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四 天、予を喪せり
六
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叔父の死を、そしてその後の道のりを思うとき、春常が思い出す風景がある。
最初の月命日が過ぎて、数日が過ぎた頃だった。
書庫から私室に戻ると、先刻まで春常が座していた場所に春信が座っていた。文机の上には、書が開いたままになっている。
珍しいことでもなかった。春常も春信も、互いの部屋には特に断りなく出入りしていたし、特に不快に感じたこともない。
「兄上?」
呼びかけると、春信は座ったまま春常を見上げた。その厳しい眼差しに、春常はわずかにたじろいだ。
兄は、このひと月で少し痩せた。元々色が白く細身ではあったが、それでも十八歳の若者らしく丸みを帯びていた頬が削げて、やや硬質な印象になった。大人の男の顔になったと見えなくもなかったし、訪れる弔問客の中には、実際そのように春信を評する人もいた。だが起居を共にしている春常から見ると、多忙すぎる兄は食も細くなりがちで、成長したというより、やはり心労の方が大きかったのではないかと思う。
春信は嫡男としての強い使命感で父を支えていた。分けても内向きのことでは多くその代理を務めた。父を失った守勝の遺児たち―――すなわち春信には甥に当たる子供たちの世話と教育に当たり、そして守勝という一つの柱を失った忍岡の学び舎の事も、自分の責任として取り組もうとしていた。
文机に載っているのは、読みかけの『大家商量集』だ。春常は参考書を取りに書庫へ行ったのである。
『大家商量集』は、山崎闇斎―――かの儒者の著書だった。
「兄上………?」
兄は優しく穏やかで、ほとんど怒るということがなかった。冷静かつ公正、そして寛大だった。十代で既に大人の風格があると評された。
こんな険しい顔をすることは、滅多になかった。
春信は、文机の上の書を断りもせずに閉じた。表紙は鮮やかな朱色をしている。それも「朱熹」の名にあやかったという話だ。かれは、それほど純粋で熱烈な、朱子の信奉者だった。
「理」をひたすら追究する朱子学の徒からは、林家の学はただの物知り、記章と詩文の雑学に過ぎないという批判が、以前にも増して聞かれるようになっていた。商人が調度品を商うごとく、権力者の御用聞きを務める俗儒であり、俗世の地位を得るために僧の形まで取る呆れた腐儒子―――
江戸で活動する山崎が、あらためて声高にそう主張したという訳ではない。だが独立不羈、誰にも仕えずにあくまで一人の師、儒者として立ち続けるその姿そのものが、林家の在り方への痛烈な糾弾であった。
「つね」
呼びかけて、春信は少し間を置いた。
「駄目だ」
それだけ言って、春信はしばらく黙り込んだ。
「駄目だよ」
「………うん」
春常は小さく頷く。
兄の言わんとすることを、春常は漠然と感じ取っていた。春常よりも遙かに聡明だった春信は、儒としての林家の有り様のもつ曖昧さ、矛盾を、きっと春常以上に痛感していたに違いない。痛感してなお、林家の嫡子として歩もうとしていた。
「叔父上が亡くなった今、ぼくたちが父上を助けないと」
うん、と春常は再び頷いた。
「頑張るよ」
平凡な言葉を返すと、兄は小さく吐息を漏らしたようだった。小さく頷き返し、黙って部屋を出て行った。
※
最初の月命日が過ぎて、数日が過ぎた頃だった。
書庫から私室に戻ると、先刻まで春常が座していた場所に春信が座っていた。文机の上には、書が開いたままになっている。
珍しいことでもなかった。春常も春信も、互いの部屋には特に断りなく出入りしていたし、特に不快に感じたこともない。
「兄上?」
呼びかけると、春信は座ったまま春常を見上げた。その厳しい眼差しに、春常はわずかにたじろいだ。
兄は、このひと月で少し痩せた。元々色が白く細身ではあったが、それでも十八歳の若者らしく丸みを帯びていた頬が削げて、やや硬質な印象になった。大人の男の顔になったと見えなくもなかったし、訪れる弔問客の中には、実際そのように春信を評する人もいた。だが起居を共にしている春常から見ると、多忙すぎる兄は食も細くなりがちで、成長したというより、やはり心労の方が大きかったのではないかと思う。
春信は嫡男としての強い使命感で父を支えていた。分けても内向きのことでは多くその代理を務めた。父を失った守勝の遺児たち―――すなわち春信には甥に当たる子供たちの世話と教育に当たり、そして守勝という一つの柱を失った忍岡の学び舎の事も、自分の責任として取り組もうとしていた。
文机に載っているのは、読みかけの『大家商量集』だ。春常は参考書を取りに書庫へ行ったのである。
『大家商量集』は、山崎闇斎―――かの儒者の著書だった。
「兄上………?」
兄は優しく穏やかで、ほとんど怒るということがなかった。冷静かつ公正、そして寛大だった。十代で既に大人の風格があると評された。
こんな険しい顔をすることは、滅多になかった。
春信は、文机の上の書を断りもせずに閉じた。表紙は鮮やかな朱色をしている。それも「朱熹」の名にあやかったという話だ。かれは、それほど純粋で熱烈な、朱子の信奉者だった。
「理」をひたすら追究する朱子学の徒からは、林家の学はただの物知り、記章と詩文の雑学に過ぎないという批判が、以前にも増して聞かれるようになっていた。商人が調度品を商うごとく、権力者の御用聞きを務める俗儒であり、俗世の地位を得るために僧の形まで取る呆れた腐儒子―――
江戸で活動する山崎が、あらためて声高にそう主張したという訳ではない。だが独立不羈、誰にも仕えずにあくまで一人の師、儒者として立ち続けるその姿そのものが、林家の在り方への痛烈な糾弾であった。
「つね」
呼びかけて、春信は少し間を置いた。
「駄目だ」
それだけ言って、春信はしばらく黙り込んだ。
「駄目だよ」
「………うん」
春常は小さく頷く。
兄の言わんとすることを、春常は漠然と感じ取っていた。春常よりも遙かに聡明だった春信は、儒としての林家の有り様のもつ曖昧さ、矛盾を、きっと春常以上に痛感していたに違いない。痛感してなお、林家の嫡子として歩もうとしていた。
「叔父上が亡くなった今、ぼくたちが父上を助けないと」
うん、と春常は再び頷いた。
「頑張るよ」
平凡な言葉を返すと、兄は小さく吐息を漏らしたようだった。小さく頷き返し、黙って部屋を出て行った。
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