遠き道を -儒者 林鳳岡の風景-

深川ひろみ

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八 先聖殿にて

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 山崎はゆっくりと石段を登った。春常はその後に続く。聖堂内に入る前にまた刀を外し、壁に立てかけて置いた。小さく目礼して、かれは中に入った。
 晩秋九月の暖かい日であった。弱い日射しを背に受けながら、かれは奥へ歩みを進める。春常は黙ってその後に随った。十五歳で初めて出会った頃には、その姿を見上げて歩いた。二十三歳になった今、身長はかれに並んだ。
 日の射さぬ奥に入ると、黒羽織をまとったかれの姿は、一個の影のようになった。
「六年前、幕府より資金を賜って建て替えました」
 周知のことだとは思ったが、一応春常は説明した。八年前がそうだったように、山崎は相槌を打たず、春常を見もしない。孔子の神主と塑像の手前に設けられた、漆塗りの階の前で立ち止まった。そして、像を仰いだ。
 長い時間、そうしていた。
 絶やさぬ香の白い煙が漂っている。涼しい匂いが流れてきた。
「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)ひて治む」
 がらんとした堂内に、山崎の静かな声が落ちた。
「兄君に案内を受けた時の先聖殿は、西に向いて建てられていた」
 少し間があった。
「敷地が池の方向へ西向きになっているからかとは思うたが、南面してあるべき先聖殿を敷地の都合で西向きとしたかと、つい西向きかと呟いた。すると兄君は即座に、やはり南向きであるべきですかと問うてきた。兄君もまた、日頃から感じていたことだったのだろう」
 丁重に拝礼して、山崎は顔回の像の前に移った。春常はその後に続く。
 そういえば、そんな会話があった。当時、兄も面白いことを訊くものだと感じたことを覚えている。浮屠とは先聖先師の前に立てぬ、と厳しい口調で言い切ったかれが、兄を「儒の者」と認識したのは、あの会話があるいは最初であったのかもしれない。
 六年前、先聖殿の改修のためとして幕府より費用を賜った春勝は、山荘の正面を南向きとするよう、敷地の構成を大幅に造り替えた。新しい先聖殿は南向きとなった。
「書院も書庫も、兄君はわたしを案内した。まだ若い兄君が、自ら作り上げたものは恐らくなかっただろう。だがここに育とうとしている儒道の芽を大切に思い、自分なりにそのあるべき姿を求めている事は、態度から十分に伝わった。先聖殿の建物のこと、書庫に納められた大量の書物のこと、学び舎のこと―――ただ父の膝下で漫然と時を過ごしているだけであったなら、突然訪れた者を、あのようには案内は出来まい」
 顔回の像を仰ぎ、山崎はしばらく黙っていた。孔子の愛弟子であった顔回は、四十歳で早世した。最も愛された弟子は、その師よりも三十歳以上年少だったが、二年先だって死んだ。孔子の嘆きは深く、礼を超えた悲痛な慟哭を、門下から咎められたと伝わる。
「あなたの叔父君が麒麟児と評し、いずれはこの者が、幕閣における儒の道を確かなものにすると語ったた事も、あるいは遠からずかとも思ったものだった。その叔父君も亡くなられたと聞く」
 わずかな間があった。
「実に、惜しいことであった」
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