ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

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第1章――「サントドミンゴ篇 砂糖と疫病と未亡人」

第10話――「兄の血と未亡人の船出」

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 夜が深まるころ、フアン・デ・モリーナは執務室に灯りをともしていた。

 机の上には、ベラスケス総督宛ての書簡が広げられている。昼の決闘の結果と、その意味を簡潔に書き記したものであった。

「第3次遠征隊の指揮は、アルバロ・デ・モリーナに任せるべきである。インディオの扱いと勘定の才覚を合わせ持つ者は他に見当たらない」

 最後の1行を書き終え、ペンを置いたとき、廊下の向こうからかすかな物音が聞こえた。使用人にしては重い足取りである。

「誰だ」

 フアンが声をかけると、扉が荒々しく開いた。

 片足を引きずりながら、エルナン・コルテスが立っていた。

 昼間の鎧ではなく、粗末な上着とマント姿であるが、その目には熱が宿っていた。膝には厚く布が巻かれている。決闘の傷は、まだ生々しいはずであった。

「こんな夜更けに、どうした」

「礼を言いに来たのさ、モリーナ殿」

 コルテスは、笑ってみせた。

「名誉ある決闘の場を与えてくれてな。おかげで、わたしはこの脚を得た」

 彼は膝を指先で叩いた。布の下で、骨が軋む音がした。

「医者は『半年はまともに歩けまい』と言った。つまり、半年は船にも乗れない」

「医者は正しい」

 フアンは、立ち上がってコルテスに向き合った。

「だからこそ、今日の決闘は必要であった。お前の名誉を守るためにもな」

「名誉、か」

 コルテスの笑い声は、低く乾いていた。

「お前の弟に斬り倒され、兵たちの前で地に這いつくばったあれが、『名誉』か」

「立会人として、あれが限度だと判断した」

「そうさ。お前が手を上げたから、あの帳簿男は剣を収めた」

 コルテスは1歩、杖をつくように前へ進んだ。

「もし、お前がもう少し遅かったら、わたしはここにはいない。戦場で死ぬ機会も、1度きりの英雄になる機会も、全部あの場で終わっていた」

「誰のせいでもない。決闘はお前が望んだ」

「だが、止め時を決めたのは、お前だ」

 コルテスの声が静かになった。

「お前が弟を守った。わたしの脚と代わりに」

 短い沈黙が落ちた。

「だから、帳尻を合わせに来た」

 フアンは息を吸った。

「警備の兵はどこにいる」

「裏口の方で、金を握って寝ているよ」

 コルテスは、肩越しに廊下の闇を示した。

「今日はお前と話をしたいと言ったら、すぐに道を空けてくれた」

「愚か者め」

「愚か者がいるから、賢い者が儲かる」

 コルテスは、昼間のアルバロを思わせるような口ぶりで言った。

「お前の弟から学んだことだ」

「アルバロは、そんな形で人を教えた覚えはないはずだ」

「そうかもしれん」

 コルテスの手が、マントの中へと滑り込んだ。

「だが、あの男はわたしからメキシコを奪った。傷が癒えるころには、メキシコの黄金も都市も、すべて別の名前で呼ばれているだろう」

 鋼の光が、灯火の中でちらりと閃いた。

 フアンは、反射的に腰の剣に手を伸ばした。しかし、鞘にかけた指が柄に触れる前に、コルテスの短剣が胸元を貫いた。

 熱いものが喉の奥にこみ上げる。視界が揺れ、机の角が遠ざかっていく。

「お前が止めた時の分を、返しておくよ」

 コルテスの声が、遠くから聞こえた。

「弟の分も、まとめてな」

 フアンの体が床に倒れた音が、夜の屋敷に鈍く響いた。

 どれくらい時間が経ったのか、誰にも分からなかった。

 廊下を駆ける足音と、イサベルの悲鳴が、屋敷の静寂を破った。

「フアン!」

 扉が開き、イサベルが執務室になだれ込んできた。寝間着の上に羽織を引っかけただけの姿である。後ろから、アルバロが追いついた。

 床には、血の海が広がっていた。その中央で、フアンが仰向けになっている。胸の中央に、短剣の柄が突き立ったままであった。

「フアン、フアン!」

 イサベルは膝をつき、夫の名を呼び続けた。血で滑る床に手をつきながら、服を掴み、頬に触れる。

「だれか、医者を、神父様を!」

 叫びが屋敷中に響いた。

 アルバロは、1歩だけ近づき、兄の顔を見下ろした。目は半ば開き、天井の梁を見たまま固まっている。

 胸に刺さった短剣の柄には、見覚えのある装飾が施されていた。コルテスが昼間、腰に下げていたものと同じである。

 アルバロは、ゆっくりとそれを抜き取った。傷口から、最後の血が溢れ出る。

「兄上」

 声が、自分のものとは思えないほど乾いていた。

「勝った側だけが正しい、という話を、わたしに教えてくれたのはあなたでしたね」

 イサベルが顔を上げた。涙で濡れた瞳が、アルバロに向けられる。

「アルバロ……これは、いったい……」

「説明はあとです」

 アルバロは短く答えた。

「今は兄上に祈ってください。わたしは、これの持ち主に帳尻を合わせに行かなくてはなりません」

 短剣を布で包み、腰に差し込む。

 だが、その夜のうちにコルテスの姿は消えていた。港の見張り台の兵は、夜明け前に1隻の小舟が出ていくのを見たと言ったが、その行き先までは分からなかった。

 ◇ ◇ ◇

 数日のうちに、フアンの葬儀が執り行われた。

 聖堂には香の煙が立ちこめ、黒い衣の人々が列を作って棺の前を通り過ぎていく。イサベルは黒いヴェールの下で静かに座り、祭壇のろうそくの灯を見つめていた。

 アルバロは少し後ろに控え、参列者たちと共に祈りを捧げた。棺の中の兄の顔は、死の直前よりも穏やかに見えた。

 葬儀が終わるとすぐに、ベラスケス総督と司祭たちとの会合が開かれた。

「裏切り者め」

 総督は、机を拳で叩いた。

「わしの遠征も、わしの人間も、好き勝手に奪っていきおって」

 会合に呼ばれたアルバロは、静かに頭を下げた。

「総督殿。兄上の死は、コルテス殿の暴走であると、わたしは考えます」

「暴走では済まぬわ」

「だからこそ、今ここで遠征を止めるべきではありません」

 アルバロは顔を上げた。

「メキシコは、あなたと王室の前にあります。コルテス殿に奪わせるのではなく、正しい名義で手に入れるべきです」

「誰が行く」

「行くべきなのは、すでに決まっているはずです」

 アルバロは、ゆっくりと言った。

「兄上は生前、『第3次遠征隊の指揮はアルバロに任せるべきだ』と書簡に書きました。今ここで中止にすれば、兄上の死は無駄になります」

 ベラスケスは、机に置かれた書簡を握りしめた。そこには確かに、フアンの筆跡でそう記されている。

「しかし、お前は弟だ。兄の死の直後に、その妻と子どもたちを置いて海へ出るのか」

「置いては行きません」

 アルバロは、ごく自然に答えた。

「兄上の屋敷と畑と家族を守るのが、弟の務めです。わたしはそのすべてを、名と共に引き受けます」

 総督と司祭たちの視線が、彼の言葉を測るように集まった。

「喪の期間もある」と年長の司祭が言った。

「夫の死から日が浅い。イサベル夫人は悲嘆の中におられる」

「喪は大切です」

 アルバロはうなずいた。

「ですが、海はわたしたちの事情を待ってくれません。メキシコの海岸線は、今も誰かを待っています」

 彼は、ゆっくりと続けた。

「兄上は、わたしに家を託したのだと、わたしは受け取りました。ならば、その家を守るために、未亡人を1人にしておくわけにはいきません」

 ベラスケスが、重く息を吐いた。

「お前は、兄の妻を娶るつもりか」

「神と王とあなたが許すなら」

 アルバロは、まるで当たり前のことを口にするように言った。

「兄上の名と財産を守るために、そしてこの遠征を正しい形で成功させるために、それが1番よいと信じます」

 司祭たちは顔を見合わせた。律法と慣習と現実が、彼らの中でせめぎ合っている。

 最終的に、ベラスケスが口を開いた。

「特例として認めよう。イサベル夫人の意志を尊重することを条件にだ」

「感謝いたします」

 アルバロは、深く頭を下げた。

 ◇ ◇ ◇

 小さな礼拝堂に、静かな光が差し込んでいた。

 黒いヴェールをかぶったイサベルが、祭壇の前に立っている。その隣には、礼服に身を包んだアルバロがいた。

 フアンの葬儀から、まだ多くの日は経っていなかった。だが、総督の印章付きの書簡と司祭の許しにより、式は執り行われることになった。

「本当に、これでよいのですか」

 祭壇に向かう前、イサベルは小声で尋ねた。

「あなたは、兄上の代わりでしかないのではなくて」

「わたしは、兄上の代わりにはなれません」

 アルバロは、まっすぐに彼女を見た。

「兄上は1人だけの人です。わたしは、わたしとしてしかあなたを守れない」

 イサベルは、唇を噛んだ。

「わたくしは、あなたを……」

「答えを急がせるつもりはありません」

 アルバロは、わずかに首を振った。

「でも、兄上の名と家を守ることは、すでに決まってしまった。わたしはその役目から逃げません」

 彼は、かつて言った言葉を思い出していた。

 自分は善人ではない。だが、お義姉さまの前で恥ずかしくないやり方で悪党でありたい、と。

「イサベル。わたしは、あなたを利用するつもりでここに立っている」

 正直に告げると、イサベルは驚いたように目を見開いた。

「兄上の名誉のために。メキシコの海のために。そして、自分の欲のために」

 アルバロは、ほんの少しだけ笑った。

「だからせめて、その欲を、あなたにも役立つ形にしたい」

 イサベルは、長い沈黙のあとでうなずいた。

「あなたは、本当に悪い人ね」

「そう言ってもらえると、少し安心します」

 祭壇の前で、2人は誓いの言葉を交わした。

 鐘の音が、小さな礼拝堂に響いた。

 数日後、キューバの港に、再び帆柱が並んだ。

 第3次遠征隊の旗が掲げられた船団の中央に、アルバロの乗る旗艦がある。その甲板には、黒いヴェールを薄い紗に替えたイサベルが立っていた。

「海の匂いは、まだ慣れませんか」

「少しだけ」

 イサベルは、波間を見下ろした。

「でも、あの人も、この匂いを嗅いでいたのだと思うと」

「兄上のことですか」

「ええ。そして今は、あなたと同じ船に乗っているのだと」

 アルバロは、遠くにかすむ水平線を見た。

 その向こうに、ユカタンの岸がある。さらにその先には、まだ名前も知らぬ都市と、人々と、血と黄金が待っている。

「勝った側だけが、この海の名前を書き残せます」

 彼は、低く呟いた。

「兄上の名と、モリーナの名と、そしてあなたの名を、その中にきちんと入れておきたい」

 イサベルは、風に揺れるヴェールの下で彼を見上げた。

「あなたの名は」

「それは、最後に数えます」

 アルバロは、笑いながら言った。

「帳簿は、いつも他人の名前から埋めた方が、後で自分の取り分を増やしやすい」

 号砲の音が鳴り、帆が風をはらんだ。

 船団はゆっくりと港を離れ、ユカタン半島へ向けて進み始めた。

 アルバロは胸の奥で、静かにほくそ笑んだ。兄の血と、兄嫁の温もりと、未知の海の匂いを、1つの数字にまとめるように。
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