この世界のどこかで息をする私たちは

茉白いと

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第2章

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 どうして告白されたんだろう、私。
 高津先輩と別れてそのまま帰宅した。そのあとは、風呂場でひたすら冷水を頭からかぶっている自分に気づきハッとした。身体があまりにも冷たくなっていて感覚がない。それでも、頭の中は、どうしてだろうという高津先輩への疑問だけだった。

『好きなんだ、萩野ちゃんのこと』

 そう言われて動揺した。私に向けられているのだと思うと、途端に高津先輩と目が合わすことが難しくなった。

『……私のことがですか?』
『もちろん萩野ちゃんのことだよ』

 眉を下げ困ったようにはにかむその顔に、どんな反応を見せれば正解なのか導き出せない。あの高津先輩が私を? とても信じられるようなものではない。

『もちろん、今、返事が聞きたいと思ってるわけじゃないんだ。萩野ちゃんとこうして話せるのは今しかないのかもって思ったから伝えておきたくなった』

 真剣なその眼差しはとても私をからかっているようには見えない。

『考えてみてほしい。せっかくだから夏休みの間、俺に時間をくれるとうれしい。その、好きになってもらうように努力したいっていうか』
『あ、いや。高津先輩は今でも十分です』
『いいんだ、気を遣わなくて。萩野ちゃんのこと好きだから、好きな相手が自分を好きじゃないってことぐらいは分かってるつもり』

 だから時間がほしいと、そう言っていた高津先輩に、私はぎこちなく何度かうなずいてみせた。
スマホが振動し、メッセージの受信を知らせる。

【今日は楽しかった、ありがとう。無事に家に着いた? あと、今考えても、あれはいきなりすぎたよな、困らせてごめん。今日は疲れただろうから、ゆっくり休んで】 

 高津先輩から届いた律儀な文面は、さっきまでの時間が嘘だったのではないかという不安を吹き飛ばすようなものだった。

【ありがとうございました。さっき家に着いたところです。おやすみなさい】

 送信したあと、すぐに返信がきたけれど、それを見る気力はなかった。
 誰かにきちんと告白されるということは、もっと特別なものだと思っていたし、もっと嬉しいものだと思っていた。それなのに心が動かない。
 今朝まで、今日がこんな日になることなんて知らなかった。
 ボトボトと髪から水が落ちていく。丸みを帯びて、重力に逆らうかのように床へ水滴を作っていく。
 髪を乾かすことも服を着ることも面倒になってしまって、何もかもがどうでもいいと思えてしまう。
 こんな時、誰もいない世界にいきたくなる。
 けれど、そんなことはできないから息を止めてみる。


 翌日は私が水やりの当番だった。きっと、毎日水をやる必要はないのかもしれないけれど、家を出る口実になるなら、なんでもよかった。
 いつものさざなみ駅で降りて、ベンチに座る。
 よく、母とこうして空を見上げていた。
 仕事が忙しくてなかなか休みが取れなかった母だけど、たまに電車に乗って出かけるのが好きだった。
 母はずっといるものだと思っていた。
 ずっとずっと、私が大人になっても、母はいてくれるものだと思っていた。
 そんな人が、あっけなく死んでしまった。
 誰かの目がないと、深くまで沈んでいく自分を止められないような気がする。
 どうしようもなく叫びだしたくなる時があって、まるでゲームのバグが起こったみたいに、現実なのかどうか分からなくなる瞬間に突き落とされる。その度に生きていることが怖くなってしまう。

「あれ、なんでいんの」

 意識が現実に戻される。ホームの中で響く雑音の中で、柊くんが立っている。

「なんでって……むしろなんで柊くんがここにいるの? 今日の水やり私だよ」
「そうだっけ。まじか、もっと寝てればよかった」

 とは言いつつ、大して後悔もしていないような顔で柊くんが隣のベンチに座る。

「じゃあ今日俺がやるから、明日譲るよ」
「どうして?」
「そしたら明日は寝てられるから」
「そういうことか。ぜんぜんいいけど」

 どうせ図書館に行くだけの日々。口実ができればなんでもいい。
 学校に行かないのだろうかと柊くんを見やれば、向こうも同じようにこちらを見ていて戸惑った。

「何?」
「こっちの台詞。帰らねえのかよ」
「まだ。柊くんこそ学校は?」
「お前がここにいると、またホームに落ちていきそうだからこえーんだよ」

 ああ、そういうことか。だから柊くんはここにいてくれようとする。私を死なせないために。

「やだなあ、落ちないよ。あれはほんと、たまたまだから」
「じゃあ、たまたまってことにしといてやるから、さっさと帰れよ」
「……そうだね。帰ろうかなあ」

 でも、帰る場所はどこなんだろう。少なくともあの家ではない。心優しい百合子を、これ以上悲しませたくない。

「なんだよ、帰りたくねえのか」
「もう少ししたら帰る。大丈夫、ちゃんと帰るから」
「じゃあ帰るまでここで見張っといてやる」
「見かけによらず過保護なんだね、柊くんって」
「うっせ」

 人のことを放っておけないんだろうな。優しいな、柊くんは。

「何笑ってんだよ」
「なんでもない。ねえ、柊くんは人生設計考えてたりする?」

 透けてしまうような金髪がゆらりと動く。何度か瞬きを繰り返したその目は、次第に思案していく顔つきへと変わる。

「んなもんは考えたことない」

 なんだよいきなり、と悪態をつかれると思っていたけれど、意外と真面目に答えてくれるらしい。

「けど、将来の夢はあった」
「あった?」
「そう。でも呆気なく消えて、今は何になりたいかすらも分かんね」

 彼にもきちんと夢というものがあったのか。呆気なく消えたという言い方に引っかかるが、そこまで私が踏み込んではいい領域なのかは見定められない。

「……夢ってさ、これから見つかったりするのかな」
「なんでそんなこと聞くの?」

 子供の頃に夢はあった。将来何になるの、と母がよく聞いたから。だから答えた。これになりたい。そう言うと母が喜んだから。けれど、その夢はいつの間にか消えていた。

「なんだろう、人生設計の話を聞いたからかな。そういうのをもう考えてる人が、同じような年代でいるんだなあと思って」
「人生設計ってあれか。どこどこの会社に入社して、何歳で結婚して、子供ができて、とかっていうもんだろ? じゃあ思うけど、設計通りに生きていける人間って、どれぐらいいるんだろうな」

 それは、考えたことがなかった。
 人生設計を立ててることが大前提で、計画しておくことがどこか当たり前なのだと思っていた。少なくとも高津先輩はそうだった。
 けれど、自分が考えた人生通りに進んでいく人なんて、もしかしたら少ないのかもしれない。

「お前は考えてんの?」
「ううん。考えてなかったから聞いてみた」
「じゃあ将来の夢は?」

 子供の頃、描いていた未来を思い出し、口にするのを躊躇ったけれど、

「何になりたかった?」

 柊くんの純粋な瞳に、声がするすると出ていった。

「花屋かなあ」
「花が好きなのか?」

 学校の花壇に咲いている花を思い出す。ううん、と首を振った。

「私じゃなくて、お母さんがね。花が好きな人だから」
「あんたにも母親っているんだ」
「そりゃあいるよ」

 もういないけどね、と続けるのはやめた。そんなことを言ったどころで、気まずい雰囲気を作るだけだ。
 会話が途切れ、自然と空を見上げた。今日もまた飛行機雲が流れていた。前回のものに比べて濃い。

「あ、ボーイング七三七」

 え、と声が洩れた。隣を見れば、同じように空を見上げていたらしい。その空を見ている横顔が言う。

「あれの機種の名前」
「詳しいんだ、飛行機」
「まあ好きだからな」

 彼にも好きなものがあるのか。そう思ったところで、ついさっき彼が言ったセリフを思い出す。「あんたにも母親っているんだ」きっとこういう感覚だったのだろう。

「大体の飛行機の機種、言い当てるのが特技」
「それはすごい特技だ」
「別にすごくない。好きな食べ物を忘れないように、俺にとって飛行機は同じ感覚」

 同じか。言われてみれば、好きなものは自然と覚えるし、好きでいる限り忘れてもいかないのだろう。
 青い空に白い飛行機雲が爽やかに引かれていく。
 夏の空を、誰かと見上げる日が私にもあるんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
 あんなにも心が疲れていたのに、柊くんと見た空があまりにも清々しくて、いい意味で全てどうでもいいなと思える。

「飛べるっていいよな」
「……うん」

 羽がある鳥を見て羨ましいと思うように、柊くんも飛行機を見て、飛べることへの憧れを抱いていることにうれしくなった。
 母を想って見る空とはまた別の、新しい空を見た気がして、心がずいぶんと晴れやかさを覚えていた。
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