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第9章 徙木之信
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咲は正人と交流を深めていくことで、自分を見つめ直すことができて、夢だった絵の道へと進んでいく。そして、夢を掴めたその瞬間、正人が自分の前から姿を消してしまう。
正人には記憶障害があり、その治療のために引っ越しをしたと聞かされた咲は、本当に大事にしなければならなかったことがなんだったのかを見つめ直す。
「その女の子に、手紙を書くシーンがあって。でも男の子の居場所も分からないから、この漂流郵便局に送るんです」
『そっか、だから主人公は最後、ヒーローに手紙を宛てたんだね』
藤田さんと話した一部を思い出す。
もう会えなくなってしまった正人へ、咲は漂流郵便局に手紙を送り続ける。
あのネームからはかなり修正されて、最後に送るという展開から、日常的に送っているという描写に今は変更している。
次の号で出る話では、主人公が実際に漂流郵便局に出向いた話にしようかと、そう思っていた。自分の手紙がちゃんと届いているかを確認しに。
この舞台装置として設定して、それをうまく活かすにはどうしたらいいかと悩んでいた。
わたしじゃない別の人が描けば、もっと魅力的な物語になるというのに。
それでも、これはわたしの物語で、わたしだけが描ける物語でもある。
わたしと、逢坂くんの物語だ。
そんなことを今、本人に伝えることなんてできなくて、それをぐっと飲み込んだ。
「……でも、実際にここには来たことなかったんです。お恥ずかしいですけど、今日が初めてで」
「恥ずかしいことなんですか?」
「え?」
「行ったことがない場所を描くって、すごい難しいことだと思います」
ああ、そうだ。
逢坂くんはまっすぐに人を見つめる人だ。
言いたいことを言う性格は今でも変わっていない。
「それを描いてるんですから、すごいじゃないですか。しかも、わざわざここに来るって、ちゃんとこの場所を大切に思ってる証拠じゃないですか」
そんなことを、言ってくれる人だった。
わたしのほしい言葉を、淀みなく伝えてくれる人。
逢坂くんは、逢坂くんのままなんだね。
「……そうですね。ほんとう、そうです」
記憶がなくなってしまっても、わたしを忘れてしまっても、逢坂くんの根底にあるものは揺らがない。
「って言ってる俺も、今日は初めてなんですけど。手紙、届いてるか確認したくて」
知っている。
それはわたしがもうすでに見てしまった。
でもそれを伝えてしまうことができないから「同じですね」と笑みを作る。
ほんとうは、手紙を宛てた人はわたしなんだよ、と。
言ってしまいたい。わたしを思い出してほしい。
けれど、逢坂くんがわたしを見ても、初対面のように話す時点で分かっていた。
もう記憶は戻らない。
たとえわたしと再会しても、逢坂くんの記憶が戻ることはない。逢坂くんの記憶の中にはもう、わたしがいないんだ。
「ここに来たら、不思議とその人に会えるような気がしてたんですけど、さすがに出来過ぎた話ですよね」
そんなことない。
わたし、今目の前にいるよ。
でも、分からない。わたしがわたしだということを逢坂くんは分からない。
胸が痛くなって、でも振り払うように「そんなことないですよ」と口にする。
「もしかしたら会えるかもしれないですし」
「そうでしょうか」
「人生、何が起こるか分からないですから。あの──」
言ってもいいだろうか。
三年前、伝えたかったことを、今になって言ってみてもいいだろうか。
「わたし、漫画家としてデビューしたんです」
連載を勝ち取って、それを一番に報告したかった。まさかこんな形で伝えることになるなんて思っていなかったけど、こんな機会は二度とないかもしれない。
「へえ、おめでとうございます」
感心したような返しに、「それだけなんですけど」と小さく自慢してしまったみたいで恥ずかしくなってしまった。
でも、この会話も忘れてしまうかもしれない。ならば忘れてもらっていい。
「……一期一会ですね」
え。弾けるように顔をあげた。
懐かしい声。懐かしい顔。
「あ、いやなんか急にそう思って。おかしいですね、おめでたい話してた流れで」
「……いえ」
一瞬、覚えているのかと思った。わたしとの記憶を。高校生の、あの数か月の出来事を忘れたりはしていないのだと。
「すいません、忘れてください」
その期待は簡単に砕かれてしまう。これ以上、望んでしまったって叶うことはないのに。
逢坂くんが持つ全てが、わたしの心を痛いほどに刺激していく。
会いたかった。会いたかったんだよ。
わたしの前からいなくなってしまってから、ずっと忘れたことなんてなかった。
「俺、ここに来て南雲に──」
自然と出てきた名前が、風を連れてやってくる。
今、なんて?
あまりにも違和感なく出てきたわたしの名前は、幻聴なのかと思った。
信じられなくて、けれどもそれは逢坂くんも同じようで口元を手で覆い、目を見開いていた。
「南雲……」
名前は忘れてしまっているはずだった。
わたしの名前なんて、もう覚えてなどいないはずだったのに。
おどろいたような瞳が、ゆらりとわたしに傾いた。
こんなことあるはずがない。こんな奇跡、あるわけがない。
まるで、今急にわたしの名前が降ってきたみたいな、そんな顔をしていて。
空気がざっと変わって、鼓動が、早くなる。
彼の顔が、懐かしい表情へと変わる。それは本当に一瞬のことで、とても、一瞬のことで、
「──南雲」
抱き寄せられたその温もりが信じられなくて、ひゅっと息が詰まる。
心が、奪われていく。
「思い出した……南雲に書いたんだ、それ」
「……っ」
「南雲、南雲、南雲」
たしかめるように、刻みこむように、逢坂くんが何度もわたしを呼ぶ。
そう呼ぶことを求めていたような、心の叫びのように聞こえて、ぎゅっと逢坂くんを抱きしめた。
忘れていく思い出を、思い出すことはない。
「……覚えてるの?」
ゆらゆらと、揺れていく世界で、懐かしい匂いでいっぱいになっていく。
「覚えてる……ちゃんと、覚えてる」
逢坂くんの震えた声が、胸をきつく締め付ける。
知らない土地で、知らない場所で、わたしたちは温もりを確かめ合った。まるでこの三年を埋めるように、強く強く、互いを求めて。
「話したいことがたくさんあるんだ」
たとえまた忘れられたとしても、今度はもう大丈夫な気がする。
逢坂くんと過ごした日々が、わたしを強くしてくれたから。
了
正人には記憶障害があり、その治療のために引っ越しをしたと聞かされた咲は、本当に大事にしなければならなかったことがなんだったのかを見つめ直す。
「その女の子に、手紙を書くシーンがあって。でも男の子の居場所も分からないから、この漂流郵便局に送るんです」
『そっか、だから主人公は最後、ヒーローに手紙を宛てたんだね』
藤田さんと話した一部を思い出す。
もう会えなくなってしまった正人へ、咲は漂流郵便局に手紙を送り続ける。
あのネームからはかなり修正されて、最後に送るという展開から、日常的に送っているという描写に今は変更している。
次の号で出る話では、主人公が実際に漂流郵便局に出向いた話にしようかと、そう思っていた。自分の手紙がちゃんと届いているかを確認しに。
この舞台装置として設定して、それをうまく活かすにはどうしたらいいかと悩んでいた。
わたしじゃない別の人が描けば、もっと魅力的な物語になるというのに。
それでも、これはわたしの物語で、わたしだけが描ける物語でもある。
わたしと、逢坂くんの物語だ。
そんなことを今、本人に伝えることなんてできなくて、それをぐっと飲み込んだ。
「……でも、実際にここには来たことなかったんです。お恥ずかしいですけど、今日が初めてで」
「恥ずかしいことなんですか?」
「え?」
「行ったことがない場所を描くって、すごい難しいことだと思います」
ああ、そうだ。
逢坂くんはまっすぐに人を見つめる人だ。
言いたいことを言う性格は今でも変わっていない。
「それを描いてるんですから、すごいじゃないですか。しかも、わざわざここに来るって、ちゃんとこの場所を大切に思ってる証拠じゃないですか」
そんなことを、言ってくれる人だった。
わたしのほしい言葉を、淀みなく伝えてくれる人。
逢坂くんは、逢坂くんのままなんだね。
「……そうですね。ほんとう、そうです」
記憶がなくなってしまっても、わたしを忘れてしまっても、逢坂くんの根底にあるものは揺らがない。
「って言ってる俺も、今日は初めてなんですけど。手紙、届いてるか確認したくて」
知っている。
それはわたしがもうすでに見てしまった。
でもそれを伝えてしまうことができないから「同じですね」と笑みを作る。
ほんとうは、手紙を宛てた人はわたしなんだよ、と。
言ってしまいたい。わたしを思い出してほしい。
けれど、逢坂くんがわたしを見ても、初対面のように話す時点で分かっていた。
もう記憶は戻らない。
たとえわたしと再会しても、逢坂くんの記憶が戻ることはない。逢坂くんの記憶の中にはもう、わたしがいないんだ。
「ここに来たら、不思議とその人に会えるような気がしてたんですけど、さすがに出来過ぎた話ですよね」
そんなことない。
わたし、今目の前にいるよ。
でも、分からない。わたしがわたしだということを逢坂くんは分からない。
胸が痛くなって、でも振り払うように「そんなことないですよ」と口にする。
「もしかしたら会えるかもしれないですし」
「そうでしょうか」
「人生、何が起こるか分からないですから。あの──」
言ってもいいだろうか。
三年前、伝えたかったことを、今になって言ってみてもいいだろうか。
「わたし、漫画家としてデビューしたんです」
連載を勝ち取って、それを一番に報告したかった。まさかこんな形で伝えることになるなんて思っていなかったけど、こんな機会は二度とないかもしれない。
「へえ、おめでとうございます」
感心したような返しに、「それだけなんですけど」と小さく自慢してしまったみたいで恥ずかしくなってしまった。
でも、この会話も忘れてしまうかもしれない。ならば忘れてもらっていい。
「……一期一会ですね」
え。弾けるように顔をあげた。
懐かしい声。懐かしい顔。
「あ、いやなんか急にそう思って。おかしいですね、おめでたい話してた流れで」
「……いえ」
一瞬、覚えているのかと思った。わたしとの記憶を。高校生の、あの数か月の出来事を忘れたりはしていないのだと。
「すいません、忘れてください」
その期待は簡単に砕かれてしまう。これ以上、望んでしまったって叶うことはないのに。
逢坂くんが持つ全てが、わたしの心を痛いほどに刺激していく。
会いたかった。会いたかったんだよ。
わたしの前からいなくなってしまってから、ずっと忘れたことなんてなかった。
「俺、ここに来て南雲に──」
自然と出てきた名前が、風を連れてやってくる。
今、なんて?
あまりにも違和感なく出てきたわたしの名前は、幻聴なのかと思った。
信じられなくて、けれどもそれは逢坂くんも同じようで口元を手で覆い、目を見開いていた。
「南雲……」
名前は忘れてしまっているはずだった。
わたしの名前なんて、もう覚えてなどいないはずだったのに。
おどろいたような瞳が、ゆらりとわたしに傾いた。
こんなことあるはずがない。こんな奇跡、あるわけがない。
まるで、今急にわたしの名前が降ってきたみたいな、そんな顔をしていて。
空気がざっと変わって、鼓動が、早くなる。
彼の顔が、懐かしい表情へと変わる。それは本当に一瞬のことで、とても、一瞬のことで、
「──南雲」
抱き寄せられたその温もりが信じられなくて、ひゅっと息が詰まる。
心が、奪われていく。
「思い出した……南雲に書いたんだ、それ」
「……っ」
「南雲、南雲、南雲」
たしかめるように、刻みこむように、逢坂くんが何度もわたしを呼ぶ。
そう呼ぶことを求めていたような、心の叫びのように聞こえて、ぎゅっと逢坂くんを抱きしめた。
忘れていく思い出を、思い出すことはない。
「……覚えてるの?」
ゆらゆらと、揺れていく世界で、懐かしい匂いでいっぱいになっていく。
「覚えてる……ちゃんと、覚えてる」
逢坂くんの震えた声が、胸をきつく締め付ける。
知らない土地で、知らない場所で、わたしたちは温もりを確かめ合った。まるでこの三年を埋めるように、強く強く、互いを求めて。
「話したいことがたくさんあるんだ」
たとえまた忘れられたとしても、今度はもう大丈夫な気がする。
逢坂くんと過ごした日々が、わたしを強くしてくれたから。
了
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