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第2章――「メキシコ遠征篇 テノチティトランと黄金と神々」
第3話――「ポトンチャン川口の戦い」
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1519年2月20日 夜明け前。メキシコ湾、ポトンチャン沖。
空はまだ墨色で、東の地平だけがかすかに白んでいた。静かな海の上に、アルバロの船団のマストが林のように並んでいる。帆は畳まれ、波が黒い船腹を軽く叩くたびに、舷側に白い筋がのぼった。
旗艦の甲板には、既に鎧姿の男たちが集まっていた。鉄の胸甲が薄明の光を拾い、吐く息が白く煙になる。タールと塩と汗の匂いが混ざり、どこかで馬がいらだたしげに蹄を鳴らした。
アルバロ・デ・モリーナは船首に立ち、前方の暗闇を見据えていた。厚い肩に革鎧、腰には幅広の剣。背後には弟たちが並ぶ。ペドロ、マルティン、フランシスコ、ルイス。いずれも肩にクロークをかけ、槍や指揮杖を握り直していた。
その一段低い場所、甲板の中央には黒い塊があった。ルシア・ベニテス率いる黒人奴隷精鋭部隊である。六十人の男たちが丸盾と長槍を持ってしゃがみ込み、船体の揺れに合わせてわずかに体を揺らしている。湿った夜気の中で、彼らの肌が鈍く光った。
「見えてきました」
見張り台から声が落ちてきた。アルバロが目を細めると、夜明け前の薄闇の向こうに黒い陸影がじわりと浮かぶ。川口のあたりだけ霧がたなびき、焚き火の橙色の点がいくつか瞬いていた。
「ポトンチャンだ」
アルバロは短く言い、弟たちを振り返った。
「砲声で挨拶をする。ルシアの部隊が先に水へ降りる。川岸が固まるまで騎兵は待て」
「了解した」
ペドロがうなずいた。彼の背後では馬を積んだ艀の係留索が確認され、兵たちが舟の縁に腰掛けている。マルティンはアーケブスと弓兵を集め、矢と火皿の具合を最後に確かめていた。
ルシアは一歩、アルバロのそばに進み出た。白い麻のシャツに黒い革の胴着。首の翡翠の石が、うす青く光る海面を背景に小さく揺れる。
「合図をいただければ、すぐに降ります」
「頼むぞ」
アルバロはその肩を軽く叩いた。彼女は微笑みもせず、静かにうなずく。
「黒い連中、聞け」
ルシアが振り返り、低く通る声を張った。
「最初に水へ入るのは私たちだ。波に足をすくわれるな。盾を前に、槍を胸の高さに。川岸に届くまで、誰一人倒れるな」
黒人たちの答えは短い掛け声だけだったが、その響きが船板を震わせた。
東の雲がわずかに朱を帯び始める。アルバロは右手を上げた。
「砲手、用意」
旗艦の舷側で砲手たちが動き、鉄の筒を岸の方へ向ける。黒い口が、まだ見ぬ敵へ並んだ。
「撃て」
轟音が夜明け前の海を裂いた。白煙が甲板を包み、硫黄の匂いがむせるほど濃くなる。しばらくして、岸の方から土煙が上がるのが見えた。眠っていた町のどこかが叩き起こされたように震える。
「行くぞ。ルシア!」
「聞こえています!」
ルシアが盾を掲げ、先頭の男たちとともに舷側へ走る。縄梯子が海面に垂らされ、彼女は迷いなく足をかけた。冷たい水しぶきが跳ね、黒人たちが次々と後に続く。
海は思ったより浅かった。腰のあたりまで茶色い水に浸かりながら、彼らは盾を前に槍を構える。霧の向こうから矢が飛んできた。細い影が水面を切り、いくつかの盾に突き立つ。
「構わず進め!」
ルシアが叫ぶ。水を蹴る音が、百の足音のように重なった。
やがて霧の向こうからプトゥン人の戦士たちが姿を現す。木の盾、石刃の棍棒、長槍。顔に赤や黒の顔料を塗り、髪に色鮮やかな羽飾りを揺らしている。
彼らが一斉に叫び、川へ駆け下りた。投槍が弧を描き、石の尖端が水面に突き立つ。何本かが黒人兵の盾をかすめ、はじけた水しぶきが頬を打った。
「盾を重ねろ!」
ルシアが前列の肩を叩く。丸盾が半分ずつ重なり、粗いが厚い壁ができた。矢と投槍がその壁を叩き、鈍い音を立てて落ちる。
その陰から、二列目が槍を突き出した。水の抵抗をものともせず黒い腕が伸び、先端が敵の盾や胸に食い込む。悲鳴が霧の中に散った。
岸の上では、マルティンのアーケブス兵が火を吹いた。乾いた破裂音のあと、前列にいたプトゥン人が何人か糸の切れた人形のように倒れる。初めて聞く鉄砲の音に、敵の列が一瞬ざわついた。
「今だ、押せ!」
ルシアの声が海面に響く。黒人たちが一斉に前へ身体を預けた。盾の壁がぐっと押し上がり、川岸の泥を踏みしめる。足が固い地面に届いた瞬間、彼らは一斉に喊声を上げた。
アルバロはその様子を甲板から見ていた。霧の中で黒と赤の塊がぶつかり合い、槍と棍棒が入り乱れる。口元に笑みが浮かぶ。
「いい仕事だ、ルシア」
彼は副官に合図を送った。
「歩兵、出せ。フランシスコ、ルイス!」
小舟が船腹から放たれ、スペイン歩兵が次々と乗り込んでいく。鉄の鎧が軋み、丸盾と長剣がぶつかる音が狭い舟の中に満ちた。
アルバロ自身も板橋を渡って舟のひとつに乗り込む。舷側を越えた瞬間、海風が顔を叩いた。舟が波を切り、黒人兵たちの後ろにつける。
浅瀬に舟底が擦れた。アルバロは真っ先に飛び降りる。水が膝まで跳ね上がり、冷たさが鎧の隙間から染み込んだ。
「モリーナの者ども、続け!」
彼が叫ぶと、弟たちが後に続いた。フランシスコとルイスが各々の隊を率いて岸へ駆け上がる。泥で滑りそうになる足元を、黒人兵の盾が支えた。盾を斜めに立てて足場を作り、その上をスペイン兵が踏み越えていく。
ルシアは既に一歩前へ出ていた。顔に血と泥の筋をつけ、槍の柄で敵の棍棒を払う。彼女のすぐ脇を一本の矢がかすめ、髪の先をほんの少し切り落とした。
アルバロはその横に並び、最初の敵と向き合う。羽飾りをつけた若い戦士が叫び声とともに棍棒を振り下ろした。アルバロは半歩だけ前に出て丸盾でそれを受け止める。石刃が火花を散らし、腕に鈍い衝撃が走った。
その反動を利用し、アルバロは剣を横に払った。刃が相手の胸を斜めに切り裂く。熱い血が泥と混じって足元に飛び散り、若者は何が起きたかわからない顔のまま崩れ落ちた。
「下がるな!」
彼はスペイン兵にも黒人兵にも聞こえるように声を張った。
「この川は、今日から我々のものだ!」
叫びに応じるように、ルシアが盾を叩き、黒人たちが唱和した。敵の列がじわじわと押し戻され、ついには岸の坂道まで退く。上から新たな戦士が駆け下りてくるが、そこへマルティンの弓矢と銃弾が飛び込んだ。
やがてプトゥン人の叫び声の調子が変わった。怒号から、不安と恐怖の混じった声へ。何人かが背を向け森の方へ走り出す。残った者たちも、仲間につられるように散り散りになった。
「追うな」
アルバロは息を整えながら言った。剣先から落ちる血を振り払い、額の汗を腕で拭う。
「港と倉庫を押さえる。余計な血は要らん」
彼はルシアを見る。彼女の肩で荒い息が上下していた。
「よくやった」
「まだ立てます」
ルシアは短く答えた。唇の端に、わずかな笑みがあった。
「なら港の入口を固めろ。トマスに橋をかけさせろ。ここから先は仕事だ」
「命令のままに」
ルシアが黒人たちに合図を送ると、彼らはすぐに散開し、捕らえた舟を引き上げ、杭を打ち始めた。さっきまで戦場だった川岸は、たちまち橋頭堡づくりの現場に変わる。
霧が晴れ始め、ポトンチャンの町並みが見えてきた。低い家々の屋根、煙を上げる炉、遠くに並ぶ倉庫。どこからか焙った豆の香りがかすかに漂ってきた。甘く、苦く、鼻の奥に残る匂いだった。
「カカオか」
アルバロは小さくつぶやいた。
「気に入ったぞ、この匂い」
川面を渡る風が、その香りをさらに濃く運んできた。
空はまだ墨色で、東の地平だけがかすかに白んでいた。静かな海の上に、アルバロの船団のマストが林のように並んでいる。帆は畳まれ、波が黒い船腹を軽く叩くたびに、舷側に白い筋がのぼった。
旗艦の甲板には、既に鎧姿の男たちが集まっていた。鉄の胸甲が薄明の光を拾い、吐く息が白く煙になる。タールと塩と汗の匂いが混ざり、どこかで馬がいらだたしげに蹄を鳴らした。
アルバロ・デ・モリーナは船首に立ち、前方の暗闇を見据えていた。厚い肩に革鎧、腰には幅広の剣。背後には弟たちが並ぶ。ペドロ、マルティン、フランシスコ、ルイス。いずれも肩にクロークをかけ、槍や指揮杖を握り直していた。
その一段低い場所、甲板の中央には黒い塊があった。ルシア・ベニテス率いる黒人奴隷精鋭部隊である。六十人の男たちが丸盾と長槍を持ってしゃがみ込み、船体の揺れに合わせてわずかに体を揺らしている。湿った夜気の中で、彼らの肌が鈍く光った。
「見えてきました」
見張り台から声が落ちてきた。アルバロが目を細めると、夜明け前の薄闇の向こうに黒い陸影がじわりと浮かぶ。川口のあたりだけ霧がたなびき、焚き火の橙色の点がいくつか瞬いていた。
「ポトンチャンだ」
アルバロは短く言い、弟たちを振り返った。
「砲声で挨拶をする。ルシアの部隊が先に水へ降りる。川岸が固まるまで騎兵は待て」
「了解した」
ペドロがうなずいた。彼の背後では馬を積んだ艀の係留索が確認され、兵たちが舟の縁に腰掛けている。マルティンはアーケブスと弓兵を集め、矢と火皿の具合を最後に確かめていた。
ルシアは一歩、アルバロのそばに進み出た。白い麻のシャツに黒い革の胴着。首の翡翠の石が、うす青く光る海面を背景に小さく揺れる。
「合図をいただければ、すぐに降ります」
「頼むぞ」
アルバロはその肩を軽く叩いた。彼女は微笑みもせず、静かにうなずく。
「黒い連中、聞け」
ルシアが振り返り、低く通る声を張った。
「最初に水へ入るのは私たちだ。波に足をすくわれるな。盾を前に、槍を胸の高さに。川岸に届くまで、誰一人倒れるな」
黒人たちの答えは短い掛け声だけだったが、その響きが船板を震わせた。
東の雲がわずかに朱を帯び始める。アルバロは右手を上げた。
「砲手、用意」
旗艦の舷側で砲手たちが動き、鉄の筒を岸の方へ向ける。黒い口が、まだ見ぬ敵へ並んだ。
「撃て」
轟音が夜明け前の海を裂いた。白煙が甲板を包み、硫黄の匂いがむせるほど濃くなる。しばらくして、岸の方から土煙が上がるのが見えた。眠っていた町のどこかが叩き起こされたように震える。
「行くぞ。ルシア!」
「聞こえています!」
ルシアが盾を掲げ、先頭の男たちとともに舷側へ走る。縄梯子が海面に垂らされ、彼女は迷いなく足をかけた。冷たい水しぶきが跳ね、黒人たちが次々と後に続く。
海は思ったより浅かった。腰のあたりまで茶色い水に浸かりながら、彼らは盾を前に槍を構える。霧の向こうから矢が飛んできた。細い影が水面を切り、いくつかの盾に突き立つ。
「構わず進め!」
ルシアが叫ぶ。水を蹴る音が、百の足音のように重なった。
やがて霧の向こうからプトゥン人の戦士たちが姿を現す。木の盾、石刃の棍棒、長槍。顔に赤や黒の顔料を塗り、髪に色鮮やかな羽飾りを揺らしている。
彼らが一斉に叫び、川へ駆け下りた。投槍が弧を描き、石の尖端が水面に突き立つ。何本かが黒人兵の盾をかすめ、はじけた水しぶきが頬を打った。
「盾を重ねろ!」
ルシアが前列の肩を叩く。丸盾が半分ずつ重なり、粗いが厚い壁ができた。矢と投槍がその壁を叩き、鈍い音を立てて落ちる。
その陰から、二列目が槍を突き出した。水の抵抗をものともせず黒い腕が伸び、先端が敵の盾や胸に食い込む。悲鳴が霧の中に散った。
岸の上では、マルティンのアーケブス兵が火を吹いた。乾いた破裂音のあと、前列にいたプトゥン人が何人か糸の切れた人形のように倒れる。初めて聞く鉄砲の音に、敵の列が一瞬ざわついた。
「今だ、押せ!」
ルシアの声が海面に響く。黒人たちが一斉に前へ身体を預けた。盾の壁がぐっと押し上がり、川岸の泥を踏みしめる。足が固い地面に届いた瞬間、彼らは一斉に喊声を上げた。
アルバロはその様子を甲板から見ていた。霧の中で黒と赤の塊がぶつかり合い、槍と棍棒が入り乱れる。口元に笑みが浮かぶ。
「いい仕事だ、ルシア」
彼は副官に合図を送った。
「歩兵、出せ。フランシスコ、ルイス!」
小舟が船腹から放たれ、スペイン歩兵が次々と乗り込んでいく。鉄の鎧が軋み、丸盾と長剣がぶつかる音が狭い舟の中に満ちた。
アルバロ自身も板橋を渡って舟のひとつに乗り込む。舷側を越えた瞬間、海風が顔を叩いた。舟が波を切り、黒人兵たちの後ろにつける。
浅瀬に舟底が擦れた。アルバロは真っ先に飛び降りる。水が膝まで跳ね上がり、冷たさが鎧の隙間から染み込んだ。
「モリーナの者ども、続け!」
彼が叫ぶと、弟たちが後に続いた。フランシスコとルイスが各々の隊を率いて岸へ駆け上がる。泥で滑りそうになる足元を、黒人兵の盾が支えた。盾を斜めに立てて足場を作り、その上をスペイン兵が踏み越えていく。
ルシアは既に一歩前へ出ていた。顔に血と泥の筋をつけ、槍の柄で敵の棍棒を払う。彼女のすぐ脇を一本の矢がかすめ、髪の先をほんの少し切り落とした。
アルバロはその横に並び、最初の敵と向き合う。羽飾りをつけた若い戦士が叫び声とともに棍棒を振り下ろした。アルバロは半歩だけ前に出て丸盾でそれを受け止める。石刃が火花を散らし、腕に鈍い衝撃が走った。
その反動を利用し、アルバロは剣を横に払った。刃が相手の胸を斜めに切り裂く。熱い血が泥と混じって足元に飛び散り、若者は何が起きたかわからない顔のまま崩れ落ちた。
「下がるな!」
彼はスペイン兵にも黒人兵にも聞こえるように声を張った。
「この川は、今日から我々のものだ!」
叫びに応じるように、ルシアが盾を叩き、黒人たちが唱和した。敵の列がじわじわと押し戻され、ついには岸の坂道まで退く。上から新たな戦士が駆け下りてくるが、そこへマルティンの弓矢と銃弾が飛び込んだ。
やがてプトゥン人の叫び声の調子が変わった。怒号から、不安と恐怖の混じった声へ。何人かが背を向け森の方へ走り出す。残った者たちも、仲間につられるように散り散りになった。
「追うな」
アルバロは息を整えながら言った。剣先から落ちる血を振り払い、額の汗を腕で拭う。
「港と倉庫を押さえる。余計な血は要らん」
彼はルシアを見る。彼女の肩で荒い息が上下していた。
「よくやった」
「まだ立てます」
ルシアは短く答えた。唇の端に、わずかな笑みがあった。
「なら港の入口を固めろ。トマスに橋をかけさせろ。ここから先は仕事だ」
「命令のままに」
ルシアが黒人たちに合図を送ると、彼らはすぐに散開し、捕らえた舟を引き上げ、杭を打ち始めた。さっきまで戦場だった川岸は、たちまち橋頭堡づくりの現場に変わる。
霧が晴れ始め、ポトンチャンの町並みが見えてきた。低い家々の屋根、煙を上げる炉、遠くに並ぶ倉庫。どこからか焙った豆の香りがかすかに漂ってきた。甘く、苦く、鼻の奥に残る匂いだった。
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