紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

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第12話 時化

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 江戸に向けての航海。順調だったのは最初だけ。沖には黒い雲がもくもくと湧き出るのが見えた。今は南からくる潮風が追い風となってはいるが、嵐になったら分からない。
 文吉を含めた船員たちはもう一度荷物が固定されているか確認した。そして、自分たちの腰にも命綱を結ぶ。もし雨風で船から吹き飛ばされても船に戻ってこれるようにだ。

 そのうちに、ポツリと頬に雨粒があたる。冷たい風が船員たちを襲った。

「みんな! 気合いを入れろ! 気を抜くな!」

 文吉は大声で叫んだ。源八は船を操舵する。
 高波が甲板に入り込む。それを船員たちは汲み上げて海に捨てるものの汲んだそばから新しい波が押し寄せてくる。

だぶーり。だぶり。

 船の横面を波が打ちつけ、あっちに横になり、こっちに横になり。源八は必死に帆の向きを変えて波に逆らって前へと進む。
 大波が船を高く持ち上げ、放り投げるように海面へと叩き付ける。みな立っているだけで精一杯だ。中には腰を低くしなくてはならない者も。
 波に揉まれ、風に回され、目印も陸も見えない。ただ必死に生にしがみつくように船にしがみつく。
 源八は叫ぶ。

「旦那の船を沈めちゃ、男が立たねェ! 野郎ども! 気合いを入れろ!」
「おう!」

 源八の言葉に仲間たちが応えたときだった。大きな波がみかん船を打つ。大きな音を立てて潮が入り込み、波が引いたところに源八がいない。
 帆柱へと結びつけていた縄は、ぶっつりと切れていた。

「源八ィ!」

 熊吉は叫ぶ。辺りは黒い波ばかりだ。文吉はここで源八を失ってはならないと、ケンカした白い玉に懇願した。

「玉さま! どうか源八をお助け下さい!」
『ふん。調子がいいわよ、文吉』

「無礼の段、ひらにひらにご容赦を!」
『私の力を借りなくては、何も出来ないことが分かったようね』

「はい。分かりました!」
『ならばよろしい』

 黒い黒い潮水の中から、釣り上げられた魚のように飛び上がり、源八は甲板に叩き付けられた。潮が入り込んだ甲板は幾分クッションになったようで、源八は咳をしながら立とうとする。
 みんな、突然戻ってきた源八に目を丸くしていたが、これが現実だ。奇跡が起きたのだ。そこに熊吉が走り込んで、源八を抱きかかえ残った縄を手繰り寄せ、また帆柱へと結びつけた。

「おい、源八しかっりしろ!」
「お、おうよ。大丈夫だ。すまねえ、九万兵衛」

 源八は持ち直した。
 長い長い格闘。終わりなど見えない。黒雲で夜のように暗い。夜はさらにまわりが見えない。長い時間、海という怪物と戦い続けて、乗組員全員が疲れ果てた。



 やがて頬を打つ雨も、上から降り注ぐ潮水も、強い強い風の力も少しずつ、少しずつやわらいでゆく。
 波風も雨も強いままだ。しかし地獄のような嵐を通り抜けたことは誰もが感じていた。

 文吉の船は、難所を通り抜けたのだ。誰言うとなく、吹き出して笑った。緊張感が一気にほぐれたのだ。なにも面白いことなどないのに、拾った生に皆大きく笑ったのだ。

「旦那。難所は通り過ぎやしたね!」
「源八。一時はどうなることかと思ったが」

「これで我々は舟幽霊となることはなくなりましたな」
「おうよ。眠れやしないが、交代でそれぞれ休もうじゃねぇか」

 文吉の提案で、二人ずつ交代で船を管理し、後のものは船室で休むことにした。みんなそれぞれ疲れた体を投げ出して、いつしか眠りにつくのだった。






「旦那。旦那。お起きなさい、旦那」
「──ん? どうした?」

「佐平次の姿がありません」
「なに?」

 起こされて文吉は目を覚ました。周りのものは全て起きており、佐平次の姿を捜していた。

「どうした。なにがあった?」

 すると、佐平次と船の当番をしていた弥兵衛やへえという男が自分の肩ぐらいまで手を上げた。

「へぇ。あっしと佐平次で船の前と後ろに別れていたのですが、あっしもついうっかり、うとうとしてしまい、目を覚ましたらこの有様でして、へい」
「海にでも落ちたのか?」

「分かりません。ただ、夢うつつの中で、蕎麦を啜るような音が聞こえました。ズルズル、ズルズルっと」
「この海の上で蕎麦屋なんてあるわけがない。波の音がそんなふうに聞こえたのかもしれんな」

 皆、首をかしげた。そして佐平次は、海を覗き込んだ折りにふかに飲み込まれてしまったのかも知れないという結論に達した。





 ずいぶんと波も落ち着き、黒い雲も薄れて星空が見えるようになった。源八は星の位置から陸地を割り出し、船首をそちらへと向けた。

 やがて船の上から、陸地に大きな町が見えてきた。そびえ立つ城も見える。

「江戸だッ!」

 一人が叫ぶ。その言葉に文吉と熊吉の肩の力がふっと抜けるように感じた。そして兄弟して顔を見合わせてつぶやく。

「あれが江戸か──」

 大きな大きな町だ。この船を見たからだろうか? 歓声が聞こえる。それはみかん船を迎える、江戸の住人たちの声であった。
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