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第二章
(7)
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衝撃を受けたのは、その翌日のことだった。
加古から風邪をひいたから休むとの連絡を受けた朝から、教室に来るまでの間に、普段と違うことが起こっているのだろうなという予感はしていた。人の視線には昔から敏感だったから。けれどその要因が、こんな風に待っているとは思いもしなかった。
「さすがにこれは可哀想」「あ、ほら。来たよ」「どうするの……あ、やばい目が合ったかも」
空はどんよりとした雲がかかっていた。雨が降ってきそうな憂鬱さが広がっていて、その空気の中で何かが起こっている。
好奇心、同情、興味本位。
クラスメイト全員の視線の先は私と、それから黒板。そこには私の半目写真とともに〝逢坂くんが好きでーす〟と白いチョークで書かれていた。
——絶句した。
言葉を失い、どうしてこうなっているのか受け入れることができない。
奇妙な視線は全てこれが原因だったと思えば全身から血の気が引いていくような感覚に襲われる。ここ以外にも色々な場所で貼られているかもしれない。そう思うと確認をしなければと思うものの足が凍ったように動かない。
この写真は、昨日櫻井さんと一緒に撮ったもの。
それが私だけくり抜かれている。これは櫻井さんの仕業だろうか。……いや、何の証拠もないのに決めつけてはだめだ。昨日は気まずいながらも、あれから他愛もない話を繰り広げ、笑顔で「また明日」と別れたはず。
とにかく黒板の写真を剥がさないと、文字を消さないと。
そう思うのに周りが怖くて見られない。笑われているような気もすれば、同情されているような気もする。
……動け、動け動け動け動け。
すっと、わたしの横を通っていった白シャツが視界の端に移る。
その人物は教卓前へと立ち、躊躇うことなく写真を剥がしていく。片手には同じような写真が何枚か握られ、それを潰すように丸めていく。
黙って黒板消しを手にし、白いチョークの文字を乱暴に消した。
「気にすんな」
慰めの言葉だけが温かな雨のように落とされる。動けない私に対して変わりに動いてくれたのは紛れもなく——逢坂くんだった。
情けなく立っている私を一瞥したかと思えば、教室内を見渡す。
「誰、こんなくだらないことやったの」
普段の逢坂くんとは思えないような、嫌悪感しかない声がざわめく教室に響いた。呆れたその物言いは抑揚もなく、酷く冷めたような口調。
恐る恐る顔を上げれば、彼と視線を合わせないよう各々で顔を見合わせ、まるで関係といった素振りを見せている。
代わり映えしない日常に刺激を得た者達は、きっと登校した者同士で和気藹々と話をしていたのだろう。決してこの中に犯人がいるとは思いたくないが、この話で笑っていた人達はほとんど全員なのかもしれない。
黒板の前に立つ彼は静かな息を一つ吐き出す。
「笑ってるんじゃなくて、同じクラスメイトなんだから剥がすの手伝ってよ」
いつもの逢坂くんを取り戻したかのような口調で皆に訴えかけると、教室の空気がふっと軽くなったような気がする。
彼の普段見せないような顔に動揺を隠しきれない様子を浮かべながらも「そ、うだな…」と口を揃え教室を出ていくクラスメイトの後ろ姿をただ何も言えずに見つめる。
「何ボーっと突っ立ってんの」
「……え」
「真っ先に剥がしに行けよ、自分の写真なんだから」
私だけに聞こえるだけの声色で、再びブラック逢坂に戻る。
「逢坂くん……それ」
彼の左手に握られている数枚の写真は紛れもなく黒板に張られていたものと同じ。ここに来るまで剥がしてきてくれたのだろうか。私の言葉に反応するように、視線を自分の手元に移し「ああ」と続けたかと思えば「本当にこれぶっさいくだな」と慰めでもフォローでもない、ただの悪口が飛び出してきた。
「いや……まあぶさいくなのは重々承知だけど」
「ぶさいくでおまけに半目って何だよ、ぶっさいくだな」
馬鹿にしたような顔で三度目の「ぶさいくだな」発言。
この一分にも満たないよう短い時間で「ぶさいく」だと連呼されたのは人生で初めてだ。もしかすると、そんな言葉を言われたことですら初めてかもしれない。まじまじと見つめては、感心するように「どうしようもないなあ」と続ける。
どうやらこの男には、か弱い女の子を寛大な心で慰めてあげるという思考がないらしい。
そもそも優しくしてもらおうなんてこれっぽちも思っていないけども。それでもやっぱりこんなときぐらいは胸を貸してほしいと思うもの。本当に貸してほしいなんて思わないけど。
不意に写真が視界に入ると、気分がぐっと落ちる。やっぱりどうしても胸が痛む。
誰がこんなことをしたというのか。どうしてこんなことができてしまうのか。
私に恨みを抱いている人間なのは確かなはずなのに、これは何かの間違いなんじゃないかとも都合良く思ってしまいたい自分がいるのも事実で。
何かの拍子で出回ってしまった写真なんじゃないかと。誰もそんな悪意なく、たまたま写真を貼っただけなのでは、と。
……分かっている。あまりにもそれは無理があることを。これが自分の身に起こっていることだと、どうしても思えないのは、嫌がらせをされたという事実を認めたくないだけ。
「だから言っただろ」
教卓に行儀悪く腰をかける逢坂くんは呆れたように後頭部をかく。
「あの女はやめとけって」
「……あの女って」
──櫻井さん。
あの女、と言われた瞬間すぐに思い浮かんでしまった。何度打ち消そうとしたって消えてくれない。彼女の姿は色濃く脳裏に焼き付いてしまっている。
「櫻井さんじゃ……」
彼女ではない。彼女じゃない。彼女だと決めつけるのはまだ早い。
「こんな状況でよく言えんな」
頭上から降りかかってくるのは手厳しい言葉の数々。
「あんただって本当は分かってんだろ」
自分にとって都合のいい解釈は、ことごとく消されていく。現実を突きつけられていく。
「こんなことしたのはあいつしかいないって」
彼女がこんなことするわけない。何かの間違いだ—と、もう思えない自分がいた。
ストレート過ぎる彼の言葉は、私の頭の中で優しく微笑みかけてくれる櫻井さんの顔を見事に切り刻んでくれるだけの効果があった。
「前に、櫻井から告白をされたことがある」
面倒くさそうに、逢坂くんは思い出したくもないような顔で語る。
「当然見るからに性格悪そうで付き合う気なんてさらさらないから断ったけど」
「性格悪そうには……」
「あんたが見抜けないだけ。まあ、そんなことはどうでもよくて」
「どうでもいいとは……」
「あとから聞いた話、俺が櫻井の告白を断った以降、俺と距離が近くなる女には嫌がらせ行為をしていたらしい」
「え……」
「俺はなんとなく噂でしか聞いてなかったし、距離が近くなるって言っても少し話した程度なんだろうけど、自分のプライドが許せなかったのか、ことごとく嫌がらせをして鬱憤を晴らしていたって噂」
あの櫻井さんが? なぐもんと気さくに話しかけてくれていた、あの櫻井さんが?
どうしても今の話と私が知っている櫻井さんと一致しないのは、信じたくないからなのか。
「だから忠告した」
「……それは」
「案の定、しっかり嫌がらせされやがって」
深くつかれた溜息に何も言えなくなる。逢坂くんはきっとこうなる事を見越していた。だからあのとき、「あの女はやめとけ」と教えてくれたのだ。
「よくあるパターンだろ。友達が少なそうな奴がなぜかクラスの人気者の男子と仲良くなって、そのあとに可愛いと噂される女子が嫌がらせをしてくる、みたいな話」
「自分でクラスの人気者って言っちゃうんだね……」
「事実だから」
よくあると言えばよくある。そこに自分が巻き込まれているとは思わないだけで。
「……教えてくれたのに、ごめん」
「俺にはあれだけ強気でこれるのに、どうして他のことになると気が弱くなるんだよ」
「それは……」
感情的になったから。誰かに対してあれだけかっとなることもなかった。
それがたまた逢坂くんだっただけということ。
でも、それは〝たまたま〟で片づけてしまっていいのだろうか。それで、正しいのだろうか。
「……わからない。でも、私はロボットじゃないから、あんなこと言われたらイラッとするよ」
「ロボット、ねえ」
「なに?」
「いや、いいんじゃねえの。それで」
なんとなく、そこに大事な意味が含まれているような気がして、でもどうしてそう思うのか、突き止めることができない。
「あんたが言ってたことも分かりたいって思った」
写真をビリビリと破りながら、丸めてゴミ箱へと放り投げる。放物線を描いたそれが、吸い込まれるように入っていった。
彼は動けない私に代わって黒板の字まで消してくれた。
「噂に惑わされず見たものを信じようとするって、今どき聞いたことねえから。そこまで必死になるぐらいなら、あんたの考えも優先すべきだって思っただけ。選んだものにとやかく言うつもりはない」
誰もいない教室で、彼だけが私の味方になってくれたような気がする。そのことが、痛みきった心に染み渡っていき、じわっと目頭が熱くなっていくのを感じた。
「は、泣いてんの?」
ぎょっとする彼に、ぶんぶんと首を振り否定するものの、溢れ出るそれらはもう、抑えることはできなかった。
「この一瞬で涙と鼻水の大洪水を起こすなよ」
「ハンガヂを……」
「図々しいな」
ぶっきらぼうな彼の優しさに涙腺が見事に崩壊してしまった。嫌悪感マックスの彼の顔なんて今はどうでもいい。
ハンカチはないからと、ポケットティッシュを一個まるっとくれたので構わず鼻をかむ。
「あんた……場所を弁えろよ」
「うっ……無理」
「何でもっと泣くんだよ!」
「感動して」
「何に」
「ざ、ぐらいざんに」
「なんでだよ!」
今回もしこれが本当に櫻井さんがやったことだとすれば、逢坂くんの優しさにこうして触れることは出来なかった ——そう、無理に肯定的に捉えることで、私は前に進めるような気がした。
憤りも感じるけど、そこに固執してしまっては何も成長ができないことを私は知っている。その場限りの感情は、人間を、人生を、あまりにも簡単に壊滅させていくから。
本当なら彼女に殴り込みにいきたいぐらいだが、そんなことをしたところで私は小さいままの人間で終わってしまう。
「ざぐらいさんっ、う……あ、ありがどう」
「俺に感謝しろよ!」
「ざぐらいさああああん」
「嫌がらせされたんだからな!」
だからこそ、気持ち悪いほどに感謝をすることにした。傷ついた顔を見せれば思うツボだと思うから、私は強く生きるためにもこれをバネにするぐらいの勢いで前に進まなければ。
拭いても拭いても意味がないぐらいの大洪水はティッシュが足らなくなる事態になりそうで、とりあえず垂れ流ししておくことにした。そんな私を見て「ひでぇ顔」と呆れながらも笑ってくれる逢坂くんを見て優しいなと久しぶりに馬鹿みたいに思う。
ひとしきり泣いたところでラスト一枚のティッシュを使い、顔の水分をとっていく。貴重なティッシュをもらった事に罪悪感を抱いたので、お礼にと使ったティッシュを渡しては、
「つまらない物ですがお礼に」
「……本当いい加減にしろよ」
そう言いながらもやっぱり目尻を垂らさせて笑う彼に安堵を覚えたのは言うまでもない。
——それより、今考えなければならないのは、
「そんで、櫻井にはどう話するんだ?」
彼女、櫻井さんのこと。
私がするべき行動は、感情に任せた言動だけは慎むべきだと思っている。だから、私の選択肢として出てきたものは、ただ一つ。
「突き止めるようなことはしない」
「……まさかこの期に及んでまだ櫻井がやったって思ってないんじゃ」
「さすがに私もそこまで馬鹿じゃない。きっと櫻井さんだとは思ってる。……思いたくはないけど」
「じゃあなんで」
なんで。
そう改めて問われると、言葉をまとめるのは難しい。
うやむやにしてしまっては解決しないのかもしれない。直接聞いた方が話は早い。けれどきっと突き止めたところで白を切られるか、もしくは開き直られるかの二択なのではないだろうか。さすがの私も感情を押し殺すことは今の段階ではできない。
冷静な判断ができないからこそ、私は黙ってこの件を流すことにする。
「そんなの逃げてるだけだろ」
「そう……かもしれない」
「そうかもしれないって」
「それでも、流すと決めたから」
向き合いたくないわけじゃない。どちらかと言えば、とことん向き合って腹を割って話せたらというのが本音。
けれど、それは今できることじゃない。全てを曝け出せるような仲じゃない限り、この件は根本的な解決には至らないような気がする。この選択が逃げてるだけだと思われてしまったとしても、それは仕方のない話だと割り切るしかない。
「私、櫻井さんのこと、嫌いになれなくて」
「嫌がらせされてんだぞ」
「うん……でも、嬉しかったんだよ。どんな理由だろうと、加古の付き添い人じゃなくて、私個人として誘ってくれたのが、純粋に嬉しかったの」
誰からも好かれる加古と仲良くなりたい人はたくさんいる。でも、コブのようについている私は、同じように好いてはもらえなかった。
それを充分過ぎるほど分かっていて、加古にもなんとなく伝わってしまっていて、だから余計に自分の気持ちが伝えられなくなってしまった。きちんと伝われば何か変わるのかもしれないけれど、たぶん、悪化する可能性が高いような気がする。
だから、ぶさいくな猫のイラストを見て「可愛い」と無駄に連呼する櫻井さんを見て、私はここにいてもいいんだって思えた。加古の友達としてじゃなく、私でいいんだって。
「そんなの、真澄がいるだろ、あんたには」
「いるよ、でも加古と私が決定的に違うのは、加古には多くの友達がいるってこと。私には加古しかいないから。それって、いつかバランスが取れなくなって、加古にだけ依存してしまうような気がするの」
「依存? なんで?」
「加古がすること全部に嫉妬するようになる。加古が誰かと親しげに話しているのを見るだけでなんとなく嫌になる。ただの友達なのに、そんな醜い感情で支配されるなんてしたくないから。お互いがちょうどいい距離感でいるのは、ある程度の距離か、お互いにいろいろな友達がいた方がいいって思ってるからかな」
「すげえ客観視」
「そうだよ。そうじゃないと、加古を縛ることになる」
加古にはいつまでも天真爛漫でいてほしい。気兼ねなく誰とでも仲良くしてほしいし、私の前では周囲に見せる顔とは少し違う顔を見せてくれるような、そんな関係で満足している。だから、ずっとこれでいいんだと思った。
櫻井さんと話すようになって、私にも別の友達ができるかもしれないと思った。それは、うれしいことだった。こんなことになっても、櫻井さんとはもう関わりたくないと思っていないことが不思議だった。
「だめだね、こんな事をされても嫌いになれそうにない」
私はどうやら救いようのないお人好しなのかもしれない。苛立ちを覚えながらも、たった二時間しかない櫻井さんとの記憶を思い出すと、心の底から憎めないのだから。
「……櫻井に何も言わないんだな」
「うん」
「今後嫌がらせがエスカレートしていってもか」
「言わない」
「仲良くしたいと思うのかあんな奴と」
「出来る事ならお泊りをしてみたい」
「そのメンタルの育ち方はなんなんだ」
いまだにこれは櫻井さんがやったんじゃないと思ってる自分がいる。どこまでも往生際が悪い。私はおめでたい性格なんだろうな。
加古から風邪をひいたから休むとの連絡を受けた朝から、教室に来るまでの間に、普段と違うことが起こっているのだろうなという予感はしていた。人の視線には昔から敏感だったから。けれどその要因が、こんな風に待っているとは思いもしなかった。
「さすがにこれは可哀想」「あ、ほら。来たよ」「どうするの……あ、やばい目が合ったかも」
空はどんよりとした雲がかかっていた。雨が降ってきそうな憂鬱さが広がっていて、その空気の中で何かが起こっている。
好奇心、同情、興味本位。
クラスメイト全員の視線の先は私と、それから黒板。そこには私の半目写真とともに〝逢坂くんが好きでーす〟と白いチョークで書かれていた。
——絶句した。
言葉を失い、どうしてこうなっているのか受け入れることができない。
奇妙な視線は全てこれが原因だったと思えば全身から血の気が引いていくような感覚に襲われる。ここ以外にも色々な場所で貼られているかもしれない。そう思うと確認をしなければと思うものの足が凍ったように動かない。
この写真は、昨日櫻井さんと一緒に撮ったもの。
それが私だけくり抜かれている。これは櫻井さんの仕業だろうか。……いや、何の証拠もないのに決めつけてはだめだ。昨日は気まずいながらも、あれから他愛もない話を繰り広げ、笑顔で「また明日」と別れたはず。
とにかく黒板の写真を剥がさないと、文字を消さないと。
そう思うのに周りが怖くて見られない。笑われているような気もすれば、同情されているような気もする。
……動け、動け動け動け動け。
すっと、わたしの横を通っていった白シャツが視界の端に移る。
その人物は教卓前へと立ち、躊躇うことなく写真を剥がしていく。片手には同じような写真が何枚か握られ、それを潰すように丸めていく。
黙って黒板消しを手にし、白いチョークの文字を乱暴に消した。
「気にすんな」
慰めの言葉だけが温かな雨のように落とされる。動けない私に対して変わりに動いてくれたのは紛れもなく——逢坂くんだった。
情けなく立っている私を一瞥したかと思えば、教室内を見渡す。
「誰、こんなくだらないことやったの」
普段の逢坂くんとは思えないような、嫌悪感しかない声がざわめく教室に響いた。呆れたその物言いは抑揚もなく、酷く冷めたような口調。
恐る恐る顔を上げれば、彼と視線を合わせないよう各々で顔を見合わせ、まるで関係といった素振りを見せている。
代わり映えしない日常に刺激を得た者達は、きっと登校した者同士で和気藹々と話をしていたのだろう。決してこの中に犯人がいるとは思いたくないが、この話で笑っていた人達はほとんど全員なのかもしれない。
黒板の前に立つ彼は静かな息を一つ吐き出す。
「笑ってるんじゃなくて、同じクラスメイトなんだから剥がすの手伝ってよ」
いつもの逢坂くんを取り戻したかのような口調で皆に訴えかけると、教室の空気がふっと軽くなったような気がする。
彼の普段見せないような顔に動揺を隠しきれない様子を浮かべながらも「そ、うだな…」と口を揃え教室を出ていくクラスメイトの後ろ姿をただ何も言えずに見つめる。
「何ボーっと突っ立ってんの」
「……え」
「真っ先に剥がしに行けよ、自分の写真なんだから」
私だけに聞こえるだけの声色で、再びブラック逢坂に戻る。
「逢坂くん……それ」
彼の左手に握られている数枚の写真は紛れもなく黒板に張られていたものと同じ。ここに来るまで剥がしてきてくれたのだろうか。私の言葉に反応するように、視線を自分の手元に移し「ああ」と続けたかと思えば「本当にこれぶっさいくだな」と慰めでもフォローでもない、ただの悪口が飛び出してきた。
「いや……まあぶさいくなのは重々承知だけど」
「ぶさいくでおまけに半目って何だよ、ぶっさいくだな」
馬鹿にしたような顔で三度目の「ぶさいくだな」発言。
この一分にも満たないよう短い時間で「ぶさいく」だと連呼されたのは人生で初めてだ。もしかすると、そんな言葉を言われたことですら初めてかもしれない。まじまじと見つめては、感心するように「どうしようもないなあ」と続ける。
どうやらこの男には、か弱い女の子を寛大な心で慰めてあげるという思考がないらしい。
そもそも優しくしてもらおうなんてこれっぽちも思っていないけども。それでもやっぱりこんなときぐらいは胸を貸してほしいと思うもの。本当に貸してほしいなんて思わないけど。
不意に写真が視界に入ると、気分がぐっと落ちる。やっぱりどうしても胸が痛む。
誰がこんなことをしたというのか。どうしてこんなことができてしまうのか。
私に恨みを抱いている人間なのは確かなはずなのに、これは何かの間違いなんじゃないかとも都合良く思ってしまいたい自分がいるのも事実で。
何かの拍子で出回ってしまった写真なんじゃないかと。誰もそんな悪意なく、たまたま写真を貼っただけなのでは、と。
……分かっている。あまりにもそれは無理があることを。これが自分の身に起こっていることだと、どうしても思えないのは、嫌がらせをされたという事実を認めたくないだけ。
「だから言っただろ」
教卓に行儀悪く腰をかける逢坂くんは呆れたように後頭部をかく。
「あの女はやめとけって」
「……あの女って」
──櫻井さん。
あの女、と言われた瞬間すぐに思い浮かんでしまった。何度打ち消そうとしたって消えてくれない。彼女の姿は色濃く脳裏に焼き付いてしまっている。
「櫻井さんじゃ……」
彼女ではない。彼女じゃない。彼女だと決めつけるのはまだ早い。
「こんな状況でよく言えんな」
頭上から降りかかってくるのは手厳しい言葉の数々。
「あんただって本当は分かってんだろ」
自分にとって都合のいい解釈は、ことごとく消されていく。現実を突きつけられていく。
「こんなことしたのはあいつしかいないって」
彼女がこんなことするわけない。何かの間違いだ—と、もう思えない自分がいた。
ストレート過ぎる彼の言葉は、私の頭の中で優しく微笑みかけてくれる櫻井さんの顔を見事に切り刻んでくれるだけの効果があった。
「前に、櫻井から告白をされたことがある」
面倒くさそうに、逢坂くんは思い出したくもないような顔で語る。
「当然見るからに性格悪そうで付き合う気なんてさらさらないから断ったけど」
「性格悪そうには……」
「あんたが見抜けないだけ。まあ、そんなことはどうでもよくて」
「どうでもいいとは……」
「あとから聞いた話、俺が櫻井の告白を断った以降、俺と距離が近くなる女には嫌がらせ行為をしていたらしい」
「え……」
「俺はなんとなく噂でしか聞いてなかったし、距離が近くなるって言っても少し話した程度なんだろうけど、自分のプライドが許せなかったのか、ことごとく嫌がらせをして鬱憤を晴らしていたって噂」
あの櫻井さんが? なぐもんと気さくに話しかけてくれていた、あの櫻井さんが?
どうしても今の話と私が知っている櫻井さんと一致しないのは、信じたくないからなのか。
「だから忠告した」
「……それは」
「案の定、しっかり嫌がらせされやがって」
深くつかれた溜息に何も言えなくなる。逢坂くんはきっとこうなる事を見越していた。だからあのとき、「あの女はやめとけ」と教えてくれたのだ。
「よくあるパターンだろ。友達が少なそうな奴がなぜかクラスの人気者の男子と仲良くなって、そのあとに可愛いと噂される女子が嫌がらせをしてくる、みたいな話」
「自分でクラスの人気者って言っちゃうんだね……」
「事実だから」
よくあると言えばよくある。そこに自分が巻き込まれているとは思わないだけで。
「……教えてくれたのに、ごめん」
「俺にはあれだけ強気でこれるのに、どうして他のことになると気が弱くなるんだよ」
「それは……」
感情的になったから。誰かに対してあれだけかっとなることもなかった。
それがたまた逢坂くんだっただけということ。
でも、それは〝たまたま〟で片づけてしまっていいのだろうか。それで、正しいのだろうか。
「……わからない。でも、私はロボットじゃないから、あんなこと言われたらイラッとするよ」
「ロボット、ねえ」
「なに?」
「いや、いいんじゃねえの。それで」
なんとなく、そこに大事な意味が含まれているような気がして、でもどうしてそう思うのか、突き止めることができない。
「あんたが言ってたことも分かりたいって思った」
写真をビリビリと破りながら、丸めてゴミ箱へと放り投げる。放物線を描いたそれが、吸い込まれるように入っていった。
彼は動けない私に代わって黒板の字まで消してくれた。
「噂に惑わされず見たものを信じようとするって、今どき聞いたことねえから。そこまで必死になるぐらいなら、あんたの考えも優先すべきだって思っただけ。選んだものにとやかく言うつもりはない」
誰もいない教室で、彼だけが私の味方になってくれたような気がする。そのことが、痛みきった心に染み渡っていき、じわっと目頭が熱くなっていくのを感じた。
「は、泣いてんの?」
ぎょっとする彼に、ぶんぶんと首を振り否定するものの、溢れ出るそれらはもう、抑えることはできなかった。
「この一瞬で涙と鼻水の大洪水を起こすなよ」
「ハンガヂを……」
「図々しいな」
ぶっきらぼうな彼の優しさに涙腺が見事に崩壊してしまった。嫌悪感マックスの彼の顔なんて今はどうでもいい。
ハンカチはないからと、ポケットティッシュを一個まるっとくれたので構わず鼻をかむ。
「あんた……場所を弁えろよ」
「うっ……無理」
「何でもっと泣くんだよ!」
「感動して」
「何に」
「ざ、ぐらいざんに」
「なんでだよ!」
今回もしこれが本当に櫻井さんがやったことだとすれば、逢坂くんの優しさにこうして触れることは出来なかった ——そう、無理に肯定的に捉えることで、私は前に進めるような気がした。
憤りも感じるけど、そこに固執してしまっては何も成長ができないことを私は知っている。その場限りの感情は、人間を、人生を、あまりにも簡単に壊滅させていくから。
本当なら彼女に殴り込みにいきたいぐらいだが、そんなことをしたところで私は小さいままの人間で終わってしまう。
「ざぐらいさんっ、う……あ、ありがどう」
「俺に感謝しろよ!」
「ざぐらいさああああん」
「嫌がらせされたんだからな!」
だからこそ、気持ち悪いほどに感謝をすることにした。傷ついた顔を見せれば思うツボだと思うから、私は強く生きるためにもこれをバネにするぐらいの勢いで前に進まなければ。
拭いても拭いても意味がないぐらいの大洪水はティッシュが足らなくなる事態になりそうで、とりあえず垂れ流ししておくことにした。そんな私を見て「ひでぇ顔」と呆れながらも笑ってくれる逢坂くんを見て優しいなと久しぶりに馬鹿みたいに思う。
ひとしきり泣いたところでラスト一枚のティッシュを使い、顔の水分をとっていく。貴重なティッシュをもらった事に罪悪感を抱いたので、お礼にと使ったティッシュを渡しては、
「つまらない物ですがお礼に」
「……本当いい加減にしろよ」
そう言いながらもやっぱり目尻を垂らさせて笑う彼に安堵を覚えたのは言うまでもない。
——それより、今考えなければならないのは、
「そんで、櫻井にはどう話するんだ?」
彼女、櫻井さんのこと。
私がするべき行動は、感情に任せた言動だけは慎むべきだと思っている。だから、私の選択肢として出てきたものは、ただ一つ。
「突き止めるようなことはしない」
「……まさかこの期に及んでまだ櫻井がやったって思ってないんじゃ」
「さすがに私もそこまで馬鹿じゃない。きっと櫻井さんだとは思ってる。……思いたくはないけど」
「じゃあなんで」
なんで。
そう改めて問われると、言葉をまとめるのは難しい。
うやむやにしてしまっては解決しないのかもしれない。直接聞いた方が話は早い。けれどきっと突き止めたところで白を切られるか、もしくは開き直られるかの二択なのではないだろうか。さすがの私も感情を押し殺すことは今の段階ではできない。
冷静な判断ができないからこそ、私は黙ってこの件を流すことにする。
「そんなの逃げてるだけだろ」
「そう……かもしれない」
「そうかもしれないって」
「それでも、流すと決めたから」
向き合いたくないわけじゃない。どちらかと言えば、とことん向き合って腹を割って話せたらというのが本音。
けれど、それは今できることじゃない。全てを曝け出せるような仲じゃない限り、この件は根本的な解決には至らないような気がする。この選択が逃げてるだけだと思われてしまったとしても、それは仕方のない話だと割り切るしかない。
「私、櫻井さんのこと、嫌いになれなくて」
「嫌がらせされてんだぞ」
「うん……でも、嬉しかったんだよ。どんな理由だろうと、加古の付き添い人じゃなくて、私個人として誘ってくれたのが、純粋に嬉しかったの」
誰からも好かれる加古と仲良くなりたい人はたくさんいる。でも、コブのようについている私は、同じように好いてはもらえなかった。
それを充分過ぎるほど分かっていて、加古にもなんとなく伝わってしまっていて、だから余計に自分の気持ちが伝えられなくなってしまった。きちんと伝われば何か変わるのかもしれないけれど、たぶん、悪化する可能性が高いような気がする。
だから、ぶさいくな猫のイラストを見て「可愛い」と無駄に連呼する櫻井さんを見て、私はここにいてもいいんだって思えた。加古の友達としてじゃなく、私でいいんだって。
「そんなの、真澄がいるだろ、あんたには」
「いるよ、でも加古と私が決定的に違うのは、加古には多くの友達がいるってこと。私には加古しかいないから。それって、いつかバランスが取れなくなって、加古にだけ依存してしまうような気がするの」
「依存? なんで?」
「加古がすること全部に嫉妬するようになる。加古が誰かと親しげに話しているのを見るだけでなんとなく嫌になる。ただの友達なのに、そんな醜い感情で支配されるなんてしたくないから。お互いがちょうどいい距離感でいるのは、ある程度の距離か、お互いにいろいろな友達がいた方がいいって思ってるからかな」
「すげえ客観視」
「そうだよ。そうじゃないと、加古を縛ることになる」
加古にはいつまでも天真爛漫でいてほしい。気兼ねなく誰とでも仲良くしてほしいし、私の前では周囲に見せる顔とは少し違う顔を見せてくれるような、そんな関係で満足している。だから、ずっとこれでいいんだと思った。
櫻井さんと話すようになって、私にも別の友達ができるかもしれないと思った。それは、うれしいことだった。こんなことになっても、櫻井さんとはもう関わりたくないと思っていないことが不思議だった。
「だめだね、こんな事をされても嫌いになれそうにない」
私はどうやら救いようのないお人好しなのかもしれない。苛立ちを覚えながらも、たった二時間しかない櫻井さんとの記憶を思い出すと、心の底から憎めないのだから。
「……櫻井に何も言わないんだな」
「うん」
「今後嫌がらせがエスカレートしていってもか」
「言わない」
「仲良くしたいと思うのかあんな奴と」
「出来る事ならお泊りをしてみたい」
「そのメンタルの育ち方はなんなんだ」
いまだにこれは櫻井さんがやったんじゃないと思ってる自分がいる。どこまでも往生際が悪い。私はおめでたい性格なんだろうな。
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