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【五】
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「……というのが、『不確定性原理』を導き出した『二重スリット実験』の概要なわけです。わかりますかねえ」
クラスの半数以上が首を振る。
ですよねえ、と言って色の黒い先生がちりちり頭を掻きながら鮮やかな白い歯を見せて苦笑した。
「――これを説明したものがいわゆる『コペンハーゲン解釈』なわけですが、むかし読んだ資料ではこれを『だるまさんがころんだ解釈』と説明していた人がいました」
生徒たちが失笑する。
あかりは頬杖をついてクラスをざっと見渡した。
「ま、要するにオニは目を閉じて『だるまさんがー』と言ってるわけですが、その間他の人は自由に動いてるわけです。で、動いている他の人のいる位置はオニにはわかりません。そこで『ころんだ!』とオニが振り向くと他の人は動かなくなる。ここで初めてオニは他の人のいる位置を知ることができるわけですね」
ふと視線に気づいた。
窓際の席の後の方、一昨日転校してきた娘だ。何気なくあかりに目を向けている。
中国系の顔立ちにお団子頭。
気づいて見返すとその娘は小さくにこっと笑った。
可愛らしい娘だなあ。なんて名前だっけ。
「言い換えれば、オニが目を閉じている間の他の人のいる場所をオニが想定するとすれば『だいたいここからあそこらへんの間にいるんじゃないか』になるわけ。公園の外には出ないわけで、しかも他の人は『オニにタッチしなければいけない』以上遠くに離れちゃったら困るわけですからね。つまり『確率的な存在』としてしかつかむことができない、ということになります」
なんとなく頷く生徒たち。
「ここでいう『オニ』が『観測者』、『ほかの人』を『電子』と考えますといくぶんか解りやすいかもしれません」
チャイムが鳴った。
「次回もうちょっと詳しくやりますかね、そんなとこでこの時限は終わり」
「アダム先生の授業はなんかわかったようなわかんないような、なのよね」
「よねー。あれテストとかに出さないわよねえ」
「ないわー」
あかりの後ろでナミとみずえがぼやいている。
「あの―――」
あかりが振り向くと、その転校生がそばに立っていた。もじもじしている。色白の頬が少し赤い。
「あら、えー…と、リーさん、だっけ?」思い出した。
「そうです、またざきサン!」思いっきり言った。
股は裂いちゃまずいんじゃないか。
後ろの二人がぶーっと吹きだした。転校生は真っ赤になってあたふたし始め、しどろもどろになった。
「あ、あ……ごめ、ごめんなさい。ま、まらざきサン」
さらにまずいことになった。
こらえようとしたせいで、ぶっひゃっひゃっひゃ、みたいな笑い方になった。二人はごめんなさーい! と言いながら逃げてしまった。
えーと。
「ああ……あたしはあかりでいいよ。みんなそう呼ぶし」
「あ、わたしも、ジュディでいいデス」
ちょっとほっとしたように言った。まだ顔が赤い。
「あの、広報室、資料取るにきて、言われて。場所が……」
「ああ、そうよね。案内したげる。ついてきて」
連れ立って教室を出て行った。
「クラス委員だから大変ね、あかり」
みつるが後ろ姿を見送りながら言った。
「おまけにD組いちばん生徒数少ないから転校生はみんなD組だもんな」
隣にいた男子が教科書をしまいながら言った。
「あそこ。放送室わかりやすいから、その隣って覚えておくといいわよ」
指さして教えると、ジュディの顔が明るくなった。
「ありがと、あかりサン」
笑顔が可愛らしいと思った。もと来た廊下を戻ろうと後ろを向いた時、「あかりサン」と呼ばれた。
振り向く。笑顔のままのジュディ。
「――『力』を使っては、いけません。本当はわたしそれ言いにきたね」
「……はい?」
不意のことに一瞬何を言われたのかよくわからなかった。
いずれお話しするネ、とにこやかに言ってジュディは広報室へ向かった。
なんとなくそのまま立っていた。――『力』って、『あれ』?
チャイムが鳴る。
いけない。あかりは小走りで廊下を戻った。
※
ギイはディスプレイを動かした。
テンキーを押す。画像の隅にマリアンの顔が映った。
「なあに?」
「ファイル見たんだけど」
「ふん」
「――他に誰もいなかったの?」
「ご不満?」
「ちょっとね」
マリアンが腰に手を当てて首を傾げた。
「この年代はデリケートだから需要が多いんで手不足なのよ。頭数は増えてるんだけど」
「語学レベルも低いわね」
「訓練優先で育ってるの。これでも戦闘値はかなり優秀なのよ、この歳で」
マリアンが画面に近づいた。
「大至急と言ったの、あなたでしょ? ――ぜいたく言わないの」
「はいはい」
画像が消えた。
息をつく。
(確かにこの五年ぐらいで能力者の絶対数は爆発的に増えてる)
キーを操作して画面にチャートを出した。右肩上がりの赤い線が浮かび上がる。
チネーズと以前した会話を思い出した。
(これは何かの前兆なの?)
※
岩の壁に浮かび上がった映像には動態図が映し出されていた。
「網にはまだかからんか」
ジェンが座ったまま重い声で言った。
「申し訳ありません。あの穴の一件以来あまり細かい目の網が張れないのです――恐ろしくて」
立っていたナイアが頭を小さく下げた。
「お前があやまる事ではない。警戒している、ということもあるだろう」
机の上のキーを薮田が動かすと、地図が拡大した。
「このあたりですかね」
薮田が言って、眼鏡を押し上げた。ナイアが画像に近づき、一点を指さした。
「例の波長とは違いますが、該当する範囲で能力波が特に集中しているのが、ここです」
ジェンの方を向いて言った。
「個人の家、ではないな。大きい」
衛星画像に切り替わる。二条の光の交点が建物に重なる。
「……三栗谷第三中学校、学校かあ、広いな――生徒か、教師か」
薮田が手元の画面を見ながら言った。
ふむ、と言ってジェンは考え込んだ。
(……OZも我々が網を張っていることは感づいているはず)
(個人を特定する前に動き出したほうがいい、か。『超越者』を特定しなければならん)
「――ネコを呼べ」
ややあってジェンが言った。
※
「あおぞら温泉」は比較的すいていた。
午後も早い今ぐらいの時間だと、まだモール帰りの客が少ないのであかりはこの時間帯をよく狙っていた。夕方近くになると買い物に疲れた客が、足の疲れを癒そうと入りに来るケースが多いからだ。
浴室のドアをくぐると左側は仕切られた洗い場が列になっており、奥に広い炭酸風呂。右手にサウナ。小さな廊下を抜けて風除室から出ると、割と大きめの、岩づくりの露天風呂になっている。
露天風呂にゆっくり身体を沈め、頭にタオルを乗せる。はーあ、と声が出る。
(やっぱこれだよなあ……。天然温泉じゃないのが難点だけど、ぜーたく言えないしな)
湯船の湯を手ですくって顔を洗う。
仰いだ空は晴れている。濡れた顔を撫でる春風が心地よい。自然と鼻歌が漏れる。気持ちいー。
四、五人の客が喋っている。女湯は概していつもにぎやかだがあかりは気にならなかった。
いろんなことがあってもこうして湯船に浸かっているときはすべて忘れられる。あかりはこの時間がなにより好きだった。
また二人ほど入ってくるがあかりは見ていない。
目を閉じて満喫する。いいねえ―――。
「――わっ!」
「きゃああ!!」
岩陰から声。悲鳴をあげるあかり。一瞬注目が集まった。
慌てた拍子に尻が滑って顔が湯船に沈んだ。ぶはっと顔を出して傍らを見た。
いたずらっ子のような表情をした少女が隣にいた。もちろん裸だ。
「――え? ……ジュディ、さん?」
「ごめんなさい。ちょとおどかしてみたくなったね。あんまり気がつかないみたいだったノデ」
頭のタオルを絞ろうとして固まった。どういう状況なのか頭が判断を拒否していた。
しかし視界に入ったジュディの胸元を見て(あ、勝った)と思っている自分もいた。
違うそうじゃなくて。
「――番頭突入です。あなたは狙われています」
ジュディが真顔になって言った。
「番頭がどこへ突入するのよ」
今度はジュディの顔が固まった。「え、と――弁当、だっけ」
それも違う。
「短刀の直入だけど、それはいいとして――ジュディさんなんでここにいるの?」
雰囲気を邪魔された態ではあるが、怒る気にもならなかった。
「あなた一人でいるの、おいしくないデス」
一瞬「?」。持ち直す。
「ああ――まずいってこと……そうじゃなくて、なぜわたしがここにいることを知ってるの? 偶然?」
ジュディは小ぶりの唇をすぼめて小さく首を振った。
「学校であかりサンの『実体波』つかんだ。街の中ぐらいだったらだいたいの居場所わかるデス」
「実体波?」
「人間が持つ個体の振動数。指紋みたいに人によって違うデス」
えーと、ね。
あかりの目が上を向いた。
湯船につかり直す。少しだけにじり寄って顔をのぞき込んだ。
「――あなた、何者?」
「あなたと同じ『能力者』。あなたほどではない、けど」
「同じ――? じゃああなたも……他人の心が読めたり、するの?」声を潜めながら訊いた。
頷いた。「そんなにはっきりではないです」
あかりはちょっと考えた。
「わたしほどじゃない、って誰かが言ってたの?」頷く。
「あなたは特別な力のひと。チェッカー・ギイからそう聞いたデス」
「誰?」
「上司です。『OZ』の偉いひと」
「『OZ』? 魔法使いかなんか?」
微笑った。話し方はつっけんどんなのだが笑顔が可愛らしいのでどうも憎めない。
「オペレーション・ゼロアワー。『正午作戦』。わたしたちの属する組織。わたしそこの訓練生、内緒だけど」
その割には声が大きい。大陸は大雑把だなあ。ってカナダ人かなんかだっけ? この娘。
あかりは指を立ててしーっと言った。慌ててジュディが周囲を見回す。誰も気にしていないようだった。
「そういえば、力を使うな、って言ってたけど――どういうこと?」声は小さめだ。
「あなた悪い奴らに狙われてる。力使ったら居場所ばれる。使わなくてもいずればれるデス。MM油断できない。だからわたし囮になるためにきたデス」
「MM?」
「メディオス・メディオード。わたしたちの敵。能力者だけど能力者敵として見てる集団。つかまったら殺される」
眉根を寄せながらあっさりと物騒なことを言う。
「あんまりおだやかな話じゃないわね。でもいきなり捕まるだの殺されるだの言われても実感わかないわ。あたしなにも悪いことしてないわよ」
「無理ないデス。でもホントです。そうでなければ、わたしここにいない」
まあねえ、と言って少し黙った。しかしなにも風呂でなくても。
「……でも囮ったら、危なくない? 殺されちゃうんじゃないの?」
「わたし、これでも結構強い。簡単には捕まらないデス。わたしに何かあれば仲間来るし」
胸に手のひらを当てて言った。可愛い手。強そうには見えないがなあ。
「仲間? ……ってみんな『能力者』の?」頷く。
「OZの仲間、世界中にいる。能力者、年々増えてる。誰か言ってた」
同じ能力者の仲間。
なにかを思い出しそうになった。が、なんだかわからない。
「でも、やっぱり拳銃とか刃物とか使われるんじゃないの? 怖くない?」
「あんまり怖くない。わたし怖いもの生ガキだけ」しれっと言う。
「牡蠣?なんで怖いの? おいしいよ?」
「牡蠣怖い。あれのこーんなのが道に落ちてるとこ考えたら夜寝られないデス」
湯船の中で両手を広げた。
なんて返答していいかわからない。どうも調子狂うなあこの子。
なんだかのぼせてきた。
「……とりあえず、場所変えない?」
「あおぞら温泉」の休憩室は広い。
五十いくつもの長椅子が並んだスペースと、隣接する二十帖ほどのフリースペースでこちらは点々とふかふかの座布団が置いてある。これ以外にビーチチェアのある広い屋外スペースもあり、客は好きな場所で休憩できる。この休憩室の広さも売り物のひとつだった。
二人はフリースペースの隅っこに座布団を敷いて陣取っていた。
あかりは持参したクリーム色のスウェット上下、ジュディは備え付けのスカイブルーの部屋着。サイズが大きめなので袖が余っている。大人の服を着た子供みたいだ。
とりあえずスポーツドリンクを一気に飲んで一服。はーあ。
「で、あらましはわかったけど(あんまりわかってないけど)……MMとやらが敵だとして、OZやあなたがわたしの味方だとどうして信用できるの?」
あらたまって訊いた。ジュディの大きな目がくりっと上を向いてしばらく考えていた。
やがて戻って来た瞳があかりの顔をはったとにらみ据えた。
「――ホントです。この目を見てください」
じー。
いやそうじゃなくて。あかりは頭を抱えた。まあとりあえずいいや。
「訊き方変えるわ。敵がわたしをどうしたいかはわかったけど、OZはわたしをどうするつもりなの?」
ジュディはちろっとあさっての方を向いた。
「わたし実はそこよくわかってない。あかりさん、たぶん『レイジ』とコンタクトできるひと、らしい」
「『レイジ』?」
また疑問符だ。今日何回目だろ。あといくつ疑問符が必要なのかな今日は。
「人類を超えるもの。『レイジ』と出会うと人類は進化する。そう聞いてるデス」
頭から湧き出る疑問符が止まらない。
「進化? どんな風に? ゲームみたいに羽根が生えるとか。超能力……はまあいいか」
ジュディが困った顔になった。
「ごめんなさい、よくわからなくて。でも進化って言ったらあかりさんも進化したヒト、なのかも、ね」
うーん。黙った。
そんなこと考えたこともなかった。
能力を呪ったことなら何度もあった。両親を何度も恨んだ。
そういえば、と話を変える。ちょっと悲しい思いになりそうだった。
「――ジュディさんご両親は一緒なの?」
今度はジュディがちょっと悲しげに首を振った。
「パパはいない。ママはカナダ。付き添いの事務の人、お金とか面倒見てもらってる。ごはん自分で作るデス」
あ、と思った。独り、なんだ。
「訓練生、って言ったっけ。訓練する場所には友達とか、いるんじゃないの?」
また小さく首を振る。
「訓練、きびしいでした。小さいころからずっと訓練受けてきた。訓練と勉強。……友達いなかった。思い出すの辛いこと、みんなあるね。誰も話ししないね」
そっか、と言って黙った。横顔が少し寂しげだ。
独り。
――ひとの心なんか読んじゃだめ。何回同じことを言わせるの。
だって勝手に入ってくるの! ママ止めて! わたし読みたくない! 知りたくない!
――悪魔の子だってまさしのおばさんが言ってたぞ。近寄るなよ。
能力者はいつだって独りだった。ジュディもそうなのだ。
他に能力者がいたとしても、やはり独りであることに違いはないのだ。唇を噛んだ。
「つらいよね、わかる。むかし――わたしも、独りだった」
ジュディがあかりの顔を見た。
瞳の中に同じものが映っていた。
それは、この世で能力者だけが解りあえる哀しみだった。
手を差し出した。ジュディが握り返す。
掌から流れ込んでくる思い。辛かった記憶。届かない悲しみ。
ジュディの眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。あかりの眼からも。
「あかり、サン……わたし――」
あかりが頷く。顔を寄せる。
「いいのよ、あかりで。もう、友達じゃん。裸のつきあいしてるし」
そう、ネ、と言ってジュディも微笑った。
潤んだ大きな瞳が少し上目づかいであかりを見た。
「――あかり」
「ジュディ」
どちらからともなく手を握り合った。泣きながら二人で笑った。
わたしたちもう、独りじゃないよ。
※
何の札もない黒いガラス扉。
ギイが手にした金属の長い杖を扉の前にかざす。杖についた輪が澄んだ音を立てた。
音もなく扉が横に滑る。
薄暗い。天井からの照明が床の一か所だけを照らしている。
まるで被告席のようだ。毎回ギイは思う。光の中に立つ。
正面の壁際に石柱があり、その上には透明な球体がある。球体の中央が光り出す。
〈チェッカー・ギイ、報告を聞こう〉
球体から低い声がする。魂に浸透するような声だ。この声を聴くたびに身体が緊張するギイだった。
一連の状況について、かいつまんで報告した。
球体の光が息づくように瞬いている。
「――概ねは、以上です」
ほのかな光が灯ったまま、球体が黙っていた。
〈――少女を引続き監視したまえ。何者にも干渉させてはならない〉
再び声が響く。
「あの『攻撃』はあの娘と関係があるのですか?」
〈おそらくは〉
「……何を知っているのですか?『ビー・ディ』」
〈君が知る必要はない〉
球体がぴしゃりと言った。
無力感に苛まれる。もう一度向き直った。
「質問を変えます。近年、能力者が増えていることは『レイジ』と関連しているのですか?」
球体が少し黙った。
〈わたしの知るところではない、と言っても信じまいな〉
少し笑っているような口調だった。
〈――ないとも言えるしあるとも言えるだろう〉
「……どういう意味ですか、それは」
〈それ以上でも以下でもない。報告は了解した。職務に戻りたまえ、チェッカー・ギイ〉
ギイはうつむいた。
失礼します、と言って部屋を出た。
暗闇の中で球体だけがわずかに光っていた。
〈――レイジ〉
※
バトンガの腕輪がかすかに光った。
「ニオです」
「どうした」
「――ナイアが能力者の位置を捕えました」
バトンガの眼が鋭くなった。
「よし、手筈通りやれ。ジェンには気づかれるな」
「了解しました」
バトンガがにやりと笑った。
クラスの半数以上が首を振る。
ですよねえ、と言って色の黒い先生がちりちり頭を掻きながら鮮やかな白い歯を見せて苦笑した。
「――これを説明したものがいわゆる『コペンハーゲン解釈』なわけですが、むかし読んだ資料ではこれを『だるまさんがころんだ解釈』と説明していた人がいました」
生徒たちが失笑する。
あかりは頬杖をついてクラスをざっと見渡した。
「ま、要するにオニは目を閉じて『だるまさんがー』と言ってるわけですが、その間他の人は自由に動いてるわけです。で、動いている他の人のいる位置はオニにはわかりません。そこで『ころんだ!』とオニが振り向くと他の人は動かなくなる。ここで初めてオニは他の人のいる位置を知ることができるわけですね」
ふと視線に気づいた。
窓際の席の後の方、一昨日転校してきた娘だ。何気なくあかりに目を向けている。
中国系の顔立ちにお団子頭。
気づいて見返すとその娘は小さくにこっと笑った。
可愛らしい娘だなあ。なんて名前だっけ。
「言い換えれば、オニが目を閉じている間の他の人のいる場所をオニが想定するとすれば『だいたいここからあそこらへんの間にいるんじゃないか』になるわけ。公園の外には出ないわけで、しかも他の人は『オニにタッチしなければいけない』以上遠くに離れちゃったら困るわけですからね。つまり『確率的な存在』としてしかつかむことができない、ということになります」
なんとなく頷く生徒たち。
「ここでいう『オニ』が『観測者』、『ほかの人』を『電子』と考えますといくぶんか解りやすいかもしれません」
チャイムが鳴った。
「次回もうちょっと詳しくやりますかね、そんなとこでこの時限は終わり」
「アダム先生の授業はなんかわかったようなわかんないような、なのよね」
「よねー。あれテストとかに出さないわよねえ」
「ないわー」
あかりの後ろでナミとみずえがぼやいている。
「あの―――」
あかりが振り向くと、その転校生がそばに立っていた。もじもじしている。色白の頬が少し赤い。
「あら、えー…と、リーさん、だっけ?」思い出した。
「そうです、またざきサン!」思いっきり言った。
股は裂いちゃまずいんじゃないか。
後ろの二人がぶーっと吹きだした。転校生は真っ赤になってあたふたし始め、しどろもどろになった。
「あ、あ……ごめ、ごめんなさい。ま、まらざきサン」
さらにまずいことになった。
こらえようとしたせいで、ぶっひゃっひゃっひゃ、みたいな笑い方になった。二人はごめんなさーい! と言いながら逃げてしまった。
えーと。
「ああ……あたしはあかりでいいよ。みんなそう呼ぶし」
「あ、わたしも、ジュディでいいデス」
ちょっとほっとしたように言った。まだ顔が赤い。
「あの、広報室、資料取るにきて、言われて。場所が……」
「ああ、そうよね。案内したげる。ついてきて」
連れ立って教室を出て行った。
「クラス委員だから大変ね、あかり」
みつるが後ろ姿を見送りながら言った。
「おまけにD組いちばん生徒数少ないから転校生はみんなD組だもんな」
隣にいた男子が教科書をしまいながら言った。
「あそこ。放送室わかりやすいから、その隣って覚えておくといいわよ」
指さして教えると、ジュディの顔が明るくなった。
「ありがと、あかりサン」
笑顔が可愛らしいと思った。もと来た廊下を戻ろうと後ろを向いた時、「あかりサン」と呼ばれた。
振り向く。笑顔のままのジュディ。
「――『力』を使っては、いけません。本当はわたしそれ言いにきたね」
「……はい?」
不意のことに一瞬何を言われたのかよくわからなかった。
いずれお話しするネ、とにこやかに言ってジュディは広報室へ向かった。
なんとなくそのまま立っていた。――『力』って、『あれ』?
チャイムが鳴る。
いけない。あかりは小走りで廊下を戻った。
※
ギイはディスプレイを動かした。
テンキーを押す。画像の隅にマリアンの顔が映った。
「なあに?」
「ファイル見たんだけど」
「ふん」
「――他に誰もいなかったの?」
「ご不満?」
「ちょっとね」
マリアンが腰に手を当てて首を傾げた。
「この年代はデリケートだから需要が多いんで手不足なのよ。頭数は増えてるんだけど」
「語学レベルも低いわね」
「訓練優先で育ってるの。これでも戦闘値はかなり優秀なのよ、この歳で」
マリアンが画面に近づいた。
「大至急と言ったの、あなたでしょ? ――ぜいたく言わないの」
「はいはい」
画像が消えた。
息をつく。
(確かにこの五年ぐらいで能力者の絶対数は爆発的に増えてる)
キーを操作して画面にチャートを出した。右肩上がりの赤い線が浮かび上がる。
チネーズと以前した会話を思い出した。
(これは何かの前兆なの?)
※
岩の壁に浮かび上がった映像には動態図が映し出されていた。
「網にはまだかからんか」
ジェンが座ったまま重い声で言った。
「申し訳ありません。あの穴の一件以来あまり細かい目の網が張れないのです――恐ろしくて」
立っていたナイアが頭を小さく下げた。
「お前があやまる事ではない。警戒している、ということもあるだろう」
机の上のキーを薮田が動かすと、地図が拡大した。
「このあたりですかね」
薮田が言って、眼鏡を押し上げた。ナイアが画像に近づき、一点を指さした。
「例の波長とは違いますが、該当する範囲で能力波が特に集中しているのが、ここです」
ジェンの方を向いて言った。
「個人の家、ではないな。大きい」
衛星画像に切り替わる。二条の光の交点が建物に重なる。
「……三栗谷第三中学校、学校かあ、広いな――生徒か、教師か」
薮田が手元の画面を見ながら言った。
ふむ、と言ってジェンは考え込んだ。
(……OZも我々が網を張っていることは感づいているはず)
(個人を特定する前に動き出したほうがいい、か。『超越者』を特定しなければならん)
「――ネコを呼べ」
ややあってジェンが言った。
※
「あおぞら温泉」は比較的すいていた。
午後も早い今ぐらいの時間だと、まだモール帰りの客が少ないのであかりはこの時間帯をよく狙っていた。夕方近くになると買い物に疲れた客が、足の疲れを癒そうと入りに来るケースが多いからだ。
浴室のドアをくぐると左側は仕切られた洗い場が列になっており、奥に広い炭酸風呂。右手にサウナ。小さな廊下を抜けて風除室から出ると、割と大きめの、岩づくりの露天風呂になっている。
露天風呂にゆっくり身体を沈め、頭にタオルを乗せる。はーあ、と声が出る。
(やっぱこれだよなあ……。天然温泉じゃないのが難点だけど、ぜーたく言えないしな)
湯船の湯を手ですくって顔を洗う。
仰いだ空は晴れている。濡れた顔を撫でる春風が心地よい。自然と鼻歌が漏れる。気持ちいー。
四、五人の客が喋っている。女湯は概していつもにぎやかだがあかりは気にならなかった。
いろんなことがあってもこうして湯船に浸かっているときはすべて忘れられる。あかりはこの時間がなにより好きだった。
また二人ほど入ってくるがあかりは見ていない。
目を閉じて満喫する。いいねえ―――。
「――わっ!」
「きゃああ!!」
岩陰から声。悲鳴をあげるあかり。一瞬注目が集まった。
慌てた拍子に尻が滑って顔が湯船に沈んだ。ぶはっと顔を出して傍らを見た。
いたずらっ子のような表情をした少女が隣にいた。もちろん裸だ。
「――え? ……ジュディ、さん?」
「ごめんなさい。ちょとおどかしてみたくなったね。あんまり気がつかないみたいだったノデ」
頭のタオルを絞ろうとして固まった。どういう状況なのか頭が判断を拒否していた。
しかし視界に入ったジュディの胸元を見て(あ、勝った)と思っている自分もいた。
違うそうじゃなくて。
「――番頭突入です。あなたは狙われています」
ジュディが真顔になって言った。
「番頭がどこへ突入するのよ」
今度はジュディの顔が固まった。「え、と――弁当、だっけ」
それも違う。
「短刀の直入だけど、それはいいとして――ジュディさんなんでここにいるの?」
雰囲気を邪魔された態ではあるが、怒る気にもならなかった。
「あなた一人でいるの、おいしくないデス」
一瞬「?」。持ち直す。
「ああ――まずいってこと……そうじゃなくて、なぜわたしがここにいることを知ってるの? 偶然?」
ジュディは小ぶりの唇をすぼめて小さく首を振った。
「学校であかりサンの『実体波』つかんだ。街の中ぐらいだったらだいたいの居場所わかるデス」
「実体波?」
「人間が持つ個体の振動数。指紋みたいに人によって違うデス」
えーと、ね。
あかりの目が上を向いた。
湯船につかり直す。少しだけにじり寄って顔をのぞき込んだ。
「――あなた、何者?」
「あなたと同じ『能力者』。あなたほどではない、けど」
「同じ――? じゃああなたも……他人の心が読めたり、するの?」声を潜めながら訊いた。
頷いた。「そんなにはっきりではないです」
あかりはちょっと考えた。
「わたしほどじゃない、って誰かが言ってたの?」頷く。
「あなたは特別な力のひと。チェッカー・ギイからそう聞いたデス」
「誰?」
「上司です。『OZ』の偉いひと」
「『OZ』? 魔法使いかなんか?」
微笑った。話し方はつっけんどんなのだが笑顔が可愛らしいのでどうも憎めない。
「オペレーション・ゼロアワー。『正午作戦』。わたしたちの属する組織。わたしそこの訓練生、内緒だけど」
その割には声が大きい。大陸は大雑把だなあ。ってカナダ人かなんかだっけ? この娘。
あかりは指を立ててしーっと言った。慌ててジュディが周囲を見回す。誰も気にしていないようだった。
「そういえば、力を使うな、って言ってたけど――どういうこと?」声は小さめだ。
「あなた悪い奴らに狙われてる。力使ったら居場所ばれる。使わなくてもいずればれるデス。MM油断できない。だからわたし囮になるためにきたデス」
「MM?」
「メディオス・メディオード。わたしたちの敵。能力者だけど能力者敵として見てる集団。つかまったら殺される」
眉根を寄せながらあっさりと物騒なことを言う。
「あんまりおだやかな話じゃないわね。でもいきなり捕まるだの殺されるだの言われても実感わかないわ。あたしなにも悪いことしてないわよ」
「無理ないデス。でもホントです。そうでなければ、わたしここにいない」
まあねえ、と言って少し黙った。しかしなにも風呂でなくても。
「……でも囮ったら、危なくない? 殺されちゃうんじゃないの?」
「わたし、これでも結構強い。簡単には捕まらないデス。わたしに何かあれば仲間来るし」
胸に手のひらを当てて言った。可愛い手。強そうには見えないがなあ。
「仲間? ……ってみんな『能力者』の?」頷く。
「OZの仲間、世界中にいる。能力者、年々増えてる。誰か言ってた」
同じ能力者の仲間。
なにかを思い出しそうになった。が、なんだかわからない。
「でも、やっぱり拳銃とか刃物とか使われるんじゃないの? 怖くない?」
「あんまり怖くない。わたし怖いもの生ガキだけ」しれっと言う。
「牡蠣?なんで怖いの? おいしいよ?」
「牡蠣怖い。あれのこーんなのが道に落ちてるとこ考えたら夜寝られないデス」
湯船の中で両手を広げた。
なんて返答していいかわからない。どうも調子狂うなあこの子。
なんだかのぼせてきた。
「……とりあえず、場所変えない?」
「あおぞら温泉」の休憩室は広い。
五十いくつもの長椅子が並んだスペースと、隣接する二十帖ほどのフリースペースでこちらは点々とふかふかの座布団が置いてある。これ以外にビーチチェアのある広い屋外スペースもあり、客は好きな場所で休憩できる。この休憩室の広さも売り物のひとつだった。
二人はフリースペースの隅っこに座布団を敷いて陣取っていた。
あかりは持参したクリーム色のスウェット上下、ジュディは備え付けのスカイブルーの部屋着。サイズが大きめなので袖が余っている。大人の服を着た子供みたいだ。
とりあえずスポーツドリンクを一気に飲んで一服。はーあ。
「で、あらましはわかったけど(あんまりわかってないけど)……MMとやらが敵だとして、OZやあなたがわたしの味方だとどうして信用できるの?」
あらたまって訊いた。ジュディの大きな目がくりっと上を向いてしばらく考えていた。
やがて戻って来た瞳があかりの顔をはったとにらみ据えた。
「――ホントです。この目を見てください」
じー。
いやそうじゃなくて。あかりは頭を抱えた。まあとりあえずいいや。
「訊き方変えるわ。敵がわたしをどうしたいかはわかったけど、OZはわたしをどうするつもりなの?」
ジュディはちろっとあさっての方を向いた。
「わたし実はそこよくわかってない。あかりさん、たぶん『レイジ』とコンタクトできるひと、らしい」
「『レイジ』?」
また疑問符だ。今日何回目だろ。あといくつ疑問符が必要なのかな今日は。
「人類を超えるもの。『レイジ』と出会うと人類は進化する。そう聞いてるデス」
頭から湧き出る疑問符が止まらない。
「進化? どんな風に? ゲームみたいに羽根が生えるとか。超能力……はまあいいか」
ジュディが困った顔になった。
「ごめんなさい、よくわからなくて。でも進化って言ったらあかりさんも進化したヒト、なのかも、ね」
うーん。黙った。
そんなこと考えたこともなかった。
能力を呪ったことなら何度もあった。両親を何度も恨んだ。
そういえば、と話を変える。ちょっと悲しい思いになりそうだった。
「――ジュディさんご両親は一緒なの?」
今度はジュディがちょっと悲しげに首を振った。
「パパはいない。ママはカナダ。付き添いの事務の人、お金とか面倒見てもらってる。ごはん自分で作るデス」
あ、と思った。独り、なんだ。
「訓練生、って言ったっけ。訓練する場所には友達とか、いるんじゃないの?」
また小さく首を振る。
「訓練、きびしいでした。小さいころからずっと訓練受けてきた。訓練と勉強。……友達いなかった。思い出すの辛いこと、みんなあるね。誰も話ししないね」
そっか、と言って黙った。横顔が少し寂しげだ。
独り。
――ひとの心なんか読んじゃだめ。何回同じことを言わせるの。
だって勝手に入ってくるの! ママ止めて! わたし読みたくない! 知りたくない!
――悪魔の子だってまさしのおばさんが言ってたぞ。近寄るなよ。
能力者はいつだって独りだった。ジュディもそうなのだ。
他に能力者がいたとしても、やはり独りであることに違いはないのだ。唇を噛んだ。
「つらいよね、わかる。むかし――わたしも、独りだった」
ジュディがあかりの顔を見た。
瞳の中に同じものが映っていた。
それは、この世で能力者だけが解りあえる哀しみだった。
手を差し出した。ジュディが握り返す。
掌から流れ込んでくる思い。辛かった記憶。届かない悲しみ。
ジュディの眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。あかりの眼からも。
「あかり、サン……わたし――」
あかりが頷く。顔を寄せる。
「いいのよ、あかりで。もう、友達じゃん。裸のつきあいしてるし」
そう、ネ、と言ってジュディも微笑った。
潤んだ大きな瞳が少し上目づかいであかりを見た。
「――あかり」
「ジュディ」
どちらからともなく手を握り合った。泣きながら二人で笑った。
わたしたちもう、独りじゃないよ。
※
何の札もない黒いガラス扉。
ギイが手にした金属の長い杖を扉の前にかざす。杖についた輪が澄んだ音を立てた。
音もなく扉が横に滑る。
薄暗い。天井からの照明が床の一か所だけを照らしている。
まるで被告席のようだ。毎回ギイは思う。光の中に立つ。
正面の壁際に石柱があり、その上には透明な球体がある。球体の中央が光り出す。
〈チェッカー・ギイ、報告を聞こう〉
球体から低い声がする。魂に浸透するような声だ。この声を聴くたびに身体が緊張するギイだった。
一連の状況について、かいつまんで報告した。
球体の光が息づくように瞬いている。
「――概ねは、以上です」
ほのかな光が灯ったまま、球体が黙っていた。
〈――少女を引続き監視したまえ。何者にも干渉させてはならない〉
再び声が響く。
「あの『攻撃』はあの娘と関係があるのですか?」
〈おそらくは〉
「……何を知っているのですか?『ビー・ディ』」
〈君が知る必要はない〉
球体がぴしゃりと言った。
無力感に苛まれる。もう一度向き直った。
「質問を変えます。近年、能力者が増えていることは『レイジ』と関連しているのですか?」
球体が少し黙った。
〈わたしの知るところではない、と言っても信じまいな〉
少し笑っているような口調だった。
〈――ないとも言えるしあるとも言えるだろう〉
「……どういう意味ですか、それは」
〈それ以上でも以下でもない。報告は了解した。職務に戻りたまえ、チェッカー・ギイ〉
ギイはうつむいた。
失礼します、と言って部屋を出た。
暗闇の中で球体だけがわずかに光っていた。
〈――レイジ〉
※
バトンガの腕輪がかすかに光った。
「ニオです」
「どうした」
「――ナイアが能力者の位置を捕えました」
バトンガの眼が鋭くなった。
「よし、手筈通りやれ。ジェンには気づかれるな」
「了解しました」
バトンガがにやりと笑った。
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