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【十二】
しおりを挟む部活が終わったらもう夕方だ。
あかりは河原の土手上のサイクリングロードをぶらぶらと歩いていた。
日中照りつけた太陽が働きすぎて疲れたような西日の色。長く伸びた自分の影をなんとなく見つめる。
陽光に照らされた向こう岸の広場で親子らしい人影がキャッチボールをしている。
空気の中にわずかずつ湿度が増してきた。もう間もなく梅雨だろう。
(修学旅行のレポートも終わったし、あとは中間テストか)
ぼんやり考えた。
川上から風が吹いてくる。緑が濃くなった岸辺の蒲の葉が揺れていた。髪を揺らす感触が心地いい。眼を閉じる。
何か聞こえる、風に乗って。
耳をすませた。――笛だ。笛の音がする。
どこだろう。川上に目をこらす。岸辺の公園の方からだ。少し早足になって歩いた。
近づいてくるにつれ、メロディが解ってくる。聞いたことがある曲だ。
あれは――『コンドルは飛んでいく』だ。
公園が見えてきた。
コンクリートでできた遊具の端が、突堤のように長く川側に張り出していて、その先端に座っている。
土手上から見下ろす格好になった。中学《うち》の制服の少女。
――ネコちゃんだ。
顔は川を向いていて見えないが、わかった。
土手を降りて行き、離れた場所からなんとなく見つめていた。
曲が変わった。
単純なメロディだが、静かな曲。同じセンテンスの繰り返し。
だが、聞いているとなんとなく心が洗われていくような、そんな深さがあった。
――いい曲。だけど、哀しい。
ネコが笛を放した。ゆっくりと、静かに歌いだす。吹いていたのと同じメロディだ。
Lai LaLai Lai LaLai Lai Lalai Lai……
Lai LaLai Lai LaLai Lai Lalai Lai……
歌が途切れた。静かになる。蒲の葉擦れの音がやけに大きく聞こえる。
近づいていく。わずかに草を踏む音がする。
ぱっとネコが振り向いた。一瞬、目が光ったがあかりの顔を認めるとなんとなく表情が緩んだ。
「ごめんね、邪魔して。遠くから笛の音が聞こえてきたから、気になって」
ネコは一見無表情に見えた。
だが、あかりの心には歌と同じ感情が流れ込んできていた。雨が滴り落ちて流れる小さなせせらぎになったような哀しみだった。
「その笛の音、綺麗だね。パンフルート、だっけ」
手元に目を落とす。長さの違う竹のような植物の筒ががまっすぐの束になっていて、二組ある。
「サンポーニャ」
ぽつりとネコが言う。あかりが少し首を傾げた。
「そういう名だ。二つでひとつ。出る音が違うんだ」
手の中で弄んだ。筒がぶつかって乾いた音を立てた。
「『コンドル』はわかったけど、もう一つはなんていう歌?」
ネコはあかりの顔を見ていた。疑念を目つきに変えようとして失敗したような目だ。
眼差しが遠くなった。あかりの顔の向こう側に手の届かないなにかが存在しているような顔だった。
「知らない。わたしは『ささやき』と呼んでる。――むかし父が歌っていた」
「お父さん……国にいるの?」
違う方を向いて首を振った。
「だいぶ前に死んだ。この笛は形見さ。葦で工芸品を作って売っていた」
あ、ごめん、と言って口に手をあてた。
ネコの眼が少しだけ下を向いた。
「兄弟とか、いないの?」
「たぶん、国にいる、と思うが、わからない。離れてだいぶ経つ。――なぜそんなことを訊く。あんたには関係ないことだろう」
顔を見つめて突き放したように言ったつもりだったようだが、失敗して半泣きみたいな顔になってしまった。ネコはついと横を向いた。
あかりが小さく頷いた。
「そうだよ。だけど、気になって。ネコちゃん、寂しそうなんだもん」
まただ。なぜだ。なぜわたしは言葉が出ないのだ。
ジュディに対するように、お前の知ったことか、と言えばいいのだ。
余計なお世話だ、と突っ張ればそれで終わりなのだ。
あかりがゆっくりと傍に近づいてきて、ネコの横に腰をかけた。
来るな。来ないで。来たら、わたしは。
言葉が出ない。
「あたしは、兄弟いないんだ。今は慣れたけど、寂しかったこともあったし。――独りで辛かったこともあったよ」
「今は?」
ネコの顔を真っすぐに見た。確かな笑顔。
「平気。友達がいるからね、たくさん」
ずきん、と胸がうずいた。
胸元を押さえようとする手を笛を握りしめて食い止めた。
不思議だよね、と言って足を振り出して小さく飛ぶように遊具から降り立った。
「――前は全然知らない人だったわたしたちが、今ここでこうしてるのって、さ」
ネコの眼を見つめる。素直な笑顔から目が離せない。見ないで。
「宇宙は可能性でできてる、って授業で聞いた。――明日不幸になるかもしれない。死んじゃうのかもしれない。でも、ならないかもしれない。みんな幸せになるのかもしれない。どっちになるか、どうなるのかわからないけど、わたしたちはいまこうして生きてる。たぶん、これってすごいことなんだろうって思ってる」
「ならなぜ、いまわたしたちはこうしているの?」
自分の素直な声に自分が驚いた。かろうじて表情を殺した。
「わたしたちがそうしたいと思ったから、じゃないかな。ネコちゃんはどうしたいと思う?」
わからない、という言葉が素直に出た。
「――そんなこと考えたことはない。わたしにはいつもしなければならないことがあった。小さいころは生きていくことしか考えていなかった」
一気に言った。そうしなければ、言葉に詰まりそうだった。詰まってしまったら。
「だから、いまは生きてることって、それだけで幸せなんだろうね、たぶん」
吐き捨てるように言ったつもりだったが、うまくいかなかった。
「生きてることが幸せだと信じるなら、どうなるのかわからないのなら、明日が幸せになるほうに賭けたっていいんじゃないか。あたしはそう思うようにしたんだ」
真っすぐにネコの眼を見つめた。
「――みんなと、一緒にね」
ネコの唇が震えていた。何かを言いたげに動いたが、言葉は出ない。
瞳が潤んでいく。
あかりが手を差し出した。笑顔のまま。
ネコの手が動く。ゆっくりとあかりに向かって伸びる。
あかりがその手を取ろうとした刹那、握りこぶしになった手が激しく戻って自分の胸元を叩いた。顔が斜め下を向く。
うっ、と聞こえるか聞こえないかのかすかな嗚咽。
唇をぎゅっと結んだまま、あかりに背を向け、振り切るように駆けだした。
走っていく後ろ姿で、手の甲が目をこするのが見えた。
手をあげたまま、あかりは動かなかった。
見送る以外、なにもできない自分が悲しかった。
(ネコちゃん……)
※
「おれだ」
ザキの画像が入る。
「なにかわかった?」
ギイは手を止めた。
「住んでるのは学校のある場所からふたつとなりの二丁目。アパートに親子で住んでることになっているが、親らしい人物を見かけた者はいないようだ」
ザキは言葉を切った。
「移民局のつてを当たってみた。親子三人で入国したことになってる。記録上は問題はない」
「能力者の仕業かしらね」
「かもしれん。機械をごまかすだけなら詐欺師でも金をかけりゃできなくはないが」
「張ってみた?」
「とりあえず機械を張り付けて記録を取ってみた。娘以外の人物が出入りしてる形跡がない」
「やはり、MMの関係者かしら」
少し間があった。
「おそらく間違いない、だろうな」
今度はギイが黙った。
「わかったわ、ありがと」
画像が消えた。
※
雨音が大きくなってきた。
トタン屋根に叩きつける雨粒があられをかき混ぜるような音を立てる。
打ち合う杖の音が雨音にかき消される。
叔父が踏み込む。正面で受ける。返して逆手。手元で弾かれる。上から来る。左へ払う。右から左、叔父が深い一歩。もう一歩。打込み、かわす。右から、左で受け。右を打つ。防がれる。同時に押される。回り込む。
――これじゃだめだ。
息を整える。間合いを離した。
踏み込もうとする叔父が足を止める。
集中。
雨音。樋を流れ落ちる水の音。――集中。
身体が音に同化していく。心が透明になる。
あかりの眼が半眼になる。足が自然に距離を取る。
踏み込んでくる足が影のように見える。一瞬後、踏み込んでくる。上から来る軌跡がまぼろしのように見える。刹那、上から来る。構えを動かさないまますっ、と右へかわす。
――見える。
左から来る軌跡。杖の向きを変える。左からの打込みを先端で受ける。がっ、と鋭い音が響く。
むっ、と叔父が唸って、跳び下がる。
正眼に構える。
左が見える。左から来る。受け、手元を返す。返る叔父の手を杖がかいくぐる。右へはじく。くるっと回った先端が叔父ののど元。寸前で止まる。
ぴたっ、と音がするかのように二人の動きが止まった。
「――む、参った」
叔父が驚いた顔になる。一瞬おいて、あかりが破顔した。
「えへへ、やったあ」
「すごいじゃないか、あかりちゃん。切っ先に邪念がない。まるで達人だよ」
「や、たまたまですよ、たまたま」
頭を掻いた。
「いやあ、すごいよ。道場継いでくれないかなあ」
手拭いで頭を拭きながら叔父が笑った。
「いやいや、とてもとても」
さあさあ、お茶が入りましたよ、と叔母が呼びに来た。
帰り道。雨はやんでいた。
黒い雲が南から北へ足早に流れていく。
いまやんでるだけで、また降るなあ。
閉じた傘をくるくると回しながら、ぼんやり考える。
(鍵はかかってた。でも杖や叔父の動く先が見えた。なんだったんだろ、あれ)
――あなた、あの自転車の鍵、どうやってはずしたの?
――内部の構造を透視して解錠したわけじゃないのね?
マリアンの声がよみがえる。もやもやしていたものが、何かの形をとる。
見えるんだ、わたし。
立ち止まった。空を見上げる。
力が強くなってる。
あの誘拐騒ぎのあとからだ。
――あたし、どうなってしまうんだろ。
空を黒い雲が往々と流れていく。
頬にぽつり、と雨粒が当たった。
※
「通りすがりにぶっ放しちまえば片がつきませんか」
ルスマが手を背中に組んで言う。
「殺意を感知されるな。ニオたちがそもそもへまを打ったのはそのせいだろう」
机に肘をついてバトンガが太い声を出す。
「遠距離から狙撃したらどうでしょう」
「ブツが高くつく。足もつきやすい」
「じゃあミラージュドローンを使うとか」
「お前が買うのか?」
ルスマが渋い顔になった。
「いっそのこと学校ごと吹っ飛ばしちまったらどうですかね」
そうできれば簡単だが、とバトンガが言って、座っている薮田の方をちらっと見た。
「学校とやらは思ったよりセキュリティが厳しいようだ。二十四時間機械監視、夜間は警備員もいる。もしうまく仕掛けられたとしても能力者が感知したらそれまでだ」
「ちっ、めんどくせえすね。なら、後つけて家に爆弾を」
「OZの見張りがついてることを忘れたか。家にも当然なにか手を打っているだろう」
むう、と言ってルスマが黙った。
バトンガが薮田をじろりと見た。薮田は手を頭の後ろで組んであさっての方を見ていた。
「なにか言うことはないのか」
「それじゃあ、まあ」
薮田が手をほどいた。よっこいしょ、と立ち上がる。
「――結論から先に言わせてもらいますと、あたしの方からはこれ以上ヒトもブツも出せません。シンジケートはこれ以上の人的コストは割けられないといってるんでね。それでなくても本部の警備に20人以上割いてますし」
ぶらぶらと歩きながら言う。
「おたくらが内輪でナニしようと勝手ですが、警察が出てくるような状況になっちゃ話は別だ。この国の警察は優秀が売りですからね。万一下手こいてブツでも押さえられたらあたしらはこれなんで」
人差し指で首をぴっと横に払った。
バトンガの目がぐいっと動いた。
「おまえ、協力する気があるのか」
薮田はそしらぬ顔をしている。
「あたしをにらんでも金は湧いてきませんよ。今までだって十分協力してるはずですがね」
ふん、とバトンガが口を曲げた。
「あたしらはボランティアでやってるわけじゃない。ビジネスだから儲けが出るうちは協力しますよ。しかし爆弾だのライフルだのあんたらの発想はコストが高すぎる。おたくらにとっちゃ大事かもしれませんが、あたしに言わせりゃたかが小娘一匹の話ですからね。とてもじゃないがそんな金はかけられませんな。ハエ一匹殺すのに家燃やすバカがどこにいる、って話です」
言葉を切ってバトンガの方をちらっと見た。
「それとこれは忠告ですが、ジェンさんたちともうちょっと話の擦り合わせをしたらどうですかね。あたしゃ金になればどうでもいいんでどっちとも話しゃしてますが、どうもおたくらは無駄なコストかけすぎのような気がしますぜ」
バトンガの目が天井を向いた。しばらく黙っていた。
「わかった。下がってろ」
ごつい手をひらひらと動かした。
薮田は肩をすくめて部屋から出て行った。
「どうしますか」ルスマが顔を寄せる。
おれが出る、とバトンガが言った。
「ひとつ策を思いついた」
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