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第26話 上座
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高尾太夫は、部屋に籠もって化粧をしていた。
高尾は文吉に気のない素振りをするものの、気前のいい大尽ぶりに気持ちを寄せていたのである。
この男はいずれ自分に惚れて身請けしてくれるのではないかと思ったのだ。
遊女にとって身請けは夢だ。この地獄から抜け出せる手段。金持ちの妾とならなくてはならないが、文吉はまだ若いし男振りもよい。
だが自分にどうやら気がないらしく、野暮なことばかりを言う。
たしかにそんな嫌な客もいるが、この吉原の頂点である高尾太夫にそれは許されない。
男はみんな高尾を好きでなくてはいけないのだ。
「見てらっしゃい。見てらっしゃい」
高尾は唇に一番高価な紅を指した。今日こそ文吉を惚れさす。簪の角度も気を付けながら挿す。そこへ使いに出した禿が二人戻ってきた。
「何をやっているんだい。お前たちが帰ってこなかったらお座敷に出れないじゃないか」
責められて少しばかり涙目になる禿たち。そっと手のひらに握った二分金を出した。
「おや、どうしたんだい。こんな大金」
「姐さん。紀文の旦那のお振る舞いでありんす」
聞くと文吉は本日、この三浦屋を貸し切ったそうだという。
それはそれは。と高尾は心の中でほくそ笑んだ。今日は文吉とは三度目の逢瀬。すなわち床入れだ。
その記念に遊廓一つを貸し切るとはなんとも豪毅ではないか。やはり文吉は自分に惚れているのだと自信がついた。
しかし、前の態度はない。
高尾はそれならば少しお仕置きしなくてはならないと、禿に三味線と鼓を持たせて、文吉の待つお座敷へと足を進めた。
文吉と大納言のいるお座敷は大変な盛り上がりで、文吉は高尾太夫がくることなど忘れていたが、廊下から三人の摺り足と、高尾太夫の帯についた鈴が涼やかな音を立てたので思い出した。
そして漠然と、今日は床入れだというのを思い出したが、高尾のことが余り好きではない文吉は誰か代わってくれないかと思うほどだった。
そうこうしていると、上座の襖が開いて、二人の禿の後に高尾太夫がしずしずと入って来た。
そして文吉へと秋波を送るが、文吉は丁度酒をあおったところで見ていなかった。
だが、高尾太夫を見て唸る者がいる。それこそ紀州大納言である。
「おお……これは──」
「御前。これこそ吉原きっての高尾太夫でございます」
文吉の説明に大納言は息を飲む。高尾のほうでも、文吉は今日も客を連れて来た。身なりよさそうな商人だ。一つからかってやろうと、それを大納言とは知らずに近づき、その手を取った。
「お上。上座はこちらでありんす──」
それは戯れの言葉だった。文吉に嫉妬させるための言葉。『やい、高尾。俺が連れてきた客にお上とはヒドイことをいう。お前の相手は俺じゃないか』そういわれて『そうでやんした。主さま、優しくしてくださんせ』そういって胸に倒れてやれば今までのことは帳消しであろう。
この老人の商人にはそのための犠牲になってもらおうとの言葉であったのだ。
ガタガタ──。
しかし下座に控える若旦那である侍たちは一斉に立ち上がった。
文吉も熊吉も驚いた。
入って来たばかりの高尾太夫は、直感で、紀州屋徳兵衛を「お上」と称したのだと思ったのだ。
文吉は冷や汗をかく。やはり教養のある女は怖い。好きになれない。
高尾太夫は敏感にそれを察知したが遅かった。大納言は立ち上がって高尾に一言。
「おお。やはり太夫というとひと味違うな。余の威信が分かったか。これ文吉。これな遊女に給仕をさせるがよいか?」
「御意にございます」
このやり取りで、高尾はもう文吉とはこれ以上進展は望めないことを悟った。明らかに自分のミスであった。
だがそこは高級娼婦。吉原の太夫である。大納言の接待を始める。大納言も、堅苦しい武家の作法の中をでて、初めて味わう遊廓の女である。たちまち心が蕩かせられた。
「なんとも愛い奴よ」
「主様は吉原は初めてでありんすかァ?」
「左様。普段は武芸にお茶である」
「まァ。お侍さまのようでありんすゥ」
「──ここだけの話、その通りだ。神君家康公の孫で光貞という」
大納言の小声に、少しだけ体が反応する。百姓生まれの自分が寄り添っている相手は、紀州大納言ではないか。
だが畏れ入って平伏してはならない。散々太夫の教育を受けてきたのだ。ここ吉原では将軍だろうと天子だろうと関係ない。自分が一番偉いのだと、大納言への畏敬の念を消して、キセルを手に取った。
「そうでありんしたか。それはようこそおいでなんした」
そういって笑顔を作る太夫に大納言は心を奪われた。
「なんとも美しい。まさに傾城。まさに傾国」
「御意でありんす」
キセルを片手に、大納言の胸に自分の背中を預ける。大納言は高尾の両肩に手を添えて支えた。
「高尾。今晩は余の伽をいたせ」
高尾太夫は、一度文吉の方に目を向けたが、文吉はこちらも見ていない。他の遊女の踊りに目を奪われているようだ。
安い男──。
高尾太夫は、庶民向けの遊女の方ばかり見ている文吉に、完全に縁が切れたと悟った。大納言に身を預けながら笑顔で答える。
「吉原に作法はあれど、どうしてお上の意向に逆らえましょう。本日は互いに悦びあうでありんすゥ」
高尾太夫は大納言の手を取って自室へと向かっていった。それに気付いた若旦那たち。慌てて後に続き、太夫の部屋の前に座って夜の番である。
部屋に残されたのは文吉と熊吉と吉兵衛と遊女たち。熊吉も酔ったふりをして朝露の手を取って寝所へ向かう。吉兵衛は遊女に文吉へと酒を注がせた。
「大旦那。よかったのですかい?」
「なんだ。太夫のことか?」
「そうです」
「ああ、いいんだ。お膳立てをしてくれた吉兵衛には悪いが太夫と縁が切れてよかったよ。大して好みでもないしなァ……」
吉兵衛は文吉の前に手をついて大きく平伏した。
「九万の旦那から聞いておりました。大旦那には心に決めた人がいると。それを知りながら差し出がましいことをしました」
「いやいや。いいんだ。吉兵衛にとっての汐凪。アタシにとってのおミツ。気持ちは同じだ。サァそんなところに頭をつけていないで今日は付き合え」
文吉は吉兵衛に命じて女を下がらせると、男同士で酒を呑んで夜明かしをした。
高尾は文吉に気のない素振りをするものの、気前のいい大尽ぶりに気持ちを寄せていたのである。
この男はいずれ自分に惚れて身請けしてくれるのではないかと思ったのだ。
遊女にとって身請けは夢だ。この地獄から抜け出せる手段。金持ちの妾とならなくてはならないが、文吉はまだ若いし男振りもよい。
だが自分にどうやら気がないらしく、野暮なことばかりを言う。
たしかにそんな嫌な客もいるが、この吉原の頂点である高尾太夫にそれは許されない。
男はみんな高尾を好きでなくてはいけないのだ。
「見てらっしゃい。見てらっしゃい」
高尾は唇に一番高価な紅を指した。今日こそ文吉を惚れさす。簪の角度も気を付けながら挿す。そこへ使いに出した禿が二人戻ってきた。
「何をやっているんだい。お前たちが帰ってこなかったらお座敷に出れないじゃないか」
責められて少しばかり涙目になる禿たち。そっと手のひらに握った二分金を出した。
「おや、どうしたんだい。こんな大金」
「姐さん。紀文の旦那のお振る舞いでありんす」
聞くと文吉は本日、この三浦屋を貸し切ったそうだという。
それはそれは。と高尾は心の中でほくそ笑んだ。今日は文吉とは三度目の逢瀬。すなわち床入れだ。
その記念に遊廓一つを貸し切るとはなんとも豪毅ではないか。やはり文吉は自分に惚れているのだと自信がついた。
しかし、前の態度はない。
高尾はそれならば少しお仕置きしなくてはならないと、禿に三味線と鼓を持たせて、文吉の待つお座敷へと足を進めた。
文吉と大納言のいるお座敷は大変な盛り上がりで、文吉は高尾太夫がくることなど忘れていたが、廊下から三人の摺り足と、高尾太夫の帯についた鈴が涼やかな音を立てたので思い出した。
そして漠然と、今日は床入れだというのを思い出したが、高尾のことが余り好きではない文吉は誰か代わってくれないかと思うほどだった。
そうこうしていると、上座の襖が開いて、二人の禿の後に高尾太夫がしずしずと入って来た。
そして文吉へと秋波を送るが、文吉は丁度酒をあおったところで見ていなかった。
だが、高尾太夫を見て唸る者がいる。それこそ紀州大納言である。
「おお……これは──」
「御前。これこそ吉原きっての高尾太夫でございます」
文吉の説明に大納言は息を飲む。高尾のほうでも、文吉は今日も客を連れて来た。身なりよさそうな商人だ。一つからかってやろうと、それを大納言とは知らずに近づき、その手を取った。
「お上。上座はこちらでありんす──」
それは戯れの言葉だった。文吉に嫉妬させるための言葉。『やい、高尾。俺が連れてきた客にお上とはヒドイことをいう。お前の相手は俺じゃないか』そういわれて『そうでやんした。主さま、優しくしてくださんせ』そういって胸に倒れてやれば今までのことは帳消しであろう。
この老人の商人にはそのための犠牲になってもらおうとの言葉であったのだ。
ガタガタ──。
しかし下座に控える若旦那である侍たちは一斉に立ち上がった。
文吉も熊吉も驚いた。
入って来たばかりの高尾太夫は、直感で、紀州屋徳兵衛を「お上」と称したのだと思ったのだ。
文吉は冷や汗をかく。やはり教養のある女は怖い。好きになれない。
高尾太夫は敏感にそれを察知したが遅かった。大納言は立ち上がって高尾に一言。
「おお。やはり太夫というとひと味違うな。余の威信が分かったか。これ文吉。これな遊女に給仕をさせるがよいか?」
「御意にございます」
このやり取りで、高尾はもう文吉とはこれ以上進展は望めないことを悟った。明らかに自分のミスであった。
だがそこは高級娼婦。吉原の太夫である。大納言の接待を始める。大納言も、堅苦しい武家の作法の中をでて、初めて味わう遊廓の女である。たちまち心が蕩かせられた。
「なんとも愛い奴よ」
「主様は吉原は初めてでありんすかァ?」
「左様。普段は武芸にお茶である」
「まァ。お侍さまのようでありんすゥ」
「──ここだけの話、その通りだ。神君家康公の孫で光貞という」
大納言の小声に、少しだけ体が反応する。百姓生まれの自分が寄り添っている相手は、紀州大納言ではないか。
だが畏れ入って平伏してはならない。散々太夫の教育を受けてきたのだ。ここ吉原では将軍だろうと天子だろうと関係ない。自分が一番偉いのだと、大納言への畏敬の念を消して、キセルを手に取った。
「そうでありんしたか。それはようこそおいでなんした」
そういって笑顔を作る太夫に大納言は心を奪われた。
「なんとも美しい。まさに傾城。まさに傾国」
「御意でありんす」
キセルを片手に、大納言の胸に自分の背中を預ける。大納言は高尾の両肩に手を添えて支えた。
「高尾。今晩は余の伽をいたせ」
高尾太夫は、一度文吉の方に目を向けたが、文吉はこちらも見ていない。他の遊女の踊りに目を奪われているようだ。
安い男──。
高尾太夫は、庶民向けの遊女の方ばかり見ている文吉に、完全に縁が切れたと悟った。大納言に身を預けながら笑顔で答える。
「吉原に作法はあれど、どうしてお上の意向に逆らえましょう。本日は互いに悦びあうでありんすゥ」
高尾太夫は大納言の手を取って自室へと向かっていった。それに気付いた若旦那たち。慌てて後に続き、太夫の部屋の前に座って夜の番である。
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「大旦那。よかったのですかい?」
「なんだ。太夫のことか?」
「そうです」
「ああ、いいんだ。お膳立てをしてくれた吉兵衛には悪いが太夫と縁が切れてよかったよ。大して好みでもないしなァ……」
吉兵衛は文吉の前に手をついて大きく平伏した。
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