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三 後世畏るべし
一
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一つの出来事が、目に映る風景を一変させることがある。
山崎嘉右衛門は、白刃の一閃のように、春常が眺めていた世界がまとう羅を切り裂いた。
嘉右衛門という名乗りは朱子の名である朱熹の「熹」の字から、闇斎という号は朱子の号「晦庵」から取ったそうだ。「晦」は闇という意味だ。朱子を奉じること、それほどに激しかった。
店主は事情を知らないのだと釈明したが、それは事実ではなかった。かれが「世儒剃髪弁」といった文章を綴り、名指しこそしていないものの、「僧形の儒者」を―――つまりは祖父羅山や父春勝を厳しく批判しているということを、春常は後になって知った。
『孝経』という経書がある。文字通り「孝」の道を説いたもので、孔子が弟子の曽子に語ったものとも、曽子の門弟が伝えたものとも言われ、日本でも古く「養老令」において、学生が読むべき書として挙げられている重要経典である。
山崎は江戸に下る以前、既に孝経に関する書を数冊出版していたが、「孝経に題す」として、こう語った。
「彼の剃髪の腐儒子、信ぜず、聖門に此の経有ることを」
あの剃髪の腐れ儒者どもは、儒学の基本経典たる孝経すら理解していない。
また言う。
「道なるものは綱常のみ。世のいはゆる儒者、記覧を務めて聖賢博学の言に寄せ、詞章を為りて、詩書、道を載するの文に託す。是を以て綱常の道、遂に明らかならずして、仏氏の教へに化せざる者、未だ之れ有らざるなり」
儒者が明らかにすべき正しき道、それは君臣・父子・夫婦間の道徳である「三綱」と、仁義礼智信、すなわち「五常」、ただその二つのみである。ところがどうだ。世に儒者としてはびこる者たちは、ただ古典を暗記して聖賢の言う博学だと言い、修辞で飾り立てた文を綴っては、それがあたかも『詩経』や『書経』のごとく、道を伝える文であるような得意顔だ。「儒者」がそんな有様だから、綱常という正しき道が世に広まらず、むしろそれを破壊する仏の教えがあたかも尊いものように幅をきかすのではないか。
僧とは話したくないと言い切り、大名の呼び出しを非礼なりと撥ね付けた上方の儒者は、真の儒者たらんとする気概を―――あるいは、真の儒者「たる」自負をひっさげて、そしてそれだけを恃みに、単身この江戸へ乗り込んできたのだった。
「賣を待つ者」―――論語の一節を引き、仕えるに足る者を待っていると呟く春勝は、今の林家の有り様を、良しとしていた訳ではなかった。儒者に僧形をとらせるという屈辱を強い、儒道に関心もなく、儒者のことをただ古典を知り漢文の読み書きができるただの物知り、物読み坊主として扱う幕府に仕えることには忸怩たる思いがあったに違いない。恐らく、家康から剃髪を命じられた祖父も、そして浮屠とは話したくないという言葉に、唇を噛みしめた兄春信も。山崎の指摘に対して、春常は虚を突かれ口を開けているだけだったが、兄は父の心情を思い、野の学者とは違う、と父を励まそうとさえした。
春常は、その林家の次男坊として生まれた。嫡男である兄春信とは一歳違いだ。だがその年齢差以上に、兄はいつも、春常の遙か先を行っていた。祖父羅山と春信はちょうど六十歳違いで、同じ干支の生まれになる。自らも早熟だったという祖父は、この孫の聡明さを、「この子はわたしにそっくりだ」と喜んだ。家族の皆がそれを当たり前に思うほど、兄は早熟な子供だった。
春常には、兄に追いつこうという考えさえなかった。ただずっと、ひたすらにその背を見つめながら、歩いて行ければいい。願っていたのは、ただそれだけだったのだ。
※
山崎嘉右衛門は、白刃の一閃のように、春常が眺めていた世界がまとう羅を切り裂いた。
嘉右衛門という名乗りは朱子の名である朱熹の「熹」の字から、闇斎という号は朱子の号「晦庵」から取ったそうだ。「晦」は闇という意味だ。朱子を奉じること、それほどに激しかった。
店主は事情を知らないのだと釈明したが、それは事実ではなかった。かれが「世儒剃髪弁」といった文章を綴り、名指しこそしていないものの、「僧形の儒者」を―――つまりは祖父羅山や父春勝を厳しく批判しているということを、春常は後になって知った。
『孝経』という経書がある。文字通り「孝」の道を説いたもので、孔子が弟子の曽子に語ったものとも、曽子の門弟が伝えたものとも言われ、日本でも古く「養老令」において、学生が読むべき書として挙げられている重要経典である。
山崎は江戸に下る以前、既に孝経に関する書を数冊出版していたが、「孝経に題す」として、こう語った。
「彼の剃髪の腐儒子、信ぜず、聖門に此の経有ることを」
あの剃髪の腐れ儒者どもは、儒学の基本経典たる孝経すら理解していない。
また言う。
「道なるものは綱常のみ。世のいはゆる儒者、記覧を務めて聖賢博学の言に寄せ、詞章を為りて、詩書、道を載するの文に託す。是を以て綱常の道、遂に明らかならずして、仏氏の教へに化せざる者、未だ之れ有らざるなり」
儒者が明らかにすべき正しき道、それは君臣・父子・夫婦間の道徳である「三綱」と、仁義礼智信、すなわち「五常」、ただその二つのみである。ところがどうだ。世に儒者としてはびこる者たちは、ただ古典を暗記して聖賢の言う博学だと言い、修辞で飾り立てた文を綴っては、それがあたかも『詩経』や『書経』のごとく、道を伝える文であるような得意顔だ。「儒者」がそんな有様だから、綱常という正しき道が世に広まらず、むしろそれを破壊する仏の教えがあたかも尊いものように幅をきかすのではないか。
僧とは話したくないと言い切り、大名の呼び出しを非礼なりと撥ね付けた上方の儒者は、真の儒者たらんとする気概を―――あるいは、真の儒者「たる」自負をひっさげて、そしてそれだけを恃みに、単身この江戸へ乗り込んできたのだった。
「賣を待つ者」―――論語の一節を引き、仕えるに足る者を待っていると呟く春勝は、今の林家の有り様を、良しとしていた訳ではなかった。儒者に僧形をとらせるという屈辱を強い、儒道に関心もなく、儒者のことをただ古典を知り漢文の読み書きができるただの物知り、物読み坊主として扱う幕府に仕えることには忸怩たる思いがあったに違いない。恐らく、家康から剃髪を命じられた祖父も、そして浮屠とは話したくないという言葉に、唇を噛みしめた兄春信も。山崎の指摘に対して、春常は虚を突かれ口を開けているだけだったが、兄は父の心情を思い、野の学者とは違う、と父を励まそうとさえした。
春常は、その林家の次男坊として生まれた。嫡男である兄春信とは一歳違いだ。だがその年齢差以上に、兄はいつも、春常の遙か先を行っていた。祖父羅山と春信はちょうど六十歳違いで、同じ干支の生まれになる。自らも早熟だったという祖父は、この孫の聡明さを、「この子はわたしにそっくりだ」と喜んだ。家族の皆がそれを当たり前に思うほど、兄は早熟な子供だった。
春常には、兄に追いつこうという考えさえなかった。ただずっと、ひたすらにその背を見つめながら、歩いて行ければいい。願っていたのは、ただそれだけだったのだ。
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