ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

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第2章――「メキシコ遠征篇 テノチティトランと黄金と神々」

第5話――「六弟ルイスと酋長の娘(前編)」

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 1519年2月21日 午前。ポトンチャン、川沿いの仮の広場。

 湿った土の匂いと、焙ったカカオ豆の香りが混ざっていた。昨日の戦いで踏み荒らされた河畔には、倒木と壊れた舟がまだ転がっている。それでも町の中央の広場には、色鮮やかな羽飾りをつけた男たちが集まり、土壁の家々の影から女や子どもが不安げにこちらを覗いていた。

 アルバロ・デ・モリーナは、川に近い平らな場所に椅子を据え、足を組んで座っていた。左右にはペドロとマルティンが控え、背後にはルシア率いる黒人兵の列が盾を抱えて立っている。向かい側には、プトゥン人の酋長と長老たちが並んで座っていた。顔には赤や黒の顔料が残り、胸には貝殻や翡翠の飾りが光っている。

 通訳役のインディオが、一語ずつ慎重に言葉を運んだ。

「酋長は言っている。『我らは昨日、十分に血を流した。お前たちは強い。港も倉庫も、お前たちのものだ。だが、森と川の奥の村々までは、まだ我らのものだ』」

「森の奥の村々とは、どこのことだ」

 アルバロは顎に指を添え、通訳の顔を見た。

「川をさかのぼった先、チャクトゥンの森のマヤ族です。プトゥン人の親族のようなもので、女をやりとりして同盟を結んできた、と」

「なるほど」

 アルバロは小さくうなずいた。

「我々の望みは単純であると伝えろ。この港と川を通るカカオと塩と羽毛、そのすべてに我々の印を通すことだ。酋長と森のマヤ族が我々に膝を折るなら、町も畑も焼かない。むしろ敵から守る。そう言ってやれ」

 通訳が早口で言葉を返すと、酋長は深く刻まれた顔に皺を寄せた。翡翠の耳飾りがわずかに揺れる。

「酋長は聞いている。『お前たちの王は遠い海の向こうにいる。なぜ我らがその王に従わねばならぬ。ここにはテノチティトランの王もいるのだ』」

「だからこそだ」

 アルバロは、片方の口角をわずかに吊り上げた。

「テノチティトランの王は、この港のカカオを当たり前のように飲んでいる。だが、王は海を知らない。海の外から来る者を知らない。我々は海を越えてここまで来た。港を握った者の方が強いと教えるときが来たのだと伝えろ」

 酋長はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。

「酋長は言う。『お前の剣は見た。娘や孫たちを飢えさせないと約束するなら、我らはカカオを運ぶ。だが森のマヤ族は気難しい。言葉だけでは動かぬ』」

「なら、血で結ぶしかないな」

 アルバロは空を仰ぎ、鋭い日差しを一度だけ眩しそうに細めた。

「互いの家から誰かを出し、縁を結ぶ。こちらは既に妻を連れているが、弟たちはまだ独り者が多い。機会があれば考えよう、と酋長に言っておけ」

 背後で、弟たちのうち何人かがわずかに身じろぎした。

 その中でも、六弟ルイス・デ・モリーナは黙ったまま前を見ていた。17歳の顔にはまだ少年のあどけなさが残っていたが、灰色の瞳は戦いの最中と同じように冷静で、広場を埋めるプトゥン人たちの顔と動きをひとりでに数えていた。

 ◇ ◇ ◇

 午後になると、河畔の緊張は少し和らいだ。スペイン兵と黒人兵は交代で見張りにつき、プトゥン人たちは壊れた舟を修理し始めた。

 ルイスはひとりで歩きながら、簡素な市場の跡を眺めていた。土の上には、潰れたカカオ豆や、割れた器の欠片、羽飾りの一部が散らばっている。

 ふと、家々の陰から女たちが現れた。大きな石の上で豆を挽く者、子どもを抱く者。色鮮やかな布を腰に巻き、髪に花や羽を差している。

 その中のひとりに、ルイスの視線が止まった。

 背は高くないが、しなやかな腕と、黒曜石のような瞳を持つ娘であった。髪を後ろでまとめ、額には細い赤い紐を巻いている。腰布の端には、赤と青の模様が縫い込まれていた。彼女が豆を挽くたび、肩から腕にかけて滑らかな筋肉が動いた。

 ルイスは思わず足を止めた。

 娘がこちらに気づき、一瞬だけ目が合った。驚いたように瞬きをしたあと、彼女は友だちらしい別の娘に何かを囁き、笑い声をこぼした。言葉は分からないが、声の音だけで胸の奥がざわついた。

「おい、ルイス」

 背後からフランシスコの声が飛んだ。

「何を突っ立っている。そんなところに宝はないぞ」

「うるさいな」

 ルイスは視線をそらさずに答えた。

「宝があるかどうかは、掘ってみないと分からない」

 フランシスコは肩をすくめ、弟の視線の先を追った。

「なるほど。豆を挽く女か。趣味がいいのか悪いのか、まだ判断できん」

「黙っていてくれ」

 ルイスは、近くで荷を数えていた通訳のインディオを呼んだ。

「おい、あの娘は誰だ」

 インディオは目を細め、女たちの方をちらりと見た。

「赤い紐を巻いている方は、商人の娘だ。名はイシュタと言う。酋長の家と親しい家の子だ。隣にいる、鼻の大きな娘は酋長の娘のひとり、チャックニクだ」

「イシュタ」

 ルイスはその名を口の中で転がした。

「言葉は通じるのか」

「少しなら。しかし、あの女たちは今、お前たちを怖がっている。近づけば走って逃げるだろう」

 実際、イシュタは彼らの視線に気づくと、豆を挽く手を止め、友だちの腕を引いて家の陰に消えてしまった。

 胸の中に、得体の知れない焦りが生まれた。戦場では迷わない脚が、その場から一歩も動けなかった。

 ◇ ◇ ◇

 夜。

 ポトンチャンの上に、星がびっしりと浮かんでいた。川面には月の筋が伸び、仮橋の杭に結ばれた舟が静かにきしんでいる。

 スペインの陣では、焚き火の火が小さくなり、交代の夜番だけが歩き回っていた。

 ルイスは簡素な天幕の中で、寝台の上に肘をついていた。鎧は脱いで麻のシャツ姿になっているが、瞼に浮かぶのは昼間見たイシュタの顔であった。豆を挽く腕の動き、笑ったときにわずかに上がる口元。

 フランシスコが寝台から身を起こし、弟を見た。

「まだ起きているのか。明日も忙しいぞ」

「……兄上」

 ルイスは、おずおずと口を開いた。

「あの娘の家がどこか、聞いているか」

「まさか」

 フランシスコは目を丸くした。

「戦が終わったばかりだぞ。お前、酋長が目の前にいるのを忘れたのか」

「忘れていない」

 ルイスは静かに首を振った。

「だからこそである。明日になれば、あの娘がどこかへ隠されるかもしれない。森の村へ連れて行かれれば、二度と会えない」

「それで、今夜のうちに口説きに行くと?」

「口説くと言っても、言葉は通じないが」

 自分でも馬鹿げた話だと思っていた。しかし血の流れはそれを止めなかった。

 フランシスコはしばらく黙って弟の顔を見ていたが、やがてふっと笑った。

「いいだろう。一度くらいは若気の至りも悪くない。だが、捕まったらお前ひとりで怒りを買え。俺は知らん」

「感謝する」

 ルイスは小さくうなずいた。

 彼は通訳を呼び出し、焚き火の陰で低い声で問いただした。

「イシュタの家はどこだ」

 老人は眉をひそめた。

「それを聞いてどうする」

「礼を言いたいだけだ。今日の戦で、水を運んでくれたのだろう」

 老人は半ば信じたような顔で溜息をついた。

「赤い布を入り口に垂らしている家がある。あれがその女の家だ。ただし、酋長の家の近くだ。騒ぎを起こせば、すぐに見つかる」

「静かに行って、静かに戻る」

 ルイスはそう答え、短剣とマントだけを身につけた。

 仮橋を渡るとき、川風が足元を撫でた。月明かりの下、ポトンチャンの家々は土と木でできた影になって並んでいる。犬がどこかで低く唸り、すぐに黙った。

 教えられた通り、赤い布を入り口に垂らした家がひとつだけあった。

 ルイスは深く息を吸った。

 扉はなく、布の向こうには暗闇があるだけであった。耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえた。

 彼は布を音を立てないようにめくり、身を滑り込ませた。

 中には、粗い寝台がひとつ。その上に、毛布をかぶった小さな影が横たわっていた。

 ルイスはそっと近づき、膝をついた。

 闇に慣れた目には、夜の中でも輪郭が見えた。髪は長く、太い三つ編みにされている。額には布の陰で何も見えない。

 彼は震える手で少女の肩に触れた。

「起きろ。声を上げるな」

 スペイン語は当然通じなかった。しかし低い声と手の力は意味を伝えたらしい。影がびくりと震え、毛布の下で身を縮めた。

 口を塞ぎ、短い言葉を重ねる。

「怖がるな。悪いことはしない」

 自分でも、その言葉がどれほど頼りないものか分かっていた。それでも、彼は少女を立ち上がらせた。

 家の外へ出るとき、月が少し顔を出した。横顔がかすかに照らされた。

 ルイスの胸に、安堵と興奮が一度に押し寄せた。

 彼は娘の肩を抱き、仮橋を渡り直した。スペイン陣の外れにある、空いた倉庫小屋に彼女を連れ込み、内側から戸を閉めた。

 その夜、ふたりがどんな言葉を交わしたのかを知る者はいない。言葉が通じぬ以上、交わされたのは言葉以外のものであった。若い血の勢いと、恐れと、どうしようもない衝動だけが、狭い小屋の中に渦巻いた。
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