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一話完結
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わたし……「セラ」は、街外れの教会に住んでいる。歳は九つ。あかぎれの指を折って数えたら、両手で一本だけ残る。髪と肌はいつも灰色に汚れていて、色が無い。
朝は修道女より早い。わたしは下女なので、お祈りの前に井戸から水を運ばなければならない。とても重くて、時間がかかる。
祭壇へ知らせにいく頃にはみんなお祈りが終わって、すぐに次の仕事を言いつけられる。わたしもお祈りをしたいけど、祭壇のほうを見ただけで修道院長のイメルダさまに「けがらわしい目を向けるなっ」と頬を打たれてしまう。
一日が終わって、寝る場所に戻る。石の階段を地下へと降りて行った倉庫。ここでやっと、ごはんだ。いまの季節はお部屋が寒いんだけど、おなかに入れると、ちょっとあったかくなって眠れる。塩のスープとパン。今日は久しぶりに、にんじんがある。
わら束の間に挟まるようにして寝ると、寒さがやわらぐ。うとうとしていたら、ネズミさんがチュウって言って遊びに来た。しっぽが切れているいつもの子だ。手に載せると、ほんのりあったかくて……ついつい、涙がこぼれてしまった。
下女だから、修道女と違うからと教えらてきた。それに、イメルダさまは言う。「親無し子はいやしき存在。だから罰を受けるのだ」と。だからわたしは〝そういうもの〟なんだと思っている。
でもこの間、イメルダさまが叩いている時に顔が笑っているのが見えて、とても怖くなった。それから、考えるようになってしまった。いやしいって、何なのだろう。なぜわたしは、罰をうけるのだろうって───
─────────
今日もたくさん叩かれた。泣きも怖がりもしない無表情で、叩きがいが無いと言われて、余計に。ふらふらと、何とか地下室へ戻って……すぐに寝そうだったけど、それでも食べなきゃと思って、置いてあったスープとパンを何とか飲み込んだ。
ネズミさんがまたやってきた。ごめん、今日はもう疲れてお話できない。そう言おうとしたら……何かの端っこを噛んで、一生懸命ずるずると引っ張ってきた。古びたノート。あちこち折れ曲がり、すり切れ、黄ばんでいる。
ネズミさんはつぶらなおめめで読んでほしそうにしている。何故だか、そう思う。字は読めないけど……何かに引っぱられるような気持ちで手に取った。
炭のようなもので消えそうに書かれた、大きな字。表紙を見るなり、ぼんやりと光ったように見え……身体中がとてもとても、熱くなった。そうしたら不思議なことに、何が書いてあるかがわかるようになった。
『たすけて』
目に飛び込んできた、とても怖い言葉。だけどめくる手は止まらない。中身は……どうやら、前にここにいた誰かの書き記しのようだ。
"2月7日 今日もイメルダさまに、他の子たちよりもいっぱい叩かれた。私の髪が赤いのが不吉だからだそうだ。"
"2月15日 イメルダさまが「前のガキもその前もすぐしんだが、あの〝赤毛〟は長持ちだ、もっと殴ってもよさそうだ」と談話室で笑いながら言っているのを聞いてしまった。いつか自分もと思うと、震えが止まらない。"
"2月20日 しんだ子供たちは、裏庭に埋めたと言っている。私も埋められるかもしれない。このことを誰かに知らせないと。幸いにも私は読み書きができる。この盗んだノートが、頼みの綱だ"
"2月22日 おなかを蹴られた。ずっと痛くて苦しい。せっかく書いたのに、もうだめかも。誰かが、いつか、これを───"
ここで途切れている。読み終えて、涙が止まらなくなった。声が出そうなのを、一生けんめい手で押さえる。わたしだけじゃなかった。罰なんかじゃなかった。それどころか、ここではずっと、わたしのようにスラムから下女として引き取られた子が、いっぱい叩かれてしんでいたんだって。とてもとても、胸が苦しくなった。
格子窓から差し込む月明り。ふと、照らし出されている自分の髪を見て驚いた。いつもの灰色に汚れた色が、真っ赤に染まっている。まるで血をかぶった……いや、違う。これは燃える炎の色だ。ノートに手を当てると、いっそう伝わってくる。赤毛の子の想いが。力を貸すから〝私〟のかわりに誰かに伝えてくれという、しんでも消えない願いが。
ノートを胸に抱き……考えた。どうすれば、これを教会の外へ持って行けるだろうか。昼間はずっとイメルダさまをはじめ、修道女たちの目が光っていて動けない。ましてやこんなものを持っていたら、すぐに取り上げられてしまう。
じゃあ夜はどうだろう。教会の扉は施錠されていて、わたしでは内側からでも解けないようになっている。外へ出ていくのは無理だ。
違う。もっともっと考えよう。昼よりもましなこの暗がりの中で出来ること───そうだ。自分が出ていくのでなく、誰かを呼ぶのなら。たったひとつ、出来ることがある。
ノートを抱え、そっと階段を上がっていく。誰もいない祭壇。少しだけ祈りを捧げ、その向こうの階段へと足音を忍ばせていく。ゆっくり、ゆっくりと、一段ずつ。きしむ音にも気を付けて。
二階、修道女たちの居室が並ぶ廊下を抜け、鐘楼に入るらせん階段へ。施錠は無く鎖が渡してあるだけで、十分忍び込めた。そう。わたしが思いついた外へ知らせるやり方は、この時間に鳴らないはずの鐘を鳴らすこと。そうすれば、かならず街の人たちが集まってくる。その時こそ───
だけど、甘かった。鐘を揺らして鳴らすための、大きく重々しい鉄のハンドル。子供のわたしでは、とても回すことなどできない。ここまで来て……がっくりと膝をつき、心が折れるのを感じた。
でもその時。胸に抱えたノートが、ぱぁっと光を放ち始める。そして聞こえた、確かに。「〝二人〟でやれば、きっと回る」と。
勇気を出して。ハンドルに両手をかけ、力任せに引き下ろす。歯を食いしばって、無い力を全て振り絞って。すると……少しずつ、ぐいぃと下がり……そのままぐるり一回転、鐘を釣る軸へと伝わった。
『ゴオオーン……ゴオオーン……』
夜の闇をつらぬくように、太く高く響き渡る。次いでわたしの、頭の先からつま先までを震わせる。二回、三回。手の力が無くなるまで回す。ほっとひと息が出た。あとは、街の人たちが集まってくれることを、信じるだけ。
階下から、ばたばたと駆け上がってくる足音が聞こえる。そうだ、ぼおっとしてはいられない。まだ捕まるわけにはいかないから。わたしは鐘楼から屋根のほうへと飛び降りた。
屋根の端までよたよたと行き、振り向く。狭い鐘楼から一人現れたのは、イメルダさまだった。すぐにわたしに気が付き、するどく睨みつけた。
「お前っ、いったい何をやっているっ」
同時に、教会下から人の声が聞こえ始める。街の人たちが、集まってくれている。わたしは湧き上がる力に任せ、下に向かって、あらんばかりの声を振り絞って叫んだ。
「たすけてぇーっ! イメルダさまに、ころされるっ。〝ほかの子たち〟と同じように、ころされて、裏庭に埋められるっ!」
ガタッと、屋根を踏む音が響く音。イメルダさまが、こっちへゆっくりと近づいてくる。凍る目でわたしをとらえ続けながら。
「なぜ、知って……───っ! お、お前っ。その〝赤い髪〟はぁっ」
イメルダさまは驚きのあまり、後ずさりした。わたしは、はっと気が付き、髪をつかんで見た。そうだ。あの子は今も力を貸してくれている。一緒に戦ってくれている。わたしはノートを上に掲げ、叫んだ。
「ここにぜんぶ、書いてあるっ。この教会で隠されたことぜんぶ、しんだ子が、命をかけてっ」
「それをぉっ、よこせぇぇーっ!」
悪魔のように顔をゆがめたイメルダさまは、歯をむき出し、捕まえようと両の腕を大きく広げた。しかし、すんでのところで横へ逃げたわたしをつかみ損ね───
「──っ! ぁああ───っ!」
勢いあまって足を滑らし、屋根から落ちる。わたしも屋根の端へと転がっていく。
先に……下の暗闇から、どさり、と鈍く重い音が聴こえてきた。わたしも、かろうじて縁をつかんでいたものの……もう幾らも力が残っておらず、すぐに手が離れた。
ゆっくりと、暗闇に落ちていく。死ぬ。でも怖くない。ふっと顔に笑みが浮かぶ。わたし、やり遂げたから───
「───……?」
力強くて柔らかな何かに、しっかりと包まれる。背中があたたかい。薄目を開けると……わたしを抱きかかえる男性の、安心したような顔が見える。そして次々に集まってくるカンテラと、照らし出される街の人たちの顔。そこで、目を閉じた───
─────────
知らない天井が目に入ってくる。ここはどこだろう。ぎこちなく身体を起こすと、白いベッドの上にいた。教会の地下じゃない、あたたかい木組みの壁に囲まれて。
やがて扉が開き、おばさんが桶を抱えて入って来た。わたしを見てたいそう驚いたけど、すぐに笑顔になった。手を添えられ、ゆっくりとベッドの縁に腰掛けると、桶の水でわたしの身体をやさしく拭き始めた。
わたしは、助かった。落ちたところをこの家のおじさんが受け止めてくれたそうだ。それから丸二日間も、ここで眠っていたという。
おばさんはわたしを着替えさせると隣に座り、いろいろと教えてくれた。鐘を鳴らした翌朝、衛兵の人たちがたくさんきて、修道女たちの手を縛って連れ出したこと。裏庭を掘ったこと。そして……イメルダさまがしんでしまったこと。
かなしいわけでも、うれしいわけでもない。ただぽっかりと、胸に穴が開いたような気持ちだった。これからどうなるのかもわからない。
ぼんやりするわたしの背中をゆっくりと撫でながら、おばさんは言った。わたしたちと一緒に住まないか……と。
─────────
わたし……「セラ」は、街外れの農家の家に住んでいる。歳は十。指を折って数えたら、ちょうど全部なくなる。髪はブロンドで、白い肌にほんのりとピンクが差す。
毎日畑仕事をしながら「おとうさん、おかあさん」と笑って過ごしている。笑えるようになったから。
この間、衛兵さんが〝ノート〟を持って訪ねてきた。あの一件を伝える品として置いていたところ、知らぬ間に中の字がぜんぶ消えてしまったのだという。それで……何故かわたしに託そうという話になったのだとか。不思議な話だと笑っていたけど、わたしには〝わかる〟。
あちこち折れ曲がり、すり切れ、黄ばんでいる。そっとめくると……本当に、そこにはもう一文字も残っていなかった。しっぽが切れたネズミさんも、肩にちょんと乗って、一緒に見てくれている。
ページはいっぱいある。……そうだ。わたしのことを、ここに書こう。いまなにをしているか。これからどうするのか。この真白を埋め尽くすまで。きっとあの子も読んでくれると、信じて───
~Fin~
朝は修道女より早い。わたしは下女なので、お祈りの前に井戸から水を運ばなければならない。とても重くて、時間がかかる。
祭壇へ知らせにいく頃にはみんなお祈りが終わって、すぐに次の仕事を言いつけられる。わたしもお祈りをしたいけど、祭壇のほうを見ただけで修道院長のイメルダさまに「けがらわしい目を向けるなっ」と頬を打たれてしまう。
一日が終わって、寝る場所に戻る。石の階段を地下へと降りて行った倉庫。ここでやっと、ごはんだ。いまの季節はお部屋が寒いんだけど、おなかに入れると、ちょっとあったかくなって眠れる。塩のスープとパン。今日は久しぶりに、にんじんがある。
わら束の間に挟まるようにして寝ると、寒さがやわらぐ。うとうとしていたら、ネズミさんがチュウって言って遊びに来た。しっぽが切れているいつもの子だ。手に載せると、ほんのりあったかくて……ついつい、涙がこぼれてしまった。
下女だから、修道女と違うからと教えらてきた。それに、イメルダさまは言う。「親無し子はいやしき存在。だから罰を受けるのだ」と。だからわたしは〝そういうもの〟なんだと思っている。
でもこの間、イメルダさまが叩いている時に顔が笑っているのが見えて、とても怖くなった。それから、考えるようになってしまった。いやしいって、何なのだろう。なぜわたしは、罰をうけるのだろうって───
─────────
今日もたくさん叩かれた。泣きも怖がりもしない無表情で、叩きがいが無いと言われて、余計に。ふらふらと、何とか地下室へ戻って……すぐに寝そうだったけど、それでも食べなきゃと思って、置いてあったスープとパンを何とか飲み込んだ。
ネズミさんがまたやってきた。ごめん、今日はもう疲れてお話できない。そう言おうとしたら……何かの端っこを噛んで、一生懸命ずるずると引っ張ってきた。古びたノート。あちこち折れ曲がり、すり切れ、黄ばんでいる。
ネズミさんはつぶらなおめめで読んでほしそうにしている。何故だか、そう思う。字は読めないけど……何かに引っぱられるような気持ちで手に取った。
炭のようなもので消えそうに書かれた、大きな字。表紙を見るなり、ぼんやりと光ったように見え……身体中がとてもとても、熱くなった。そうしたら不思議なことに、何が書いてあるかがわかるようになった。
『たすけて』
目に飛び込んできた、とても怖い言葉。だけどめくる手は止まらない。中身は……どうやら、前にここにいた誰かの書き記しのようだ。
"2月7日 今日もイメルダさまに、他の子たちよりもいっぱい叩かれた。私の髪が赤いのが不吉だからだそうだ。"
"2月15日 イメルダさまが「前のガキもその前もすぐしんだが、あの〝赤毛〟は長持ちだ、もっと殴ってもよさそうだ」と談話室で笑いながら言っているのを聞いてしまった。いつか自分もと思うと、震えが止まらない。"
"2月20日 しんだ子供たちは、裏庭に埋めたと言っている。私も埋められるかもしれない。このことを誰かに知らせないと。幸いにも私は読み書きができる。この盗んだノートが、頼みの綱だ"
"2月22日 おなかを蹴られた。ずっと痛くて苦しい。せっかく書いたのに、もうだめかも。誰かが、いつか、これを───"
ここで途切れている。読み終えて、涙が止まらなくなった。声が出そうなのを、一生けんめい手で押さえる。わたしだけじゃなかった。罰なんかじゃなかった。それどころか、ここではずっと、わたしのようにスラムから下女として引き取られた子が、いっぱい叩かれてしんでいたんだって。とてもとても、胸が苦しくなった。
格子窓から差し込む月明り。ふと、照らし出されている自分の髪を見て驚いた。いつもの灰色に汚れた色が、真っ赤に染まっている。まるで血をかぶった……いや、違う。これは燃える炎の色だ。ノートに手を当てると、いっそう伝わってくる。赤毛の子の想いが。力を貸すから〝私〟のかわりに誰かに伝えてくれという、しんでも消えない願いが。
ノートを胸に抱き……考えた。どうすれば、これを教会の外へ持って行けるだろうか。昼間はずっとイメルダさまをはじめ、修道女たちの目が光っていて動けない。ましてやこんなものを持っていたら、すぐに取り上げられてしまう。
じゃあ夜はどうだろう。教会の扉は施錠されていて、わたしでは内側からでも解けないようになっている。外へ出ていくのは無理だ。
違う。もっともっと考えよう。昼よりもましなこの暗がりの中で出来ること───そうだ。自分が出ていくのでなく、誰かを呼ぶのなら。たったひとつ、出来ることがある。
ノートを抱え、そっと階段を上がっていく。誰もいない祭壇。少しだけ祈りを捧げ、その向こうの階段へと足音を忍ばせていく。ゆっくり、ゆっくりと、一段ずつ。きしむ音にも気を付けて。
二階、修道女たちの居室が並ぶ廊下を抜け、鐘楼に入るらせん階段へ。施錠は無く鎖が渡してあるだけで、十分忍び込めた。そう。わたしが思いついた外へ知らせるやり方は、この時間に鳴らないはずの鐘を鳴らすこと。そうすれば、かならず街の人たちが集まってくる。その時こそ───
だけど、甘かった。鐘を揺らして鳴らすための、大きく重々しい鉄のハンドル。子供のわたしでは、とても回すことなどできない。ここまで来て……がっくりと膝をつき、心が折れるのを感じた。
でもその時。胸に抱えたノートが、ぱぁっと光を放ち始める。そして聞こえた、確かに。「〝二人〟でやれば、きっと回る」と。
勇気を出して。ハンドルに両手をかけ、力任せに引き下ろす。歯を食いしばって、無い力を全て振り絞って。すると……少しずつ、ぐいぃと下がり……そのままぐるり一回転、鐘を釣る軸へと伝わった。
『ゴオオーン……ゴオオーン……』
夜の闇をつらぬくように、太く高く響き渡る。次いでわたしの、頭の先からつま先までを震わせる。二回、三回。手の力が無くなるまで回す。ほっとひと息が出た。あとは、街の人たちが集まってくれることを、信じるだけ。
階下から、ばたばたと駆け上がってくる足音が聞こえる。そうだ、ぼおっとしてはいられない。まだ捕まるわけにはいかないから。わたしは鐘楼から屋根のほうへと飛び降りた。
屋根の端までよたよたと行き、振り向く。狭い鐘楼から一人現れたのは、イメルダさまだった。すぐにわたしに気が付き、するどく睨みつけた。
「お前っ、いったい何をやっているっ」
同時に、教会下から人の声が聞こえ始める。街の人たちが、集まってくれている。わたしは湧き上がる力に任せ、下に向かって、あらんばかりの声を振り絞って叫んだ。
「たすけてぇーっ! イメルダさまに、ころされるっ。〝ほかの子たち〟と同じように、ころされて、裏庭に埋められるっ!」
ガタッと、屋根を踏む音が響く音。イメルダさまが、こっちへゆっくりと近づいてくる。凍る目でわたしをとらえ続けながら。
「なぜ、知って……───っ! お、お前っ。その〝赤い髪〟はぁっ」
イメルダさまは驚きのあまり、後ずさりした。わたしは、はっと気が付き、髪をつかんで見た。そうだ。あの子は今も力を貸してくれている。一緒に戦ってくれている。わたしはノートを上に掲げ、叫んだ。
「ここにぜんぶ、書いてあるっ。この教会で隠されたことぜんぶ、しんだ子が、命をかけてっ」
「それをぉっ、よこせぇぇーっ!」
悪魔のように顔をゆがめたイメルダさまは、歯をむき出し、捕まえようと両の腕を大きく広げた。しかし、すんでのところで横へ逃げたわたしをつかみ損ね───
「──っ! ぁああ───っ!」
勢いあまって足を滑らし、屋根から落ちる。わたしも屋根の端へと転がっていく。
先に……下の暗闇から、どさり、と鈍く重い音が聴こえてきた。わたしも、かろうじて縁をつかんでいたものの……もう幾らも力が残っておらず、すぐに手が離れた。
ゆっくりと、暗闇に落ちていく。死ぬ。でも怖くない。ふっと顔に笑みが浮かぶ。わたし、やり遂げたから───
「───……?」
力強くて柔らかな何かに、しっかりと包まれる。背中があたたかい。薄目を開けると……わたしを抱きかかえる男性の、安心したような顔が見える。そして次々に集まってくるカンテラと、照らし出される街の人たちの顔。そこで、目を閉じた───
─────────
知らない天井が目に入ってくる。ここはどこだろう。ぎこちなく身体を起こすと、白いベッドの上にいた。教会の地下じゃない、あたたかい木組みの壁に囲まれて。
やがて扉が開き、おばさんが桶を抱えて入って来た。わたしを見てたいそう驚いたけど、すぐに笑顔になった。手を添えられ、ゆっくりとベッドの縁に腰掛けると、桶の水でわたしの身体をやさしく拭き始めた。
わたしは、助かった。落ちたところをこの家のおじさんが受け止めてくれたそうだ。それから丸二日間も、ここで眠っていたという。
おばさんはわたしを着替えさせると隣に座り、いろいろと教えてくれた。鐘を鳴らした翌朝、衛兵の人たちがたくさんきて、修道女たちの手を縛って連れ出したこと。裏庭を掘ったこと。そして……イメルダさまがしんでしまったこと。
かなしいわけでも、うれしいわけでもない。ただぽっかりと、胸に穴が開いたような気持ちだった。これからどうなるのかもわからない。
ぼんやりするわたしの背中をゆっくりと撫でながら、おばさんは言った。わたしたちと一緒に住まないか……と。
─────────
わたし……「セラ」は、街外れの農家の家に住んでいる。歳は十。指を折って数えたら、ちょうど全部なくなる。髪はブロンドで、白い肌にほんのりとピンクが差す。
毎日畑仕事をしながら「おとうさん、おかあさん」と笑って過ごしている。笑えるようになったから。
この間、衛兵さんが〝ノート〟を持って訪ねてきた。あの一件を伝える品として置いていたところ、知らぬ間に中の字がぜんぶ消えてしまったのだという。それで……何故かわたしに託そうという話になったのだとか。不思議な話だと笑っていたけど、わたしには〝わかる〟。
あちこち折れ曲がり、すり切れ、黄ばんでいる。そっとめくると……本当に、そこにはもう一文字も残っていなかった。しっぽが切れたネズミさんも、肩にちょんと乗って、一緒に見てくれている。
ページはいっぱいある。……そうだ。わたしのことを、ここに書こう。いまなにをしているか。これからどうするのか。この真白を埋め尽くすまで。きっとあの子も読んでくれると、信じて───
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