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第34話 狂気
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吉兵衛は何も言えずに固まった。このままミツを待ったとて来るはずはない。しかしそれを文吉に押して言えるわけもない。
文吉のほうでも、昼を過ぎた辺りから悪い予感はしていたが、無理矢理それを心の奥底へと閉じ込めていたのだ。
ミツを疑うなど出来ない。彼女の身の上は辛く苦しいものだった。そんな彼女を疑うなんて──。
しかしもう夜だ。屋敷の方でも客が集まって源蔵もしびれを切らしているだろう。
「ん。ん」
文吉は空咳をして、熊吉と吉兵衛へと話し掛けた。
「あ~、九万と吉兵衛。ちょっとだけ圓屋のほうを見に行こう。お前たち。供をしてくれ」
「もちろんだ」
「へ、へぇ……」
二人を連れて文吉はいつものように吉原を肩で風を切って歩く。
これが江戸一の遊び人、紀文だ。吉原は庭だ。女を泣かせる憎い男。粋でいなせなお大尽なのだ。それが恥をかくわけにいかない。
文吉は圓屋の提灯をくぐって中に入ると、大男の旦那と吉兵衛を見て、先頭のこの男が紀文だと、主人は恐れおののいて、深く頭を下げた。
「こ、これは! 紀伊国屋の大親分! こんな汚い遊廓へご登楼頂き、ありがとうございます!」
「よいよい。そんなことより、待ちぼうけだ。金なら出す。さっさと藤佳を……おミツを連れてこないか」
「あの。その儀でしたら、先ほどの吉兵衛どのにお話をしたとおり、もうここにはおりません」
「嘘をつけ!」
文吉は目を吊り上げて怒鳴った。
「お前、ワシが紀文だと知っているな! いくらでも払うぞ! 千両か? 二千両か? 余り舐めたことをすると、吉原どころか、江戸にもいれんようにするぞ!」
いつもの温厚な文吉はそこにはいなかった。理不尽にも炭の入っていない火鉢を蹴り上げると、灰が部屋中に舞い上がった。
灰を被った主人はぶるぶると震えて、そこに土下座して謝った。
「ど、どうかお許しを……」
「おミツは病気だ! 伏せっておるのだ! だからワシが来ているのに出て来ない! こやつ、おミツを隠しおった! 熊吉! こやつを殺してしまえ!」
もはや冷静さを失った文吉は前後不覚。辺りに何があるのか見えないようにふらついて、あっちを蹴飛ばし、こっちを蹴飛ばし。
熊吉はそんな文吉を押さえた。
「ええい、放せ熊吉!」
「いいや、放さねぇ。やい主人。おミっちゃんを身請けしたのは何というやつだ?」
熊吉がたずねると、主人は震えながらその男の名を口にした。
「え、ええ。藤佳の馴染みの客で、三国弥次郎さまという、お武家さまでございます。いつもは割床で寝ていたのですが、その日はお座敷をとられ、次の日に身請けして、そのままお連れになりました──」
それを聞いた文吉は、熊吉の縛めを暴れながらほどき、屋敷に向かって駆け出した。
驚いた熊吉と吉兵衛。熊吉は主人に迷惑料と五両握らせると急いで文吉の後を追ったのだ。
屋敷に戻ると、源蔵は屋敷の外で文吉を迎えたが、文吉は声もかけずに屋敷の中に駆け込む。
ようやく追い付いた熊吉は、源蔵に訳を話して、客に引き取ってもらうように命じた。
文吉は屋敷の廊下を駆け抜け、神殿の中に入るやいなや、白い玉をがっちりと掴み込んだ。
「玉さま! おミツはどこにおります! 三国弥次郎はどこにおります!」
その声に白い玉は、ぼんやりと反応する。
『──ん。なんだね。文吉かね』
「そうです! 玉さま! どうか、おミツとその男のいる場所をお教え下さい!」
白い玉の表面がほのかに光り、赤いマーブル柄が浮かぶ。
『ふむ。お前の意識の中にある女。それがおミツだね。なるほど。なるほど……。うむ。二人は吉原から離れた日本橋付近の裏手にある宿場、鳩屋の二階の一番奥の部屋で小判を並べて遊んでいるよ。馬鹿だね。さっさと国を出ちまえばいいのに』
それだけ聞くと、文吉は立ち上がって屋敷の入り口までやって来た。そこではお客が帰り支度をしていたので、愛想笑いをして数人見送った後で、見送りは源蔵に任せて、熊吉と吉兵衛を誰もいない庭へと呼んだ。
「熊吉、吉兵衛。二人に頼みがある」
「なんだ」
「何でございましょう」
「おミツの居場所が分かった。吉兵衛は、遊侠の若いのを連れて、日本橋付近の裏手にある宿場、鳩屋の二階の一番奥で遊んでいる女と男をひっ捕まえて、うちの材木を入れる船着き場まで連れて来てくれ。なぁに。みんなには必ず礼はする」
「へぇ!」
吉兵衛は大きく頷くと、馴染みの遊侠の徒を集めるために駆け出した。それを見届けると文吉は熊吉の方を向く。
「熊吉。すまねぇが蔵から三千両を出してはくれねぇか? ひょっとしたらおミツはその男に騙されているのかも知れねぇ。脅されたのかも知れねぇ。金を持ってるから、良いように言われたか、凄まれたか。ワシから受け取った100両をとられたのかもしれん。三千両は何かあったらそれで解決するための金だ」
「なるほどそうか」
「そうよ。そこにワシが出て行っては先ほどのように激昂してしまうかもしれん。中立なお前は、二人に問いただしてはくれまいか? ワシは後ろで隠れているから」
「うむ。その方がいいなァ」
熊吉は千両箱を三つ荷車に乗せると、二人は並んで紀伊国屋の船着き場にやって来た。そこは夜はひっそりとしており、材木が不気味に積み重ねられていた。
二人は千両箱をおろして、それにゴザをかけて隠し、文吉は材木の陰へと隠れた。
その頃、吉兵衛は徒党を組んで、鳩屋の戸を叩く。主人に金を渡して入れて貰い、これからおこることは他言無用と伝えて二階の一番奥の部屋に向かっていった。
ちょうど二人は睦み合っている最中で、三国弥次郞は刀を持っていたが、腰に帯びていない。木っ端侍などやすやすと捕まえることが出来た。
吉兵衛は、二人に着物を着させた上で縄をかけた。
「何しやがるんでィ!」
「あんた誰なんだよゥ!」
騒ぐ二人の口に猿ぐつわをして、表へと連れ出した。
しかし、これを大通りに歩かせるわけにはいかない。お誂え向きに鳩屋の後ろには運河が流れていた。これを下れば紀伊国屋の船着き場まで行ける。
吉兵衛は小舟に二人を抑えるものを二人乗せ、自分は船頭をするために乗り込み、舟を漕ぎ出した。
文吉のほうでも、昼を過ぎた辺りから悪い予感はしていたが、無理矢理それを心の奥底へと閉じ込めていたのだ。
ミツを疑うなど出来ない。彼女の身の上は辛く苦しいものだった。そんな彼女を疑うなんて──。
しかしもう夜だ。屋敷の方でも客が集まって源蔵もしびれを切らしているだろう。
「ん。ん」
文吉は空咳をして、熊吉と吉兵衛へと話し掛けた。
「あ~、九万と吉兵衛。ちょっとだけ圓屋のほうを見に行こう。お前たち。供をしてくれ」
「もちろんだ」
「へ、へぇ……」
二人を連れて文吉はいつものように吉原を肩で風を切って歩く。
これが江戸一の遊び人、紀文だ。吉原は庭だ。女を泣かせる憎い男。粋でいなせなお大尽なのだ。それが恥をかくわけにいかない。
文吉は圓屋の提灯をくぐって中に入ると、大男の旦那と吉兵衛を見て、先頭のこの男が紀文だと、主人は恐れおののいて、深く頭を下げた。
「こ、これは! 紀伊国屋の大親分! こんな汚い遊廓へご登楼頂き、ありがとうございます!」
「よいよい。そんなことより、待ちぼうけだ。金なら出す。さっさと藤佳を……おミツを連れてこないか」
「あの。その儀でしたら、先ほどの吉兵衛どのにお話をしたとおり、もうここにはおりません」
「嘘をつけ!」
文吉は目を吊り上げて怒鳴った。
「お前、ワシが紀文だと知っているな! いくらでも払うぞ! 千両か? 二千両か? 余り舐めたことをすると、吉原どころか、江戸にもいれんようにするぞ!」
いつもの温厚な文吉はそこにはいなかった。理不尽にも炭の入っていない火鉢を蹴り上げると、灰が部屋中に舞い上がった。
灰を被った主人はぶるぶると震えて、そこに土下座して謝った。
「ど、どうかお許しを……」
「おミツは病気だ! 伏せっておるのだ! だからワシが来ているのに出て来ない! こやつ、おミツを隠しおった! 熊吉! こやつを殺してしまえ!」
もはや冷静さを失った文吉は前後不覚。辺りに何があるのか見えないようにふらついて、あっちを蹴飛ばし、こっちを蹴飛ばし。
熊吉はそんな文吉を押さえた。
「ええい、放せ熊吉!」
「いいや、放さねぇ。やい主人。おミっちゃんを身請けしたのは何というやつだ?」
熊吉がたずねると、主人は震えながらその男の名を口にした。
「え、ええ。藤佳の馴染みの客で、三国弥次郎さまという、お武家さまでございます。いつもは割床で寝ていたのですが、その日はお座敷をとられ、次の日に身請けして、そのままお連れになりました──」
それを聞いた文吉は、熊吉の縛めを暴れながらほどき、屋敷に向かって駆け出した。
驚いた熊吉と吉兵衛。熊吉は主人に迷惑料と五両握らせると急いで文吉の後を追ったのだ。
屋敷に戻ると、源蔵は屋敷の外で文吉を迎えたが、文吉は声もかけずに屋敷の中に駆け込む。
ようやく追い付いた熊吉は、源蔵に訳を話して、客に引き取ってもらうように命じた。
文吉は屋敷の廊下を駆け抜け、神殿の中に入るやいなや、白い玉をがっちりと掴み込んだ。
「玉さま! おミツはどこにおります! 三国弥次郎はどこにおります!」
その声に白い玉は、ぼんやりと反応する。
『──ん。なんだね。文吉かね』
「そうです! 玉さま! どうか、おミツとその男のいる場所をお教え下さい!」
白い玉の表面がほのかに光り、赤いマーブル柄が浮かぶ。
『ふむ。お前の意識の中にある女。それがおミツだね。なるほど。なるほど……。うむ。二人は吉原から離れた日本橋付近の裏手にある宿場、鳩屋の二階の一番奥の部屋で小判を並べて遊んでいるよ。馬鹿だね。さっさと国を出ちまえばいいのに』
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「なんだ」
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