければ良いのですけれど」
その声は一見優しげでありながらも、含み笑いと明らかな嘲りを含んでいた。
セシルはディランに支えられたまま、困惑した表情で「だ、大丈夫です……」と答えたものの、声はどこか震えていた。
周囲を見渡すと、最早誰も踊っておらず、会場にいたほぼ全員が二人に注目している。静まり返った空間に、緊張感が張り詰めていた。
会場中が静まり返ったまま、誰も動けずにいる中、ディランはセシルを支えつつ、冷静な表情で前に一歩踏み出した。
「心配をかけてしまったことをお詫びする。ただ、少々ハプニングがあっただけだ」
その低く落ち着いた声は、驚くほど静かなのに会場の隅々まで澄み渡るように響き渡った。
「皆が楽しむための舞踏会だ。このようなことで雰囲気を乱してしまったのなら、私も責任を感じる」
ディランは淡く微笑みを浮かべ、場を和ませるように言葉を続けた。
「さあ、気を取り直して、最後まで思いきり楽しんでほしい」
その静かでありながら確かな威厳を帯びた言葉は、凍りついていた空気を少しずつ溶かしていく。会場に漂っていた緊張感は次第に和らぎ、人々は再び笑顔を取り戻し、舞踏会の華やかな雰囲気が静かに戻り始めた。
しかし、エリスはまだ気を抜けない。
「セシル、控え室で少し休もう?」
エリスはセシルの耳元でそっと囁いた。
「う、うん……ディラン様、服を汚してしまってごめんなさい…」
セシルは困ったようにディラン様の袖に視線を落とす。そこにはセシルのワインまみれの手が触れた跡がくっきりと残っていた。
「気にするな」ディランは淡々とした口調で言い、「歩けるか?」ともう一度優しく声をかける。
セシルはぎこちなく頷き、エリスとディランに支えられながらゆっくりと歩き出す。
控え室へ向かう道中、周囲から注がれる好奇の視線をひしひしと感じたがエリスは意識的に気に留めないよう足を進めた。
控え室に着くと、エリスは扉を閉めて深く息をついた。
「ふぅ……とりあえずここまで来られて良かった」
「ごめんね、エリス……私、また迷惑かけちゃった……」
セシルはしゅんとした表情でうつむく。
「いやいや、セシルは悪くないし!それにセシルはよく頑張ったよ」
エリスは努めて明るい声をかけた。
その時、ディランが淡々とした声で言った。
「着替えた方がいいな。このままでは風邪をひく」
「でも、替えのドレスなんて……」
セシルが不安そうに言うと、エリスはすかさずバッグから何かを取り出した。
「じゃーん!予備のドレス、用意しておきました!」
「え!?いつの間に!?」
驚くセシルに、エリスは得意げに笑った。
(ゲームの中だとセシルに同情した友達…つまり私がセシルに予備のドレスを渡す展開だったからね。ちゃんと準備しておいた。)
「これなら色も違うし、さっきのとは印象が変わるはず。セシル、着替えておいで!」
「ありがとうエリス!」
セシルは嬉しそうにドレスを抱きしめ、更衣室に入る。その背中を見送りながら、エリスはほっと胸を撫で下ろす。
(……ここまでは予定通りに進められている。でも、ここからもきっと大変…!)
1
あなたにおすすめの小説
【完結済】私、地味モブなので。~転生したらなぜか最推し攻略対象の婚約者になってしまいました~
降魔 鬼灯
恋愛
マーガレット・モルガンは、ただの地味なモブだ。前世の最推しであるシルビア様の婚約者を選ぶパーティーに参加してシルビア様に会った事で前世の記憶を思い出す。 前世、人生の全てを捧げた最推し様は尊いけれど、現実に存在する最推しは…。 ヒロインちゃん登場まで三年。早く私を救ってください。
ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない
魚谷
恋愛
伯爵令嬢イザベラは多くの男性と浮名を流す悪女。
そんな彼女に公爵家当主のジークベルトとの縁談が持ち上がった。
ジークベルトと対面した瞬間、前世の記憶がよみがえり、この世界が乙女ゲームであることを自覚する。
イザベラは、主要攻略キャラのジークベルトの裏の顔を知ってしまったがために、冒頭で殺されてしまうモブキャラ。
ゲーム知識を頼りに、どうにか冒頭死を回避したイザベラは最弱魔法と言われる付与魔法と前世の知識を頼りに便利グッズを発明し、離婚にそなえて資金を確保する。
いよいよジークベルトが、乙女ゲームのヒロインと出会う。
離婚を切り出されることを待っていたイザベラだったが、ジークベルトは平然としていて。
「どうして俺がお前以外の女を愛さなければならないんだ?」
予想外の溺愛が始まってしまう!
(世界の平和のためにも)ヒロインに惚れてください、公爵様!!
転生したら乙女ゲームの主人公の友達になったんですが、なぜか私がモテてるんですが?
山下小枝子
恋愛
田舎に住むごく普通のアラサー社畜の私は車で帰宅中に、
飛び出してきた猫かたぬきを避けようとしてトラックにぶつかりお陀仏したらしく、
気付くと、最近ハマっていた乙女ゲームの世界の『主人公の友達』に転生していたんだけど、
まぁ、友達でも二次元女子高生になれたし、
推しキャラやイケメンキャラやイケオジも見れるし!楽しく過ごそう!と、
思ってたらなぜか主人公を押し退け、
攻略対象キャラからモテまくる事態に・・・・
ちょ、え、これどうしたらいいの!!!嬉しいけど!!!
好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が
和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」
エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。
けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。
「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」
「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」
──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。
乙女ゲームのヒロインに転生したのに、ストーリーが始まる前になぜかウチの従者が全部終わらせてたんですが
侑子
恋愛
十歳の時、自分が乙女ゲームのヒロインに転生していたと気づいたアリス。幼なじみで従者のジェイドと準備をしながら、ハッピーエンドを目指してゲームスタートの魔法学園入学までの日々を過ごす。
しかし、いざ入学してみれば、攻略対象たちはなぜか皆他の令嬢たちとラブラブで、アリスの入る隙間はこれっぽっちもない。
「どうして!? 一体どうしてなの~!?」
いつの間にか従者に外堀を埋められ、乙女ゲームが始まらないようにされていたヒロインのお話。
完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい
咲桜りおな
恋愛
オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。
見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!
殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。
※糖度甘め。イチャコラしております。
第一章は完結しております。只今第二章を更新中。
本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。
本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。
「小説家になろう」でも公開しています。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
死亡予定の脇役令嬢に転生したら、断罪前に裏ルートで皇帝陛下に溺愛されました!?
六角
恋愛
「え、私が…断罪?処刑?――冗談じゃないわよっ!」
前世の記憶が蘇った瞬間、私、公爵令嬢スカーレットは理解した。
ここが乙女ゲームの世界で、自分がヒロインをいじめる典型的な悪役令嬢であり、婚約者のアルフォンス王太子に断罪される未来しかないことを!
その元凶であるアルフォンス王太子と聖女セレスティアは、今日も今日とて私の目の前で愛の劇場を繰り広げている。
「まあアルフォンス様! スカーレット様も本当は心優しい方のはずですわ。わたくしたちの真実の愛の力で彼女を正しい道に導いて差し上げましょう…!」
「ああセレスティア!君はなんて清らかなんだ!よし、我々の愛でスカーレットを更生させよう!」
(…………はぁ。茶番は他所でやってくれる?)
自分たちの恋路に酔いしれ、私を「救済すべき悪」と見なすめでたい頭の二人組。
あなたたちの自己満足のために私の首が飛んでたまるものですか!
絶望の淵でゲームの知識を総動員して見つけ出した唯一の活路。
それは血も涙もない「漆黒の皇帝」と万人に恐れられる若き皇帝ゼノン陛下に接触するという、あまりに危険な【裏ルート】だった。
「命惜しさにこの私に魂でも売りに来たか。愚かで滑稽で…そして実に唆る女だ、スカーレット」
氷の視線に射抜かれ覚悟を決めたその時。
冷酷非情なはずの皇帝陛下はなぜか私の悪あがきを心底面白そうに眺め、その美しい唇を歪めた。
「良いだろう。お前を私の『籠の中の真紅の鳥』として、この手ずから愛でてやろう」
その日から私の運命は激変!
「他の男にその瞳を向けるな。お前のすべては私のものだ」
皇帝陛下からの凄まじい独占欲と息もできないほどの甘い溺愛に、スカーレットの心臓は鳴りっぱなし!?
その頃、王宮では――。
「今頃スカーレットも一人寂しく己の罪を反省しているだろう」
「ええアルフォンス様。わたくしたちが彼女を温かく迎え入れてあげましょうね」
などと最高にズレた会話が繰り広げられていることを、彼らはまだ知らない。
悪役(笑)たちが壮大な勘違いをしている間に、最強の庇護者(皇帝陛下)からの溺愛ルート、確定です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる