紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

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第32話 身請け

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 しばらく抱きしめ合っていた二人だったが、文吉はミツに食事を勧めた。

「主人に料理を買いに行かせたんだ。いい料理だろう? 旨いぞぅ」

 そこには上等な料理ばかり。鯛の尾頭付きの塩焼き、刺し身や煮付け。鮹の酢の物、天ぷらに焼き豆腐や油揚げを焼いたものに味噌田楽。

「こ、こんなに食べきれないでありんすゥ」
「なぁに。だったら残せばいいんだ。酒も一緒に飲もう。それからありんす言葉はやめるんだ」

 文吉はミツを横に侍らせたりしなかった。遊女として扱わないのだ。対面に置いて、一人の人間とした。そして紀文自ら酒を注いでやったのだった。
 しかしミツにはよく分からない。格好を見ると、ただの手代。それが座敷をとったり、豪華な料理を頼んだり出来るはずもないのだ。

「ぶんきっつぁん?」
「どうしたい」

「どうしてこんな贅沢を?」
「なぁに。貯めたのよ」

 そういって照りのいい刺し身を口の中に放り込む。だが遊女は男を転がす商売だ。手代の身分で貯めれる金額などたかが知れているのは知っていた。

「そんな。吉原でこんな贅沢が出来るほど、奉公で貯めれるわけないでしょう。それにどうして私がここにいることを知ったの?」

 文吉は、自分で作ったストーリーを語って聞かせた。

「店のご主人が豪毅なかたでね、この前吉原に連れて来てもらった時におみっちゃんを見つけたんだ。旦那に話すと、それは良かった。今日遊ぶ分の金はやるから後日、彼女を迎えに行ってやりなさい、とこう言われてな」
「へ、へぇ~……。む、迎え?」

「そうだ。おミツ。お前を身請けしたい」

 すると、ミツはホロリと涙をこぼす。

「無理だよ……」
「どうして?」

「身請けなんて、10両や20両じゃないもの……」

 哀しげな表情のミツの前に、文吉は懐から取り出した紙の包みを突き出した。それは小判を包んだものと分かったが、明らかに100両は包まれている高さだった。

「こ、これは?」
「仲間と富を買ってね。それが当たってみんなで分けたものだ。これで身請けできるだろう?」

 富とは今でいう宝くじのことだ。当時の江戸は火事が多かった。そのために、神社仏閣まで焼けてしまった。それを再建するために、寺社奉行が立ち合って富くじを発行したのだ。木札に番号が記されており、それを民間に購入してもらう。当選は大きな箱に番号が記された札を入れ、長い桐のようなもので突く。そのために“富つき”とも言われた。
 文吉はそれに当たって大金を得たと言うことにしたのだ。
 身請けの金額は、吉兵衛が汐凪を身請けした際に50両といっていたので、100両ならばお釣りが来ると分かっていた。

 ミツはそれを胸に抱いて、涙を流した。

「ああ、まさかそんな──」
「夢じゃないさ。なぁ、おみっちゃん。小さい頃に約束したことを覚えているかい? 夫婦になって一緒に畑を耕しながら暮らすって言ったことを。おらはおみっちゃんさえいてくれれば、小さな小屋でも贅沢は言わねェ。ずっとずっと一緒に暮らすんだ」

 ミツは文吉のそばによって、その胸に背中を預けた。

「なぁこちらを向いておくれ」
「いや」

「どうして?」
「こんなに幸せなのに、涙を流しているところを見せたくないもの」

「その涙が哀しいものでないのならいいんだよ。これからも、幸せだったら泣き、楽しかったら泣いて、子どもが産まれたら嬉しくて泣いて──」

 その言葉にミツは袖を上げて顔を隠して涙を拭った。そして振り向いて文吉の唇を奪う。

「へへ……。信じていいんだね。今までたくさんの人に騙されたから……。生んだ両親はもちろん、里親にも。さらには女衒にも騙され、売られ売られて……。男にも何度も騙された。もう人の心なんてなくなるくらいに」

 それはミツの今までの人生が不幸であったことを感じさせる言葉だった。

「だけど──。これからは違うさ」
「……うん。ありがと」

 小さく笑うミツを文吉はまた強く抱きしめた。ミツは文吉の手を取り、寝床へと誘う。
 それは文吉が初めて味わう甘い甘い蜜の味であった。
 その晩は二人は互いに抱き合って決して離れようとはしなかった。




 次の日は二人での初めての朝だった。互いに微笑み合い、文吉は手代の服を纏った。

「なぁおミツ。それでは三日後に迎えに来るよ。旦那がおらのためにのれんを分けてくれるんだ。そしたら一緒に店をやろう」
「そういえば、ぶんきっつぁんは、どこのお店で奉公しているの?」

「材木問屋だ。紀伊国屋だよ」
「へぇ! あの紀伊国屋さん!」

「知ってるのかい?」
「そりゃ吉原では知らない人はいないよゥ。といっても、ウチの格子から遠目に見ただけだけどね。すごく大きな旦那さんと、小さい旦那さん。お二人でご商売なすってるんだろ? あの小さい人好き。とっても優しそう」

 そういってからミツは自分の口を押さえた。文吉も呆れた顔をする。

「おいおい。おらがいるのに旦那を好きとはそりゃねェだろ?」
「うふふ。ごめんなさい」

 そんな昔のように軽口も言えるようになった。そして、紀伊国屋の小さいほうが好き。それは自分のことだが、今は違う。文吉はなんとなく甘いような酸っぱいような。痒いようなくすぐったいような気持ちになった。

「それじゃ、三日後に。大門まで荷物をまとめて来ておくれ。もう働かなくていいんだ。ささやかだが駕籠を用意して迎えに行くよ」
「うん。ありがとう」

 ミツは文吉を店の先まで見送った。文吉もそれに手を振る。文吉はこれからの幸せな生活を想像しながら大門を後にした。
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