この世界のどこかで息をする私たちは

茉白いと

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第1章

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 あれから、図書館近くのイートインスペースがあるコンビニでおにぎりを二つ買い、胃に流し込んでは、閉館の音楽が流れるまでずっと図書館に居座った。
 ただいま、ではなく、お邪魔します、と口にして入った玄関には、咲子さんが近場に行くときに愛用している白いサンダルが一足置いてあるだけだった。
 この時間に誰もいないということは、皆でご飯を食べに行っているのだろう。
 玄関を通り抜け、誰もいないキッチンを横目に、自室へと逃げ込むようにして駆け上がる。それからベッドへと大胆にダイブしては、全身の力を抜いた。誰の目を気にしなくてもいいこの時間が、心を和らいでいく。

「ただいま、お母さん」

 ベッドから見える勉強机の上には、優しく微笑む母の写真が置かれている。
 花が好きな人だった。幼いころの夢を叶え、小さな花屋を営み、私のことを女手一つで育ててくれた。母が生きていたころは、よく病院に行った。病院の花壇の植え替えを手伝うことが楽しみで、それから病院にいた子たちと遊ぶことも楽しみの一つだった。
 その中でもよく遊んでくれたのは、二人の姉妹。つーちゃん、うみちゃん。そう呼ぶと二人はいつも笑ってくれて「待ってたよ」と私を歓迎してくれた。
 その交流が途絶えたのは、母が亡くなったとき。
 交通事故に遭ったと電話を受け、急いで病院に駆け込んだ。数時間前まで花について熱く語っていた人が、白く冷たい花のようになっていた。亡くなったと知ったとき、私は泣いていなかったという。
 ロビーに座り、知らない子と楽しそうに話していたという。

『母親が亡くなったっていうのに、あの子、ロビーで受験の話をしたのよ。どこどこを受けるって笑って話してるのが気味悪くて』

 母の葬式が終わって、咲子さんが電話で誰かと話しているのが聞こえた。
 正直、母が亡くなったあとの記憶は曖昧だった。誰かと話していた時間はあると思うけど、笑って話すような人なんていなかったように思う。

「ねえ、お母さん。情けない娘でごめんね」

 写真を見ながらそう語りかけても、声が聞こえることはない。
 母はずっと微笑んだまま、変わらずずっとそこにいる。
 そのまま意識を失うようにその場で眠りにつく。
 誰もいない。母の写真だけがあるこの空間で、疲れ切った心に休息を与えていくように現実から離脱した。

『お母さんはね、遼希がいてくれるだけで幸せなの。こうやってぎゅーって抱きしめられることがほんとうにうれしいの。遼希、だいすきだよ』
『遼希もお母さんのことだいすき。ずっと、だいすき』

 ふっと、部屋の天井が映った。
 寝ていたのだと気付くと、目のあたりが濡れていた。
 泣きながら目が覚めたのは久しぶりだった。
 寝ても覚めても、私の頭の中にはいつだって母がいる。
 悲しくて、苦しくて、当たり前のように過ごしていた毎日が、当たり前ではなくなってしまうことが今でも受け止められないでいた。
 もう会うことも言葉を交わすこともできない。母は、もういない。
 ねえ、お母さん。
 体をぎゅっと丸め、膝を抱える。
 話を聞いてほしい。何か言ってほしい。私の側にいてほしい。


 
「悪いね、結局萩野ちゃんしか集められなくて」

 地域清掃のため学校にやってきた私に、高津先輩は面目ないと謝った。

「こういうのは暇人の私に任せてください」
「心強いなあ、助かる。萩野ちゃんがいなかったらと思うと恐ろしいよ」
「あれ、でも柊くんは誘ってなかったんですか?」

 今日は彼が水やりの当番だった。今頃学校に来ているだろうと思ったのに、今のところ姿が見当たらない。律儀に水やりをしにくるあの隠れ優等生なら、こういった集まりにも参加しそうだけど。

 私の問いかけに高津先輩は「ああ」とうなずく。

「行かないって言われたんだ。面倒だってハッキリ言われたよ」

 後頭部を掻くその仕草に、そうですか、と受け止める。
 面倒と言えば、花壇の水やりだって同じように思うけど、柊くんにとっては中身が違う話なのだろうか。地域清掃と花壇の水やりでは話が違うのかもしれない。

「だから二人で悪いんだけど、さっさと終わらせてささやかな打ち上げでもしよう」
「いいですね、頑張ります」

 それから町のボランティアである人たちに軽く挨拶を済ませ、決められた場所へとゴミ袋とトングを装備しては向かった。
 朝とはいえ、さすがに夏真っ盛り。汗をかきながら、それでもゴミに集中しているこの時間は別に嫌いではなかった。こんなとき、柊くんはどんな顔で歩いているのだろう。面倒だと思っているのか、それとも熱心にゴミを集めているのか。

「食べたいものある? 今日のお礼になんでも奢るよ」

 地域清掃はお昼前に終わり、学校に戻ってからは高津先輩と昼食をとることになった。

「え、いいですよ。好きで参加しただけですから」
「奢らせてもらえないと俺の気が済まないんだよ。ここは先輩にかっこつけさせて」

 どこまでもいい人なのだなと思わず尊敬の念を抱いてしまう。
 そんな気負わなくてもいいのに。律儀な面でいうと、高津先輩も柊くんとある意味よく似ているのかもしれない。

「じゃあ──」

 私が行きたいといった店舗の前で、高津先輩は「本当にここでいいの?」と聞いた。

「食べたいものは自由でいいと思うだけど、それならもう少し別の店でも」
「行きたかったんです。期間限定のスイーツが気になってて」

 高津先輩が打ち上げ場所に選んだ店は、なんだかきっちりとしているような店ばかりだった。口コミが高評価で、と話してはくれたけど、高校生が気軽に入れるようなお店に思えず、結局コンビニに行きましょうと提案した。

「これです、ふわとろ大福。家の近くのコンビニだといつも売り切れてるので」
「へえ、美味しそうだね。俺も食べてみようかな」

 ぜひ、とおすすめをして、高津先輩に奢ってもらった。何度か、これだけいいのかと確認をされたけど、ささやかな打ち上げとしては十分だった。
 近くの公園に入ると、ちょうどお昼時だからか子供は一人もいなかった。ベンチに座って、大福を頬張る。美味しい。

「萩野ちゃんが食べたいって言ってただけあっていいね」

 ですよね、と共感しながらあっという間に平らげると「萩野ちゃんって彼氏いるの?」と高津先輩が言った。

「えっ」

 食べ終わっていてよかった。口の中にあったら、あやうく喉に詰まっていた。

「あ、いきなりだよな。ごめんごめん、純粋にただ気になっただけで深い意味はないんだけど」
「ええと、いないです。高津先輩こそいないんですか?」
「俺もいないよ。もし萩野ちゃんに彼氏がいたら、こういう時間とかも俺で申し訳ないなと思ったりしてさ」
「そんなことないですよ、なんか高津先輩とこういう話をするって新鮮ですね」

 今まで部活のことでお世話になることが多くて、会話も土がどうとか花の話ばかりだった。こうしてお互いの恋愛に踏み込むようなことはなかったから、なんだか気恥ずかしい気分にもなるけれど。

「じゃあ新鮮ついでに、萩野ちゃんは将来のこととか考えてる?」

 高津先輩はそうではないのか、話はどんどん深くなっていった。

「将来は……あまり真剣には考えてないかもしれないですね」
「まだ二年だもんな。俺もそうだった。大学進学するのは決めてたけど、何したいかっていうのはさっぱり」
「高津先輩は将来のこと考えてますか?」
「まあ一応。人生設計みたいなのは立ててる。いつまでに結婚して、とか」

 結婚。高校三年生でもうそこまで考えている人がいるのか。
 一つ歳が違うだけで、見えている世界はずいぶんと違うらしい。いや、高津先輩が特別なのかもしれない。

「すごいですね。さすがに結婚とかは考えたことなかったです」
「はは、俺も言ってるだけで彼女すらいないから。結婚できんのかって思ってるけど」

 男女問わず人気で、顔も整っている爽やか好青年であれば、それこそ彼女の一人や二人いたっておかしくはないというのに。
 その帰り道。高津先輩がさざなみ駅まで送ってくれるというのにお言葉に甘え「じゃあ」と告げた。

「俺と付き合ってくれないか?」

 最後にそんな言葉が待っていたとは思わず、思考が停止してしまった。
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