遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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八 先聖殿にて

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 春常は六義堂を出て、秋草の揺れる庭を歩いた。そして春信の墳墓に詣でるために、先聖殿へ続く長い階段へ向かった。春信の墳墓は、先聖殿の向こう、弘文院山荘の北の奥に、祖父羅山や叔父守勝ら、家族のものと並んで築かれている。
 春信の死から十日が過ぎた。国史館も弘文書院の私塾も、活動を停止している。弔問に訪れる客も少し落ち着き、山荘は人影もなくひっそりとしていた。
 ふと目の端に、何かが引っかかった。先聖殿の方を仰ぐと、黒羽織をまとった人影が、階段を登ってゆくのが目に入った。
 あの人だ。
 遠目に、何故そうと悟ったのか判らない。それは春常の願望であったのかもしれなかった。だが咄嗟に春常は駆けだしていた。階段にたどり着き、ただ必死に、遠く歩みを進める姿を追う。
 階段を登ってゆく、男の歩みは早い。春常は息を切らして走っているというのに、急いでいる様子もない男に中々近づけない。むしろ遠ざかってゆく印象さえあった。
 待って下さい。
 呼びかければ声ぐらいは届いただろう。だがそうしてはならない気がした。春常はただ全力で走った。
 先聖殿の扉は、朝には開かれ、夕べに閉じられる。男は階段を登り終え、大きく開かれた建物の前に立った。中へ続く石段に進もうとして、そこで足を止め、振り返った。春常はようやくかれに追いついた。
 山崎嘉右衛門。真っ直ぐに人を射貫く眼差しは、初めて会ったときと変わらない。
 春常が初めてその名を聞いたときには、江戸に出てきたばかりの無名の浪人儒者だった。あれから八年。毎年江戸へ下ってくるかれは、着々と大名の知遇を得て、儒者としての信頼と名声を勝ち取っていった。そしてついに幕府の実力者で、深い学識を持つ元大老、保科正之にも認められるに至った。
 その身を飾る、身分も地位も称号もない。だが保科をして「あれほどの賢者を厚遇しないとなれば、徳川の治世の汚点となる」とまで言わしめ、家老以上に厚遇されるに至ったかれの声望は、ある意味では父春勝以上のものだった。誰にも仕えず、賓師として立ち続ける毅然としたその姿は、屹立する峻厳な山のようだ。
 かれはゆっくりとした足取りでこちらへ歩み寄り、春常の前に立った。そういえば、僧形で会うのは初めてのことになる。叔父は僧侶ではない、と珍しく声を荒げた兄の声が思い出され、春常は緊張した。
「林春常どのか」
 重々しい声で言った。
 八年前に出会ったとき、春常は十五歳の少年で、言葉さえ交さなかった。まして今は剃髪し、僧形となっている。それでもかれは春常の面差しを覚えていたのか、さらりと名を口にした。いや、毎年江戸へ出てきているのだから、どこかで見かけていたのかもしれない。
 いずれにせよこの言葉が、かれに掛けられた最初の言葉だった。
「はい」
 緊張しながら春常が応えると、山崎はわずかに目礼した。
「兄君のことは、誠に気の毒であった」
 染み入るような声だった。
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